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野間大坊(3)家康の保護。代々の住職は水野氏

こんにちは。


源義朝のお墓のあるのは、野間大坊(大御堂寺)


『尾張名所図会』「大御堂寺」

現在もこの『尾張名所図会』とほぼ同じで、あっけらかんとした明るい境内です。


ほめてますほめてます。


正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)、通称「野間大坊」。

真言宗のお寺です。

寺伝では、天武天皇(673~686)時代に『阿弥陀寺』として建立、弘法大師(空海)がこの地で一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈り、承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されたといいます。(野間大坊HPより)


文書に記録が残る由緒では、『吾妻鏡』


平康頼が文治2年(1186)に小堂を建て、

建久元年(1190)源頼朝が本堂、講堂、食堂、開山堂、鐘楼、浴室堂及五重塔、相輪塔、仁王門、客殿等の大伽藍を再建。

本尊は、頼朝の念持仏(秘仏)。


『尾張名所図会』「(頼朝の)義朝公尊霊供養の図(文治6年)」


【野間大坊踏んだり蹴ったり】

頼朝により七堂伽藍が整えられるも、


享禄4年(1531)兵火にあい、


仏様と建久元年(1190)源頼朝が建てたと伝わる大門以外を焼失。


文久3年(1534)再び伽藍を修造するも天正年間(1573-)に織田信長により領地没収。

文禄4年(1595)豊臣秀吉が194石3斗3升の朱印地を寄附。


慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で大半を焼失。

※関ヶ原の戦いで、西軍の九鬼嘉隆の水軍は知多半島へ上陸し、ファイヤーしてます。


お向かいさんだもんな。くそっ。

野間大坊、踏んだり蹴ったり。


【救いの神は家康くん】


家康は野間大坊を厚く保護。

武格11万石の朱印を与え、各種武格の特権を附与。

捕鹿免状(後に犬山の成瀬さんへ)、鷹狩免許状(現存)を授与(・・・え)。



家康から鉄砲の所有権を与えられ、小規模ながら僧兵もあり。

寺奉行は野間の須賀川家で、火薬、鉄砲を管理(明治以降は花火を製造)。


諸々を取り仕切ったのは、大御堂寺中興開山・長圓法印

この人は、家康の母方(水野氏)の従兄弟です。

さぁ、家康の外戚、水野氏登場です。


水野氏は、尾張国南部の知多半島と三河国西部を中心とした一族で、戦国期の尾張三河においては織田、松平と並ぶほどの大豪族でした。

で。

水野氏宗家は徳川家康の母・伝通院(於大の方)の実家

於大の方の兄弟の水野忠守の子に、水野守信(家康の従兄弟)


尾張藩主・徳川義直の命により野間大坊の住職は、水野守信の家系、もしくは、守信の妻の河和水野氏から出すことを定められます。



現住職も水野さん。

が。


江戸時代にも火災が起きて、焼失。


本堂は、尾張藩による宝暦4年(1754)の再建。

ほんとにまぁ、踏んだり蹴ったり。


野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50



参考文献

『野間町史』(「美浜ふるさと研究会叢書第3巻」/旧野間町著・山本豊治郎ほか編纂/美浜ふるさと研究会/2001)

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」
図会は、「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/

本尊は野間大坊ホムペでお姿が拝見できます。
野間大坊公式ホームページ
http://nomadaibou.jp/


いつも応援いただきありがとうございます。
信長が奪い秀吉がごまをすり、家康が建て直す。オールスターな足跡です。地図を見れば一目瞭然ですが、知多半島を含む伊勢湾は水軍が闊歩する歴史もあります。いつかゆっくり伊勢湾水運を調べたいです。さて。家康は源氏を称しているので、源義朝を弔う野間大坊は特別な存在であったのでしょうね。

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野間大坊(2)頼朝、上洛途中で義朝墓所へ。平康頼に感謝

こんにちは。


はい、どうも~♪

こちらは、大門。


建久元年(1190)、頼朝により建てられたと伝わる門です。


【頼朝の上洛】

建久元年(1190)、平家追討や奥州征伐を終えた頼朝は、後白河法皇の要請により大軍を率いて上洛します。


『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』


10月3日。頼朝は鎌倉を出発。

先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤。
先陣が懐島(現神奈川県茅ケ崎市)に着いた時、後陣はまだ鎌倉を出ていなかったというほどの大行列でした。


