野間大坊(1)源義朝の最期。お風呂たいむは要注意です

こんにちは。


お風呂たいむは要注意のお話。


源義朝は、関東を拠点に成長し、やがて都へ。

正室は、由良御前。

由良御前の父は、藤原季範(すえのり)。


熱田大宮司の位を外祖父「尾張員職」から「霊夢の託宣」により譲られた人。

つまり義朝の「妻の実家」は熱田大宮司ですが、長く努めた「尾張氏」ではなく「藤原氏」。


保元の乱では後白河天皇方。
生まれ育った東国の武士団を率いて参陣、勝利。
後ろ楯に、妻の実家「藤原氏の熱田大宮司家」。

平治の乱では、義朝軍は壊滅状態となり、東国を目指し敗走。


当初の同行者は、息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清斎藤実盛・渋谷金王丸達。

道中、朝長・義隆・重成は落武者狩りで落命、頼朝ははぐれ、残ったのは、乳兄弟の鎌田政清等。


父の手で最期をむかえたけなげな朝長は能「朝長」に描かれます。

子供達と離ればなれになった義朝は、


東海道を東へ進み、途中から海路で、尾張国野間へ。

野間にいたのは、

乳兄弟の鎌田政清の妻の父であり、義朝の家人でもある長田(おさだ)忠致・景致親子。


一息ついた義朝のお風呂たいむを狙った犯人です。


『尾張名所図会』前編巻6「義朝最後の図」

義朝、裸で応戦するも、落命。

享年38。


義朝の危機を知った手勢と長田親子側が乱戦になったと伝わる乱橋。


義朝の首を洗ったと伝わる血の池。


そして、木刀の山に埋もれる義朝の墓。

最期に「僕に木刀の1本でもあったならー!!」と言ったことにちなみます。


源義朝の墓があるのは、野間大坊(大御堂寺)。

つづく


◆お久しぶりの斎藤実盛◆

義朝に仕えた者の中には、斎藤実盛。


義朝の異母弟で義朝の子の義平に討たれた主・義賢の遺児である後の木曽義仲を信濃国へ送り届け

改めて仕えた主の義朝死後は、平氏に仕え年を経て


木曽義仲との戦い前には白髪を黒く染め、最後まで名乗らず義仲の手勢に討たれ、義仲を号泣させた実盛です。

よろしければ渾身の作をご笑納くださいませ♪

お話上手な斎藤実盛、維盛をびびらせる

平家物語「実盛最期」

故郷に錦を着て帰る。実盛のお洒落決意

能「実盛」老武者の決意と執心


いつも応援いただきありがとうございます。
享年38て、(今なら)若いなぁ。野間でご褒美欲しさに義朝を討った長田(おさだ)親子は、まぁ当時としたら当たり前のことをしたにすぎないかもしれませんが、愛知県民としてはちょっと恥ずかしい。義朝の孫になる頼家も修善寺でお風呂たいむに討たれたとか。こっちは男性にしかわからないえらく痛いことをされたそうで。お気の毒に。

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恋人の聖地・野間灯台。子猫ちゃん達、美浜幕府で待ってるぜ

こんにちは。


いえーい♪


やっぱりね、旅に出たら海を見なくちゃね。


伊勢湾ですよ。


せっかく岩が濡れてるとこまで来たのに。

波の根性なしめっ。


大丈夫。お着替え一式持ってるから。ふふふ。


今、ここ。

知多半島西岸にある、野間灯台です。

名古屋市内から小一時間ほど。

ちょっと海が見たいぜ、ってときによく来てました。

・・・親子でね。ほっほっほ。


あら。こんな地味な灯台だったかしら?


あ、お顔があったあった。

灯台にも、正面と後ろがあるんだなー。


【野間灯台】

正式名称は「野間崎灯台」。

大正10年(1921)に設置された高さ18メートルの愛知県最古の灯台。

2008年の改修工事でレンズをLEDに交換。

光度が1万5千cdから590cdに、光達距離が約25キロメートルから約15キロメートルになりましたが、省電力化され災害にも強くなりました。

(野間灯台/「愛知・名古屋の公式観光ガイド」より引用)


えっ。



ものすごく暗くて明かりが遠くまで届かない灯台になったのに、いいんだ?

