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唱歌「青葉の笛」と能「敦盛」。高野山奥の院の敦盛五輪塔

こんにちは。


平維盛は一ノ谷の合戦前後に屋島辺りから脱け出し、高野山の滝口入道を訊ねました。

一ノ谷合戦では、多くの平家の公達が討死しています。


唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)をご存じですか?

一の谷の 軍(いくさ)破れ  討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や今宵」の歌



二番は、平忠度。


「更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ」

都落ちの直前、歌の師・藤原俊成に自らの和歌を託します。


決意を胸に秘め戦に臨んだものの、一ノ谷にて岡部六弥太忠澄により討死。


「今わの際まで 持ちし箙に 残れるは『花や今宵』の歌」


「行き暮れて木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」


一番は、だぁれー?

「青葉の笛」といえば?

はい、平敦盛ですね。

謡曲「敦盛」では、都落ちから敦盛の討死までの描写があります。


「然るに平家。世を取って二十余年。
 まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。」




「籠鳥(ろうちょう)の雲を恋ひ。帰雁(きがん)列(つら)を乱るなる。
 空定めなき旅衣。日も重なりて年月の。
 立ち帰る春の頃。この一ノ谷に籠りて。しばしはここに須磨の浦。」




「シテ『後ろの山風吹き落ちて』

 野も冴え返る海際に。船の夜となく昼となき。
 千鳥の声も我が袖も。波に萎(しお)るる磯枕。
 海士の苫屋(とまや)に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。
 立つるや夕煙 柴と云ふもの折り敷きて。
 思ひを須磨の山里の。かかる所に住まひして。
 須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき。」




やがて合戦が始まり一門の武将が相次いで討死する中、敦盛は、沖へ逃げる平家一門の船に乗り遅れ、馬で追いかけます。



一ノ谷合戦の有り様を敦盛は舞います。「キリ」の部分です。

 「シテ『せん方波に駒を控へ。呆れ果てたる。有様なり。かかりける處に。』

 後ろより。熊谷の次郎直実。のがさじと。追っかけたり敦盛も。
 馬引き返し。波の打物抜いて。
 二打三打(ふたうちみうち)は打つぞと見えしが馬の上にて。
 引っ組んで。波打ち際に。落ち重なって。」


平家一門の船に向かって馬を泳がせていた敦盛を、熊谷次郎直実が追いかけます。

仕方なく敦盛は応戦。



馬上で組み合うも、波打ち際に落馬。熊谷次郎直実に組み伏せられた敦盛。


恐らくこんな感じが、


能の表現は、こう。


出家した熊谷次郎直実(蓮生法師)が敦盛の菩提を弔っている目の前に、現れた敦盛の幽霊が、能「敦盛」の主役(シテ)。

よって、敦盛の幽霊は憎き敵の熊谷次郎直実に向かって牙を剥きます。


「終いに(ついに)。討たれて失せし身の。
 因果は廻り逢ひたり敵はこれぞと討たんとするに。」




「仇をば恩にて。法事の念仏して弔はるれば。
 終には共に。生まるべき同じ蓮(はちす)の蓮生法師。
 敵にてはなかりけり跡弔ひて。賜び給へ跡弔ひて賜び給へ。」

 
仇の熊谷次郎直実を討とうと迫りますが、あ、そうだ、今は僕の為に念仏を唱えてくれてるんだった…と気づき、跡を弔って下さいなと言い残して姿を消します。

能「敦盛」、おしまい。



高野山奥の院で、ぽけーっとしている維盛ですが。

数年後。この奥の院に、供養塔が建てられます。

維盛の?・・・ではありません。


左が敦盛、右が直実。

これは、敦盛を討った後に出家した熊谷次郎直実が、敦盛の菩提を弔うために建てた五輪塔。

・・・何も隣同士にせんでも。嫌、じゃない?敦盛、嫌じゃない?