10月25日。尾張に到着。

頼朝は、野間庄(美浜町野間)にある父義朝の廟堂に参ります。


平治の乱は平治元年(1160)12月9日、義朝死没は翌年1月3日。

頼朝が野間を訪れた時には、義朝の死後30年が経過していました。


10月25日丙午
尾張の国御家人・須細治部大夫為基を以て案内者と為し、当国野間庄に到り、故左典厩の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。

この墳墓荊棘(いばら)に掩われ、薜蘿(葛)を払わざるかの由、日来は関東に於いて遙かに懐き遣わしめ給うの処、仏閣扉を排き、荘厳の粧い眼を遮る。僧衆座を構え、転経の声耳に満つなり

二品これを怪しみ、疑氷を解かんが為、濫觴を尋ねらるるの処、前の廷尉康頼入道国の守たるの時、水田三十町を寄付せしめてより以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると。

この事、康頼入道の殊功に謝せんが為、兼日一村を賜うと雖も、彼の任国は往年の事なり。行業定めて廃絶せしむか。潤餝を加うべきの由思し食すの処、鄭重の儀親しくこれを覧る。
いよいよ禅門の懇志を憐み、更に古塚の結構を感じ給う。
また数十許輩の龍象を屈し、二十五三昧の勤行を修せらる。口別に綿衣二領・曝布十端これを施し給うと。
(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)



『尾張名所図会』野間大坊(大御堂寺)


建久元年(1190)10月25日。
尾張国野間庄に着いた頼朝は、亡き父、左馬頭義朝の墓所をお参りします。

草がもじゃもじゃだろなと思ってたら、お堂の扉を開ければ荘厳で、読経の声も聞こえます。

「Why?」

以前、元檢非違使の平康頼入道が尾張に赴任した時、水田三十町(30ha)をここへ寄附。以後、一つのお堂を建立し弔っていると。

頼朝は以前、康頼入道の殊功へ感謝して、村を一つ領地として与えましたが、彼の赴任は昔の事。

きっと廃れているに違いないと予想してたのに、感謝感激雨あられ。

頼朝は、十人以上の偉い僧侶を選び南無阿弥陀仏の勤行をさせ。
一人ずつに綿入れを二着、さらしを十反づつお布施として与えましたとさ。

※口→お坊さんの「人数」は、一人二人でなく一口二口と数えます。
 ・・・お坊さんはお口ばっかし?



きちんとお手入れされてて頼朝は嬉しかっただろうなー。


伝・平康頼墓

※平康頼の没年は承久2年(1220)のため頼朝訪問時は存命
 境内の既存のものを後世に平康頼墓としたらしい


平康頼が敵方である源義朝の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した当時は、尾張国目代。

国司ではなく、目代に過ぎない立場でここまでした気持ちがよろしい。

ってことで、平家一門だけでなく後白河法皇もお気に召し。

後白河法皇により検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、「平判官」と称します。(院の近習、北面の武士)


安元3年(1177)6月。平家打倒計画(藤原成親・西光・俊寛達)「鹿ケ谷の陰謀」の密議に加わり、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されるも、翌年、成経と康頼のみ赦免、京へ。

平家滅亡後の文治2年(1186)。頼朝により阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命され、承久2年(1220)没。


【頼朝の熱田社参詣】

頼朝は野間を訪れた翌々日、熱田神宮(熱田社)を訪れています。

10月27日 戊申
御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬を致さると。

(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)


母・由良御前は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘。

頼朝にとって、藤原季範は外祖父。

頼朝と他の兄弟達との決定的な差は、この母の血筋の良さでした。




『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
五雲亭貞秀著/藤岡屋慶次郎発行/文久2年

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」

上記二点「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/

『吾妻鏡』読み下し文
東鑑目録(汲古書院発刊の「ふり仮名付き「吾妻鏡」寛永版影印」)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html