今はレーダーとかが高性能らしいから、大丈夫なのかなー。


うるさいわっ。

野間灯台の足元には、二人で愛の錠前をつける棒がありました。


父が教えてくれた仁王立ちさ。


こりゃいかん。


岩だからとれないのに、昔、馬鹿子供の私は一生懸命ほじくってました。


私が持参した絵じゃないですよ。ここに突然立ってましたのよ。


美浜幕府って何なの?そんなの、ないわよね?

・・・何でも、

「この美浜町で亡くなった源義朝がこの平成の世によみがえり、美浜町から幕府を樹立し、再び源氏の世をつくってやるぜ!」

な、取り組みだそうな。

「美浜幕府」公式サイト
http://bakufu.endgoal.net/index.html


そう、野間灯台のある美浜町は、


入浴中の源義朝が襲われて落命した土地。


義朝の墓所がある「大御堂寺(野間大坊)」があります。


左から、義経(cv水島大宙)、義朝(cv日野聡)、頼朝(cv寺島拓篤)。

「我こそは源氏!」という「子猫ちゃんたち」を待っているんだと。


おばはんにはこっちがしっくり。


いつも応援いただきありがとうございます。
いわゆる「イケメンキャラにイケメン声」をあてて町おこしの美浜幕府。あ、子猫ちゃん云々のとこは、わからない方はスルーしてくだされ。それにしても、まー、いいお天気だったこと。宿で早起きしたら、晴天。素早く支度してちゃっちゃと出発。知多半島の観光は早出に限りますのよ。おほほ。

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熱田神宮と尾張国と尾張氏。やがて藤原氏が絡みとり

こんにちは。

今日はものすごくたくさん、尾張尾張といいます。ふふ。


尾張に熱田神宮は不可欠です。

それは、草薙剣があるからというよりは、これ。


尾張氏の存在。

尾張宿禰(おわりのすくね)、尾張連(おわりのむらじ)、尾治連(おわりのむらじ)などと称し、主に近畿から濃尾地方にかけて勢力を持っていた豪族・尾張さんちです。


日本武尊が草薙剣を預けたのは、尾張で娶った宮簀媛(ミヤズヒメ)


父は、尾張氏始祖「天火明命(あめのほあかりのみこと)」より11代目、初代「尾張国造」「乎止与命(おとよのみこと)」

母は、眞敷刀婢命(マシキトベ/「尾張大印岐」の女)


兄は、建稲種命(たけいなだねのみこと)

日本武尊の東征に自ら副将軍として従軍。

妃は玉姫(一宮の全域と中島郡北部を支配する丹羽氏の祖・大荒田命(オオアラタノミコト)の女)。


建稲種命と玉姫との間には、

子①《尻綱根命(シリツナネノミコト)》は、応神天皇の大臣。


娘①《志理都紀斗売(シリツキトメ)》

五百城入彦命(イオキイリヒコノミコト)の皇紀となり、品陀真若王(ホンダマワカノミコト)を生む


娘②《金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)》

甥の品陀真若王の妃となり、応神天皇の后妃となる3人の娘を生む。

この娘の一人が産んだのが、後の仁徳天皇



そーです。

建稲種命は、応神天皇の3人の后妃の「外祖父」で(『旧事本紀』『古事記』)

尾張氏は大和朝廷と結びつきがあったと。

そゆこと。


草薙剣を熱田で祀ったのは、こんな時期。

さらに。

継体天皇の正妃は尾張連草香の娘、目子媛(大和国入りするまで)。

安閑天皇、宣化天皇の母となります。


また、大海人皇子の乳母は尾張郡海部郷の首長である海部氏の娘。

海部氏は通説では尾張氏から分かれており、壬申の乱での尾張氏は、大海人皇子へ私邸や資金を提供するなど全面的に支援。

つまり、天武天皇の誕生に功績あり。


かほどさように朝廷と密接な結びつきがあった尾張氏。

さぞかしこの後も繁栄していくことでし・・・


あれ?

尾張氏は、熱田大宮司職を世襲。


時は流れ平安時代後期、熱田大宮司・尾張員職のとき。


やって来たのは、藤原南家の藤原季範(すえのり)。

父・季兼は尾張国目代(もくだい/国司の現地代理人)、母は尾張員職女。

熱田大宮司・尾張員職は永久2年(1114)外孫の季範に、霊夢によって、大宮司職を譲ります。


・・・どんな夢だ。


以降、熱田大宮司職は藤原氏世襲。


尾張氏はその部下・権宮司職を世襲。

世俗は大宮司が行い、神様に仕えることに専念。


藤原季範自身は、主に都暮らし。

ありをりはべりいまそかり~な日々を送っていたら、


娘の由良御前が、こやつと結婚。


そう、君の娘は源義朝の嫁となったのだ。

由良御前と義朝との間に生まれた子達が、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)。

季範の養女(孫娘/実父は長男・範忠)は足利義康との間に義兼を生み、後の足利将軍家へと繋がります。


次回は、こちらへ参ります。


参考文献

『尾張氏の系譜と天照御魂神』(『松前健著作集第9巻』第11章/松前健・著/株式会社おうふう/1998)

「社家の姓氏・尾張氏」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_owari.html


いつも応援いただきありがとうございます。
で、尾張氏はどうなったんや?な疑問がわきますが、答えは「はて?」。天皇家と密接な繋がりを持った尾張氏ながら史料が乏しく、これは秘されたのかと勘ぐるほどだそうです。何はともあれ、やっと源義朝までたどり着きましたよー。やーれやれ。

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熱田神宮(4)尾張名所図会に見る熱田神宮寺と、神仏分離

こんにちは。


熱田神宮再び。


日本武尊が置いてった「草薙剣」がある熱田神宮。(『尾張名所図会』)

主祭神は、熱田大神。

・・・だれ?

「草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことである」(wikipediaより引用)らしい。

わたしゃー、草薙剣がここの主だと思ってたよー。


これじゃダメか。

で。

日本武尊が草薙剣を預けてるのが、「尾張国造乎止与命(おとよのみこと)」の娘・「宮簀媛命(みやすひめのみこと)」。


『尾張名所図会』ではあったさんは見開き数頁に渡り描かれています。


東門のあたり。


「あ、そーれ♪」の右横に、透垣。

本宮は、現在の伊勢神宮風と違う社殿、尾張造です。


4百メートルにも及んだという塀が見えます。それが、


のぶながべー 信長塀。


永禄3年(1560)織田信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に願文を奏して大勝。

御礼として土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて作った塀を奉納。


そこには、国宝の海上門。昭和20年、空襲により焼失。


【熱田神宮寺】


『尾張名所図会』より「熱田社享禄年中之古圖」

ごっちゃーっと描かれているのは、熱田の神宮寺

熱田神宮寺は、慶長2年(1597)に一帯が焼失しており、享禄年中(1528~1531)の古図は、その前の景観を描いています。


拡大すると、多宝塔や五重塔が。

慶長年中に如法院・東堂・鐘楼・三重塔・五社不動堂・五重塔・西堂などの堂塔が廃絶。(『熱田神宮寺記』)

慶長11年(1606)、徳川家康の言上で、豊臣秀頼が神宮寺を造営、仏殿・大福田社・三重塔などが再興。

その後衰退。延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態に。

衰退、再興を繰り返し、


江戸時代には、しょぼしょぼ。
(天保12年/1841『尾張名所図会』木津山神宮寺大薬師」)

『尾張名所図会』には、神宮寺は、仁明天皇の勅願創建とし、伝教・弘法両師の開基と記述あり。(同じ記述は「熱田宮旧記」「神宮寺縁起」「尾張志」にもあり)

社僧は熱田神宮権宮司・尾張氏の庶流から補任。


【熱田神宮寺の神仏分離】

慶応4年(明治元年)3月、神仏判然令。


「先般薬師一山(熱田神宮寺)初、如法院及地福院之儀、夫々御取払に相成、住僧転住等之儀奉願候処、薬師一山儀者、公卿勅使御参向前日迄に堂舎等不残取払に相成、住僧等外寺へ転住仕候、実に以御主旨貫徹(略)」(明治元年8月4日『熱田大宮司千秋季福願書控』)