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頼朝上洛時の「先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤」にツボります。北条義時や小山朝政達の名前を探して『吾妻鏡』の諸行事の名簿に釘付けになったむかしむかし。でもこれ、『吾妻鏡』の楽しみ方のひとつだと思うんですよねぇー。うふふふ。

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野間大坊(1)源義朝の最期。お風呂たいむは要注意です

こんにちは。


お風呂たいむは要注意のお話。


源義朝は、関東を拠点に成長し、やがて都へ。

正室は、由良御前。

由良御前の父は、藤原季範(すえのり)。


熱田大宮司の位を外祖父「尾張員職」から「霊夢の託宣」により譲られた人。

つまり義朝の「妻の実家」は熱田大宮司ですが、長く努めた「尾張氏」ではなく「藤原氏」。


保元の乱では後白河天皇方。
生まれ育った東国の武士団を率いて参陣、勝利。
後ろ楯に、妻の実家「藤原氏の熱田大宮司家」。

平治の乱では、義朝軍は壊滅状態となり、東国を目指し敗走。


当初の同行者は、息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清斎藤実盛・渋谷金王丸達。

道中、朝長・義隆・重成は落武者狩りで落命、頼朝ははぐれ、残ったのは、乳兄弟の鎌田政清等。


父の手で最期をむかえたけなげな朝長は能「朝長」に描かれます。

子供達と離ればなれになった義朝は、


東海道を東へ進み、途中から海路で、尾張国野間へ。

野間にいたのは、

乳兄弟の鎌田政清の妻の父であり、義朝の家人でもある長田(おさだ)忠致・景致親子。


一息ついた義朝のお風呂たいむを狙った犯人です。


『尾張名所図会』前編巻6「義朝最後の図」

義朝、裸で応戦するも、落命。

享年38。


義朝の危機を知った手勢と長田親子側が乱戦になったと伝わる乱橋。


義朝の首を洗ったと伝わる血の池。


そして、木刀の山に埋もれる義朝の墓。

最期に「僕に木刀の1本でもあったならー!!」と言ったことにちなみます。


源義朝の墓があるのは、野間大坊(大御堂寺)。

つづく


◆お久しぶりの斎藤実盛◆

義朝に仕えた者の中には、斎藤実盛。


義朝の異母弟で義朝の子の義平に討たれた主・義賢の遺児である後の木曽義仲を信濃国へ送り届け

改めて仕えた主の義朝死後は、平氏に仕え年を経て


木曽義仲との戦い前には白髪を黒く染め、最後まで名乗らず義仲の手勢に討たれ、義仲を号泣させた実盛です。

よろしければ渾身の作をご笑納くださいませ♪

お話上手な斎藤実盛、維盛をびびらせる

平家物語「実盛最期」

故郷に錦を着て帰る。実盛のお洒落決意

能「実盛」老武者の決意と執心


いつも応援いただきありがとうございます。
享年38て、(今なら)若いなぁ。野間でご褒美欲しさに義朝を討った長田(おさだ)親子は、まぁ当時としたら当たり前のことをしたにすぎないかもしれませんが、愛知県民としてはちょっと恥ずかしい。義朝の孫になる頼家も修善寺でお風呂たいむに討たれたとか。こっちは男性にしかわからないえらく痛いことをされたそうで。お気の毒に。

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恋人の聖地・野間灯台。子猫ちゃん達、美浜幕府で待ってるぜ

こんにちは。


いえーい♪


やっぱりね、旅に出たら海を見なくちゃね。


伊勢湾ですよ。


せっかく岩が濡れてるとこまで来たのに。

波の根性なしめっ。


大丈夫。お着替え一式持ってるから。ふふふ。


今、ここ。

知多半島西岸にある、野間灯台です。

名古屋市内から小一時間ほど。

ちょっと海が見たいぜ、ってときによく来てました。

・・・親子でね。ほっほっほ。


あら。こんな地味な灯台だったかしら?


あ、お顔があったあった。

灯台にも、正面と後ろがあるんだなー。


【野間灯台】

正式名称は「野間崎灯台」。

大正10年(1921)に設置された高さ18メートルの愛知県最古の灯台。

2008年の改修工事でレンズをLEDに交換。

光度が1万5千cdから590cdに、光達距離が約25キロメートルから約15キロメートルになりましたが、省電力化され災害にも強くなりました。

(野間灯台/「愛知・名古屋の公式観光ガイド」より引用)


えっ。



ものすごく暗くて明かりが遠くまで届かない灯台になったのに、いいんだ?

今はレーダーとかが高性能らしいから、大丈夫なのかなー。


うるさいわっ。

野間灯台の足元には、二人で愛の錠前をつける棒がありました。


父が教えてくれた仁王立ちさ。


こりゃいかん。


岩だからとれないのに、昔、馬鹿子供の私は一生懸命ほじくってました。


私が持参した絵じゃないですよ。ここに突然立ってましたのよ。


美浜幕府って何なの?そんなの、ないわよね?

・・・何でも、

「この美浜町で亡くなった源義朝がこの平成の世によみがえり、美浜町から幕府を樹立し、再び源氏の世をつくってやるぜ!」

な、取り組みだそうな。

「美浜幕府」公式サイト
http://bakufu.endgoal.net/index.html


そう、野間灯台のある美浜町は、


入浴中の源義朝が襲われて落命した土地。


義朝の墓所がある「大御堂寺(野間大坊)」があります。


左から、義経(cv水島大宙)、義朝(cv日野聡)、頼朝(cv寺島拓篤)。

「我こそは源氏!」という「子猫ちゃんたち」を待っているんだと。


おばはんにはこっちがしっくり。


いつも応援いただきありがとうございます。
いわゆる「イケメンキャラにイケメン声」をあてて町おこしの美浜幕府。あ、子猫ちゃん云々のとこは、わからない方はスルーしてくだされ。それにしても、まー、いいお天気だったこと。宿で早起きしたら、晴天。素早く支度してちゃっちゃと出発。知多半島の観光は早出に限りますのよ。おほほ。

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熱田神宮と尾張国と尾張氏。やがて藤原氏が絡みとり

こんにちは。

今日はものすごくたくさん、尾張尾張といいます。ふふ。


尾張に熱田神宮は不可欠です。

それは、草薙剣があるからというよりは、これ。


尾張氏の存在。

尾張宿禰(おわりのすくね)、尾張連(おわりのむらじ)、尾治連(おわりのむらじ)などと称し、主に近畿から濃尾地方にかけて勢力を持っていた豪族・尾張さんちです。


日本武尊が草薙剣を預けたのは、尾張で娶った宮簀媛(ミヤズヒメ)


父は、尾張氏始祖「天火明命(あめのほあかりのみこと)」より11代目、初代「尾張国造」「乎止与命(おとよのみこと)」

母は、眞敷刀婢命(マシキトベ/「尾張大印岐」の女)


兄は、建稲種命(たけいなだねのみこと)

日本武尊の東征に自ら副将軍として従軍。

妃は玉姫(一宮の全域と中島郡北部を支配する丹羽氏の祖・大荒田命(オオアラタノミコト)の女)。


建稲種命と玉姫との間には、

子①《尻綱根命(シリツナネノミコト)》は、応神天皇の大臣。


娘①《志理都紀斗売(シリツキトメ)》

五百城入彦命(イオキイリヒコノミコト)の皇紀となり、品陀真若王(ホンダマワカノミコト)を生む


娘②《金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)》

甥の品陀真若王の妃となり、応神天皇の后妃となる3人の娘を生む。

この娘の一人が産んだのが、後の仁徳天皇



そーです。

建稲種命は、応神天皇の3人の后妃の「外祖父」で(『旧事本紀』『古事記』)

尾張氏は大和朝廷と結びつきがあったと。

そゆこと。


草薙剣を熱田で祀ったのは、こんな時期。

さらに。

継体天皇の正妃は尾張連草香の娘、目子媛(大和国入りするまで)。

安閑天皇、宣化天皇の母となります。


また、大海人皇子の乳母は尾張郡海部郷の首長である海部氏の娘。

海部氏は通説では尾張氏から分かれており、壬申の乱での尾張氏は、大海人皇子へ私邸や資金を提供するなど全面的に支援。

つまり、天武天皇の誕生に功績あり。


かほどさように朝廷と密接な結びつきがあった尾張氏。

さぞかしこの後も繁栄していくことでし・・・


あれ?