7月7日の公卿・勅使参向までに、熱田神宮寺(薬師堂)は、取り壊し。

住僧たちは、おんもへポイ。



薬師本尊初め諸仏は名古屋長久寺へ遷座。

神庫に蔵する経巻・仏具・仏書等は焼かれ。

木造十一面観音菩薩立像(熱田神宮寺の如法院旧蔵、藤原中期と推定)は野田密蔵院(如法院本山)に現存。

不動院は寺名を残し、明治36年北方の高蔵の地に再興(高蔵不動院)。「熱田神宮修正会」を「大薬師の鬼祭」として執行。


【明治の熱田神宮】

熱田神宮は、式内社(名神大)。

明治元年までの「熱田神宮」は「熱田神社」の名前。

慶応4年(1868)6月。

「神宮号」宣下により「熱田神社」から「熱田神宮」へ。

明治4年(1871)「官幣大社」となります。

ここで起きたのが、


「あっち」とは、伊勢神宮。

三種の神器「草薙剣」があるんだから伊勢神宮と同格にしろ運動。

明治元年(大宮司・千秋季福)は却下、明治22年(大宮司・角田忠行)に「伊勢神宮に準じる」ことになり、神璽勅封・権宮司設置が認められます。


尾張独特の「尾張造」の社殿を壊してまで、


伊勢神宮と同じ「神明造」に建て替え


「伊勢神宮と一緒よ!!」


・・・必死だったんだなぁー。

さてまた熱田神宮へ戻った理由は。


宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父「乎止与命(おとよのみこと)」のときに尾張国造となった尾張氏。

熱田神宮の大宮司、後には権宮司を代々つとめた尾張氏へと話は続きます。


参考サイト

がらくた置場「日本の塔婆」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之三「愛智郡」

国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


いつも応援いただきありがとうございます。
三種の神器「草薙剣」があるのに、熱田神宮側が運動しなければ上がらなかった「格」。なんだかとっても不憫なのですが、尾張には尾張の歴史があります。そこまで卑屈にならんでも、と感じます。さて尾張氏からまた次の場所へと話がひろがり・・・広がるのだろうか?

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高牟神社(4)由緒。尾張国愛智郡物部郷と尾張物部氏

こんにちは。


お賽銭箱ってどこでもここにあるもんだと思ってました。

今思うと、こうして離れてるのってあんまり見かけない。


わー。あべそうりのじーちゃんだー。わー。



【祭神】高皇産霊神・神皇産霊神・應神天皇

【由緒】

「式内高牟神社御由緒略記」

創建不詳ながら成務天皇の御代(約2千年前)の鎮座と伝わる。

清和天皇の御時、御造営に際して應神天皇を配祀。

『延喜式神名帳』(約千年前の書)所載尾張國十七座の一にして『尾張国内神名帳』に「従三位 高牟久天神」とあり、古くは八幡宮と号す。

又、(ご神体の)「應神天皇束帯乗船の香木座像」により「船出八幡」と称するのもこれが為で、俗に「古井の八幡」と称されております。

造化三神中の二柱で陰陽両面を顕はされた、むすび信仰の神で万物の生成化育発の根源の生命神と仰ぎ奉るべき最上の祖神様であります。

(名古屋市教育委員会/境内説明板より)



『尾張名所図会』より「高牟神社と物部神社」

物部神社は高牟神社から4百メートルほど北へ。


【尾張国愛智郡物部郷】

この付近一帯は、尾張物部氏の集落の一画であったといいます。

『和名類聚抄』二十巻本(江戸時代)の国郡部にある「尾張国愛智郡」の「物部郷」は、現在の名古屋市千種区と東区の一部があたり、物部神社と高牟神社鎮座地が含まれます。


『名古屋市及付近図』

尾張国や美濃国には数多くの物部神社が存在したものの、多くが合祀され。
現在では、尾張国では当該物部神社のみが残り、美濃国では本巣に2座のみ存在。

その物部神社と同一頁に恐らく鎮座位置関係のまま記されている高牟神社は、「村人たちの武器や農具を納めた「倉」が、後に高牟神社になった」(名古屋市教育委員会/境内説明板)とか。

この根っこには、高牟神社は物部氏の武器庫じゃなくて?とのお話があり。


不器用、だよ。

高牟神社の「牟」が「鉾」を指し、古代の武具を表すらしい。


物部氏まで出てきてしまった高牟神社。


懐かしい思い出に浸りつつ、

生まれ育った土地についてなーんも知らなかったんだなぁと、しみじみしました。


しみじみしみじみしつつ、今池をうろちょろ。


仕上げはもちろん、これさ。

おしまい


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


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尾張物部氏については、長くなるので割愛。へー、物部氏がいたんだなーって程度でご容赦。古い古いとは聞いてはいたものの、よもやこんなに古いとは。生まれ育った土地は祖父母や両親の昔話でマメ知識的なものはあっても、改めて知るとびっくり。明治の『名古屋市及付近図』では町の外のような場所ですが、今や名古屋市内有数の繁華街の今池。半端なく歓楽街なので友人に住所を言うのが恥ずかしかったけれど、今池、ばんざーい♪

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高牟神社(3)元古井と恋。常世の草香島って何

こんにちは。


じょー?