尾張氏は、熱田大宮司職を世襲。


時は流れ平安時代後期、熱田大宮司・尾張員職のとき。


やって来たのは、藤原南家の藤原季範(すえのり)。

父・季兼は尾張国目代(もくだい/国司の現地代理人)、母は尾張員職女。

熱田大宮司・尾張員職は永久2年(1114)外孫の季範に、霊夢によって、大宮司職を譲ります。


・・・どんな夢だ。


以降、熱田大宮司職は藤原氏世襲。


尾張氏はその部下・権宮司職を世襲。

世俗は大宮司が行い、神様に仕えることに専念。


藤原季範自身は、主に都暮らし。

ありをりはべりいまそかり~な日々を送っていたら、


娘の由良御前が、こやつと結婚。


そう、君の娘は源義朝の嫁となったのだ。

由良御前と義朝との間に生まれた子達が、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)。

季範の養女(孫娘/実父は長男・範忠)は足利義康との間に義兼を生み、後の足利将軍家へと繋がります。


次回は、こちらへ参ります。


参考文献

『尾張氏の系譜と天照御魂神』(『松前健著作集第9巻』第11章/松前健・著/株式会社おうふう/1998)

「社家の姓氏・尾張氏」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_owari.html


いつも応援いただきありがとうございます。
で、尾張氏はどうなったんや?な疑問がわきますが、答えは「はて?」。天皇家と密接な繋がりを持った尾張氏ながら史料が乏しく、これは秘されたのかと勘ぐるほどだそうです。何はともあれ、やっと源義朝までたどり着きましたよー。やーれやれ。

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熱田神宮(4)尾張名所図会に見る熱田神宮寺と、神仏分離

こんにちは。


熱田神宮再び。


日本武尊が置いてった「草薙剣」がある熱田神宮。(『尾張名所図会』)

主祭神は、熱田大神。

・・・だれ?

「草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことである」(wikipediaより引用)らしい。

わたしゃー、草薙剣がここの主だと思ってたよー。


これじゃダメか。

で。

日本武尊が草薙剣を預けてるのが、「尾張国造乎止与命(おとよのみこと)」の娘・「宮簀媛命(みやすひめのみこと)」。


『尾張名所図会』ではあったさんは見開き数頁に渡り描かれています。


東門のあたり。


「あ、そーれ♪」の右横に、透垣。

本宮は、現在の伊勢神宮風と違う社殿、尾張造です。


4百メートルにも及んだという塀が見えます。それが、


のぶながべー 信長塀。


永禄3年(1560)織田信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に願文を奏して大勝。

御礼として土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて作った塀を奉納。


そこには、国宝の海上門。昭和20年、空襲により焼失。


【熱田神宮寺】


『尾張名所図会』より「熱田社享禄年中之古圖」

ごっちゃーっと描かれているのは、熱田の神宮寺

熱田神宮寺は、慶長2年(1597)に一帯が焼失しており、享禄年中(1528~1531)の古図は、その前の景観を描いています。


拡大すると、多宝塔や五重塔が。

慶長年中に如法院・東堂・鐘楼・三重塔・五社不動堂・五重塔・西堂などの堂塔が廃絶。(『熱田神宮寺記』)

慶長11年(1606)、徳川家康の言上で、豊臣秀頼が神宮寺を造営、仏殿・大福田社・三重塔などが再興。

その後衰退。延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態に。

衰退、再興を繰り返し、


江戸時代には、しょぼしょぼ。
(天保12年/1841『尾張名所図会』木津山神宮寺大薬師」)

『尾張名所図会』には、神宮寺は、仁明天皇の勅願創建とし、伝教・弘法両師の開基と記述あり。(同じ記述は「熱田宮旧記」「神宮寺縁起」「尾張志」にもあり)