霊水とはこれいかに。



「高牟の古井」

応神天皇の長寿の祝水として産湯にこの霊泉水を献上したと伝えられています。
(境内説明板)

古井の霊水は信仰の水なので柄杓で汲んでね、とある。

書き初めの時はここのお水で墨をすりすりしました。


手水の水はこの井戸から。


(大正11年名古屋新地図)

これが、この辺りの旧地名「元古井(もとこい)」の由来である井戸。


「元古井発祥之地」の石碑。


「元古井伝説地」

昔、このあたりは「常世の草香島」と呼ばれ、あちこちから清泉が湧き出ていたところで、後に井となり、元古井の地名の起こりとなったといわれ、その跡が今も神社の境内に残っている。
(名古屋市教育委員会/境内説明板)


「常世の草香島」がよくわかりませんが、きれいな泉がぽっぽこ湧き、島が浮かぶようで素敵♪な感じなのかしら。


猿投神社の『尾張古図(養老元年/717)』

・・・水没しとる。


明治40年の『名古屋市及付近図』

高牟神社の周りは田んぼのようですねぇ。

特にここらが高台というわけでもないので、きれいで豊かなお水が湧くから集落が出来たのかしら?


手水の横に(右から)高牟龍神社、北野天神社。


高牟龍神社のこまちゃん。


そうおっしゃいますが、


めぇめぇめりぃにそっくりです。


さらにその横には、お祭りの時に水飴を食べてたとこ 末社。


(左から)多賀社・金刀比羅社・厳島社・神明社・白山社・津島社。


その外側に、主なくとも春を忘れぬ梅が咲いてました。


おおお、あれはー、


『尾張名所図会』にも見える木であろうかー?

じゃなくて、その向こうのこれ。


確かここでお祭りの時などに、歌とか踊りをしてたような?

まだ残ってたのねぇ。


数十年経っても変わってなかった高牟神社。

泣けちゃうわ。


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


いつも応援いただきありがとうございます。
元古井(もとこい)の地名の由来の井戸と言われても、初めて地名を知る方には「ほおお、なるほど!」とはならないですよね。すみません。私も何でこんなに元古井フィーバーなのかと思ったら、古井(こい)=恋、で、「古井(恋)の水」「恋に効く霊水がわく」というパワーなんちゃららしいです。「もと、恋」にはならんのか?・・・あー、おばちゃんは黙っとこ。

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高牟神社(2)尾張名所図会と透垣。おや、力石くん?

こんにちは。


まー、見事に社殿を隠しておりますこの 「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」

同一物ではないですが、幕末から明治にも境内にあったようで。


『尾張名所図会』に、ほら。

◆『尾張名所図会』◆
天保9年(1838)~天保12年(1841)執筆
天保15年(1844)2月前編7巻、明治13年(1880)後編6巻刊行


お祭りの時に、おうちまでがまん出来ず、わたあめを食べたとこ。

飽きたので父にあげたら、困ってました。

そんな父とは、夕方、先に一度たんけん。


内緒ないしょで、味噌串カツ(どて煮に串カツをつっこんだもの)をば。

なぜ内緒かというと、このとき父の手には、ビール。


まぁ、もちろん「お味噌おいしかった?」「うん!」と、バレるわけですが。


社殿の前には、お線香ではなく賽銭箱。


7月1日の 赤丸神事 では、この神楽殿でしるしを付けてもらいます。


神楽殿奥には祠が並び


右から、秋葉社、祖霊社、徳義稲荷社。


秋葉社には、若いのか大人なのか不明な狛犬さん。


小さい頃はなぜか真っ直ぐ歩けなかった赤い鳥居のトンネル。


徳義稲荷社です。

お稲荷さんへは、赤い鳥居をくぐらないといけない気がしまして。


おやぁー?