社僧は熱田神宮権宮司・尾張氏の庶流から補任。


【熱田神宮寺の神仏分離】

慶応4年(明治元年)3月、神仏判然令。


「先般薬師一山(熱田神宮寺)初、如法院及地福院之儀、夫々御取払に相成、住僧転住等之儀奉願候処、薬師一山儀者、公卿勅使御参向前日迄に堂舎等不残取払に相成、住僧等外寺へ転住仕候、実に以御主旨貫徹(略)」(明治元年8月4日『熱田大宮司千秋季福願書控』)


7月7日の公卿・勅使参向までに、熱田神宮寺(薬師堂)は、取り壊し。

住僧たちは、おんもへポイ。



薬師本尊初め諸仏は名古屋長久寺へ遷座。

神庫に蔵する経巻・仏具・仏書等は焼かれ。

木造十一面観音菩薩立像(熱田神宮寺の如法院旧蔵、藤原中期と推定)は野田密蔵院(如法院本山)に現存。

不動院は寺名を残し、明治36年北方の高蔵の地に再興(高蔵不動院)。「熱田神宮修正会」を「大薬師の鬼祭」として執行。


【明治の熱田神宮】

熱田神宮は、式内社(名神大)。

明治元年までの「熱田神宮」は「熱田神社」の名前。

慶応4年(1868)6月。

「神宮号」宣下により「熱田神社」から「熱田神宮」へ。

明治4年(1871)「官幣大社」となります。

ここで起きたのが、


「あっち」とは、伊勢神宮。

三種の神器「草薙剣」があるんだから伊勢神宮と同格にしろ運動。

明治元年(大宮司・千秋季福)は却下、明治22年(大宮司・角田忠行)に「伊勢神宮に準じる」ことになり、神璽勅封・権宮司設置が認められます。


尾張独特の「尾張造」の社殿を壊してまで、


伊勢神宮と同じ「神明造」に建て替え


「伊勢神宮と一緒よ!!」


・・・必死だったんだなぁー。

さてまた熱田神宮へ戻った理由は。


宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父「乎止与命(おとよのみこと)」のときに尾張国造となった尾張氏。

熱田神宮の大宮司、後には権宮司を代々つとめた尾張氏へと話は続きます。


参考サイト

がらくた置場「日本の塔婆」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之三「愛智郡」

国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


いつも応援いただきありがとうございます。
三種の神器「草薙剣」があるのに、熱田神宮側が運動しなければ上がらなかった「格」。なんだかとっても不憫なのですが、尾張には尾張の歴史があります。そこまで卑屈にならんでも、と感じます。さて尾張氏からまた次の場所へと話がひろがり・・・広がるのだろうか?

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高牟神社(4)由緒。尾張国愛智郡物部郷と尾張物部氏

こんにちは。


お賽銭箱ってどこでもここにあるもんだと思ってました。

今思うと、こうして離れてるのってあんまり見かけない。


わー。あべそうりのじーちゃんだー。わー。



【祭神】高皇産霊神・神皇産霊神・應神天皇

【由緒】

「式内高牟神社御由緒略記」

創建不詳ながら成務天皇の御代(約2千年前)の鎮座と伝わる。

清和天皇の御時、御造営に際して應神天皇を配祀。

『延喜式神名帳』(約千年前の書)所載尾張國十七座の一にして『尾張国内神名帳』に「従三位 高牟久天神」とあり、古くは八幡宮と号す。

又、(ご神体の)「應神天皇束帯乗船の香木座像」により「船出八幡」と称するのもこれが為で、俗に「古井の八幡」と称されております。

造化三神中の二柱で陰陽両面を顕はされた、むすび信仰の神で万物の生成化育発の根源の生命神と仰ぎ奉るべき最上の祖神様であります。

(名古屋市教育委員会/境内説明板より)