すみっこに、まぁるい石とかカドカドの石とか。


いじけてる。


手前の面に何か刻んであるような。


横書きの「寄附□」、下には名前かしら?


なんだろう?力石くんかしら?


えーっと?


現在の千種町は、ここから北へ行ったとこですが、

旧地名の「千種町」は、千種村が明治35年(1902)に千種町となり、大正10年(1921)東区に編入、昭和12年千種町は国鉄中央本線で東西に分断され、東は千種区、西は東区。


だいたいこの辺(大正11年名古屋新地図)


明治40年の『名古屋市及付近図』だと、こう。

うわー、何にもなーい。


高牟神社
《住所》名古屋市千種区今池1丁目4ー18

よくぞここまで発展。


『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之五「愛智郡」

『名古屋市及付近図』
名古屋市教育会編/名古屋市教育会/1907

上記、国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/


いつも応援いただきありがとうございます。
祖父から今池は昔は池だったと聞き「何で昔池じゃないの?」と「蓬左文庫」へ。優しいおじさんが、馬を洗った「馬池(うまいけ)」が「今池(いまいけ)」となったらしいよ、っと古い地図を見せてくれました。今思うと、なんちゅー怖いもの知らず。子供って、お得ですね。

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高牟神社(1)狛犬と牡丹。賑やか狛犬日和

こんにちは。


名古屋市千種区今池に鎮座する高牟神社。

延喜式神名帳「尾張国愛智郡(愛知郡)17座」のひとつ「高牟神社」に比定。

今日は狛犬日和。


ただいま♪


んまっ。


お店はよりどりみどりです。


獅子と牡丹。


かーちゃんでしたか。


ざんねん。


何故でしょう。子狛がとても哀れんだ顔をしてるのは。。


牡丹の花も、狛犬さんのお顔も、とても細かく丁寧な細工です。


肝心の玉が思いっきり埋もれておりますが。


ちびこま、いいやつだなぁ。


神紋の橘と、大正8年の銘。

あらぁー。

今池も空襲の被害が大きく、高牟神社の社殿は焼けてしまったのに。

この子達は、無事に生き延びたんだなー。すごいな、生き字引だな。


あー、はいはい。

お顔は関東が混じってるように感じましたが、尻尾は関西風のもみじ饅頭が立ったような形。


子狛も含め、均整のとれたいい姿をしてるなぁと感動しました。


働き者のかーちゃんです。


高牟龍神社。


もこもこちゃん。


ここで遊んでた頃には気付かなかったなー。かわいいなー。


秋葉社。


元気いっぱいな子ですが、少しおじさんが入ってる気が。


忍耐。


いつも応援いただきありがとうございます。
小さい頃からさんざん(遊びに)通った近所の神社、高牟神社。うーむ、こんなに味わい深い狛犬さん達がいるとは全く気付かなかったです。神紋の刻まれた四角い台座は、何かしでかして親に叱られ、ぎゃおぎゃお泣いた時の視界にあった覚えがかすかに。子供の目線には、狛犬さんは少し高いのかもしれません。てことにしておこう。