『尾張名所図会』より「高牟神社と物部神社」

物部神社は高牟神社から4百メートルほど北へ。


【尾張国愛智郡物部郷】

この付近一帯は、尾張物部氏の集落の一画であったといいます。

『和名類聚抄』二十巻本(江戸時代)の国郡部にある「尾張国愛智郡」の「物部郷」は、現在の名古屋市千種区と東区の一部があたり、物部神社と高牟神社鎮座地が含まれます。


『名古屋市及付近図』

尾張国や美濃国には数多くの物部神社が存在したものの、多くが合祀され。
現在では、尾張国では当該物部神社のみが残り、美濃国では本巣に2座のみ存在。

その物部神社と同一頁に恐らく鎮座位置関係のまま記されている高牟神社は、「村人たちの武器や農具を納めた「倉」が、後に高牟神社になった」(名古屋市教育委員会/境内説明板)とか。

この根っこには、高牟神社は物部氏の武器庫じゃなくて?とのお話があり。


不器用、だよ。

高牟神社の「牟」が「鉾」を指し、古代の武具を表すらしい。


物部氏まで出てきてしまった高牟神社。


懐かしい思い出に浸りつつ、

生まれ育った土地についてなーんも知らなかったんだなぁと、しみじみしました。


しみじみしみじみしつつ、今池をうろちょろ。


仕上げはもちろん、これさ。

おしまい


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


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尾張物部氏については、長くなるので割愛。へー、物部氏がいたんだなーって程度でご容赦。古い古いとは聞いてはいたものの、よもやこんなに古いとは。生まれ育った土地は祖父母や両親の昔話でマメ知識的なものはあっても、改めて知るとびっくり。明治の『名古屋市及付近図』では町の外のような場所ですが、今や名古屋市内有数の繁華街の今池。半端なく歓楽街なので友人に住所を言うのが恥ずかしかったけれど、今池、ばんざーい♪

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高牟神社(3)元古井と恋。常世の草香島って何

こんにちは。


じょー?


霊水とはこれいかに。



「高牟の古井」

応神天皇の長寿の祝水として産湯にこの霊泉水を献上したと伝えられています。
(境内説明板)

古井の霊水は信仰の水なので柄杓で汲んでね、とある。

書き初めの時はここのお水で墨をすりすりしました。


手水の水はこの井戸から。


(大正11年名古屋新地図)

これが、この辺りの旧地名「元古井(もとこい)」の由来である井戸。


「元古井発祥之地」の石碑。


「元古井伝説地」

昔、このあたりは「常世の草香島」と呼ばれ、あちこちから清泉が湧き出ていたところで、後に井となり、元古井の地名の起こりとなったといわれ、その跡が今も神社の境内に残っている。
(名古屋市教育委員会/境内説明板)


「常世の草香島」がよくわかりませんが、きれいな泉がぽっぽこ湧き、島が浮かぶようで素敵♪な感じなのかしら。


猿投神社の『尾張古図(養老元年/717)』

・・・水没しとる。


明治40年の『名古屋市及付近図』

高牟神社の周りは田んぼのようですねぇ。

特にここらが高台というわけでもないので、きれいで豊かなお水が湧くから集落が出来たのかしら?


手水の横に(右から)高牟龍神社、北野天神社。


高牟龍神社のこまちゃん。


そうおっしゃいますが、


めぇめぇめりぃにそっくりです。


さらにその横には、お祭りの時に水飴を食べてたとこ 末社。


(左から)多賀社・金刀比羅社・厳島社・神明社・白山社・津島社。


その外側に、主なくとも春を忘れぬ梅が咲いてました。


おおお、あれはー、


『尾張名所図会』にも見える木であろうかー?

じゃなくて、その向こうのこれ。


確かここでお祭りの時などに、歌とか踊りをしてたような?

まだ残ってたのねぇ。


数十年経っても変わってなかった高牟神社。

泣けちゃうわ。


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


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元古井(もとこい)の地名の由来の井戸と言われても、初めて地名を知る方には「ほおお、なるほど!」とはならないですよね。すみません。私も何でこんなに元古井フィーバーなのかと思ったら、古井(こい)=恋、で、「古井(恋)の水」「恋に効く霊水がわく」というパワーなんちゃららしいです。「もと、恋」にはならんのか?・・・あー、おばちゃんは黙っとこ。

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高牟神社(2)尾張名所図会と透垣。おや、力石くん?