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つねまる、故郷へ帰る。ディープ名古屋の市電と味覚と狛犬

こんにちは。

名古屋旅の目的のひとつ。


ただいま、味噌煮込み。

もとい。


ただいま、ふるさと。


パチンコ600、1100(台数が店名)など、まー、賑やかなとこでして。


当時は軍艦マーチが轟き、ネオンがぺっかぺか。

夜も昼間ぐらい明るく賑やかなので、今でも暗い夜道は大の苦手。


昭和49年の廃線まで、市電が通ってた道です。

横の路地はダイエー通り。ダイエーはイオンになってて残念至極。


かたんことーん、じゃなく、がたごとがたごとの音と

市電の中で眠り込んだ私と荷物を小脇に抱えて下車した父が、ちゅるんっと
私を 落っことし。

市電のホーム、つまり広い道路の真ん中で大泣きした覚えがおぼろげながらありますわ。


名古屋市千種区今池、昔は「覚王山通」の地名でした。

映画館は7ヶ所ぐらいあったかな。

お年を召された方には、ちょっとやばめで有名な歓楽街と商店街、古くからの住宅街が混在する街です。


現在の交差点。白丸のお店は、鰻やさん。そのまんま。

実はここ、小学校への通学路。


ここは広小路通。

このあと同じ太さの錦通を地下鉄の通路で潜って渡り、歩道橋で桜通を渡って小学校へ通ってました。

一年生の時は、ものすごーくしんどかったです。


名古屋シネマテークのあるスタービル。

こっちは、スター通り。1本入ると昔のまんま。


家族でよく通ってたお店。

ここの味噌カツは、田楽味噌をかけたカツではなく、味噌煮込みうどんの味噌の濃いめのんにカツを泳がせたタイプ。

当時はおかめうどん、目玉焼きがのったハンバーグ、天丼、何でもござれのメニューでした。


少なくとも40年は経っている名古屋パブテスト教会。

この今池界隈で、二日間、懐かしご飯しました。


今池交差点のガスビル地下のお店とか


昔は5階建だったユニー(現ピアゴ。2階建に建替)でスガキヤ。


デザート付きで、うはうはうははは。

帰りに、懐かしおやつ購入。


甘くないみたらしだんご。

大阪のは、団子もたれも甘くってねぇ。びっくりしました。


んふふふふ。


230円で買えるおやつです。


薄いアルミと白い紙に包んだまま、クレープみたいにかぶりつきますの。


名古屋っ子の好物です。うふ。

こんなディープ名古屋な今池ですから、


狛犬さんも、何ともかんとも。いやはや。

ここは、


式内社高牟神社です。


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名古屋市の中でも特に古くからの歓楽街。昔は戦後の闇市から出来た市場があって、おがくずに立てて売る卵屋さんとか、樽から量り売りする味噌屋さんとか、買い物かごを持った母にくっついてわくわくしながら歩きました。昭和50年代までその光景が残っていた今池。住むには便利で楽しい所でしたよ。

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御器所八幡宮(3)由緒。御器所の佐久間氏と鎮守

こんにちは。


御器所八幡宮。


西側の鳥居。


石と木の組合せです。


【由緒】(緑文字は御器所八幡宮HP「由緒」より引用)

創建は不詳。

一説には、

54代仁明天皇(在位天長10年/833~嘉祥3年/850)勅願社とされ、

熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座と伝わります。



古くは

「八所大明神」として、

「御器所荘(ごきそのしょう)」一帯(現・名古屋市昭和区東部)の総鎮守として鎮斎されていた社。



御器所に拠点を置いた佐久間氏は、

居城「御器所西城」鎮護の社として、

また、領内守護の社として尊崇(嘉吉元年/1441、の棟札による)。



佐久間さんといえば、熱田神宮の佐久間燈籠。


御器所八幡宮には、佐久間社。


社伝によれば、

徳川家康が「小牧長久手の合戦」の前に島田城城主大島家の案内によって立ち寄り、その後、祈願成就を感謝。

家康の指示により、大島家が社殿の造営を行ったとか(慶長五年の棟札)。



拝殿。


本殿の前に狛犬の気配っ。くうううう。


《白龍社》

名古屋城築城の際、加藤清正が城の内外に祀られていた社を御器所八幡宮へ移転。

合祀ではなく、「併せお祀りした」ため、本殿と並んで「三社」が並んでいるらしい。


へびちゃん 龍神様をお祀り。


狛ちゃんに嫌われっぱなし。ちぇー。


なんだろう?


ぱっと見、牛肉のかたまりですが、


「軽く感じればそれで良し。重く感じたならば努力すべし」の、おもかる石。


《総社宮》御器所地内に古くよりお祀りされている祠を合祀。


《稚児宮》


《英霊社》の前には、


えーっと、だれ。


《五社宮》御器所に古くから祀られてきた摂社五社。

「村上社」(旧地村在)、「洲原社」(旧山﨑在)、「八幡社」(旧北屋敷在)、「氷上社」「春日社」(旧北市場在)。


住宅街の真ん中に鎮座する御器所八幡宮。

熱田神宮、佐久間氏、家康、清正、等との関わりがあるとても興味深いお社です。


御器所八幡宮
《住所》名古屋市昭和区御器所四丁目4番24号




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名古屋市中村区は秀吉、清正。昭和区御器所は佐久間氏、名東区は佐久間氏と姻戚関係を結んだ柴田勝家。また、御器所は秀吉の母の実家があったとされる土地でもあります。広い都市道路と昔ながらの住宅地が混在する現在の街並みには遺構は少ないですが、地図を眺めているとわくわくします。

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