こんにちは。


まー、見事に社殿を隠しておりますこの 「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」

同一物ではないですが、幕末から明治にも境内にあったようで。


『尾張名所図会』に、ほら。

◆『尾張名所図会』◆
天保9年(1838)~天保12年(1841)執筆
天保15年(1844)2月前編7巻、明治13年(1880)後編6巻刊行


お祭りの時に、おうちまでがまん出来ず、わたあめを食べたとこ。

飽きたので父にあげたら、困ってました。

そんな父とは、夕方、先に一度たんけん。


内緒ないしょで、味噌串カツ(どて煮に串カツをつっこんだもの)をば。

なぜ内緒かというと、このとき父の手には、ビール。


まぁ、もちろん「お味噌おいしかった?」「うん!」と、バレるわけですが。


社殿の前には、お線香ではなく賽銭箱。


7月1日の 赤丸神事 では、この神楽殿でしるしを付けてもらいます。


神楽殿奥には祠が並び


右から、秋葉社、祖霊社、徳義稲荷社。


秋葉社には、若いのか大人なのか不明な狛犬さん。


小さい頃はなぜか真っ直ぐ歩けなかった赤い鳥居のトンネル。


徳義稲荷社です。

お稲荷さんへは、赤い鳥居をくぐらないといけない気がしまして。


おやぁー?


すみっこに、まぁるい石とかカドカドの石とか。


いじけてる。


手前の面に何か刻んであるような。


横書きの「寄附□」、下には名前かしら?


なんだろう?力石くんかしら?


えーっと?


現在の千種町は、ここから北へ行ったとこですが、

旧地名の「千種町」は、千種村が明治35年(1902)に千種町となり、大正10年(1921)東区に編入、昭和12年千種町は国鉄中央本線で東西に分断され、東は千種区、西は東区。


だいたいこの辺(大正11年名古屋新地図)


明治40年の『名古屋市及付近図』だと、こう。

うわー、何にもなーい。


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18

よくぞここまで発展。


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


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祖父から今池は昔は池だったと聞き「何で昔池じゃないの?」と「蓬左文庫」へ。優しいおじさんが、馬を洗った「馬池(うまいけ)」が「今池(いまいけ)」となったらしいよ、っと古い地図を見せてくれました。今思うと、なんちゅー怖いもの知らず。子供って、お得ですね。

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高牟神社(1)狛犬と牡丹。賑やか狛犬日和

こんにちは。


名古屋市千種区今池に鎮座する高牟神社。

延喜式神名帳「尾張国愛智郡(愛知郡)17座」のひとつ「高牟神社」に比定。

今日は狛犬日和。


ただいま♪


んまっ。


お店はよりどりみどりです。


獅子と牡丹。


かーちゃんでしたか。


ざんねん。


何故でしょう。子狛がとても哀れんだ顔をしてるのは。。


牡丹の花も、狛犬さんのお顔も、とても細かく丁寧な細工です。


肝心の玉が思いっきり埋もれておりますが。


ちびこま、いいやつだなぁ。


神紋の橘と、大正8年の銘。

あらぁー。

今池も空襲の被害が大きく、高牟神社の社殿は焼けてしまったのに。

この子達は、無事に生き延びたんだなー。すごいな、生き字引だな。


あー、はいはい。

お顔は関東が混じってるように感じましたが、尻尾は関西風のもみじ饅頭が立ったような形。


子狛も含め、均整のとれたいい姿をしてるなぁと感動しました。


働き者のかーちゃんです。


高牟龍神社。


もこもこちゃん。


ここで遊んでた頃には気付かなかったなー。かわいいなー。


秋葉社。


元気いっぱいな子ですが、少しおじさんが入ってる気が。


忍耐。


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小さい頃からさんざん(遊びに)通った近所の神社、高牟神社。うーむ、こんなに味わい深い狛犬さん達がいるとは全く気付かなかったです。神紋の刻まれた四角い台座は、何かしでかして親に叱られ、ぎゃおぎゃお泣いた時の視界にあった覚えがかすかに。子供の目線には、狛犬さんは少し高いのかもしれません。てことにしておこう。

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