敦盛の首を取った直実。

彼には敦盛と同じ程の年齢の息子の小次郎直家がいました。

奇しくもこの日の未明。

敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にしながらも、敵中の事だ、と、直家の傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入したのでした。

その時の親心の切なさを思い起こし、暫し躊躇したものの、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。

直実。世の無常を感じ、出家。
当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となりました。

そして、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年。

敦盛の追福の法要を思い立ち、法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった熊谷寺(当時は智識院)に寄寓。


敦盛の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛の菩提を祈ったのでした。


・・・さて。肝心の維盛。

朝になって東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家しま~~~。


せん。

出家した姿になる前に、今の姿を一目、家族に見せたいと駄々をこねております。

この子、ほんとに大丈夫かしら。


いけいけ、滝口入道!


すみません。つづく。


参考文献
観世流大成版『敦盛』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。高野山奥の院で、必死に探した敦盛と直実の五輪塔。やっと、日の目を見ました。しかしなぜ隣同士なんでしょうねぇ。敦盛、お気の毒です。高野山は源平問わず繋がりがありますが、高野山霊宝館では、清盛の血を混ぜて描いたと伝わる「清盛の血曼荼羅」も展示されています。でっかいですよー。
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平家に居場所なし。維盛の苦悩と高野山で男前二人旅

こんにちは。


高野山の滝口入道を訪ねて来たのは


平維盛。その姿は、

潮風に黒み、尽きせぬ物思ひに痩せ衰へて、その人とは見え給はねども、なほ世の人には勝れ給へり。

男前は痩せ衰えても一般人よりは、美しいらしい。



さて。平家一門の中で唯一家族を都へ残し、都落ちした維盛。



この時、幼い子供達がすがり付いて別れを惜しんだ為に、維盛と弟達一団は安徳天皇や一門から遅れました。

この時、維盛達の軍勢は1000騎。

残り少ない平家軍には貴重な数です。


当然、宗盛おじさんに叱られました。

都落ちし、西国へ向かい、平家一門と行動を共に・・・


したものの、心ここにあらず。合戦どころではありません。


滝口入道に維盛は語ります。

「さればとよ都をば人並々に出でて西国へ落ち下りたりしかども、故郷に留め置し恋しき者共が、面影の身にひしと立ち添ひて忘るる隙もなかりしかば、その物思ふ心云はぬに著くや見えけん、大臣殿も二位殿も『この人は池大納言のやうに二心あり』など思ひ隔て給ふ間、いとど心も留まらず憧れ出でたんなり。」



背景として、維盛達の父・重盛は、清盛の嫡男ながら既に他界。
有力な後ろ楯のない維盛には、平家一門を率いるに至らず、重盛の弟の宗盛が台頭していました。

また、維盛自身の母と義父が平家の敵方となったこともあり、肩身が狭い立場になります。

また、周りの環境を除いても、維盛自身が源氏との合戦で悉く敗退した総大将でもあり、一門の中で居心地が良くない事は確かです。

そんな中で、都へ残した家族を思い、上の空の維盛。

宗盛や知盛達、清盛の妻の二位尼時子は、「維盛も、池大納言頼盛のように頼朝に通じているのではないか」と疑ったのです。


どっちもどっちです。

この状況に耐えられず屋島を脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。


「これにて出家して、火の中水の底へも入りなばやとは思へども、熊野へ参らんと思ふ宿願あり」と宣へば、滝口入道申しけるは「夢幻の世の中はとてもかくても候ひなんず。ただ長き世の闇こそ心憂かるべう候へ」とぞ申しける。


「ここで出家して、火の中・水の底へも入ってしまおうかと思うが、熊野に詣でたい思う宿願がある」という維盛。



滝口入道は「夢幻の現世などどうでもよろしい。ただ長い世の闇こそ、心憂いものとなるでしょう」と言い、維盛を先達して、堂塔を巡礼し奥の院へ進みます。


維盛、しっかりー!


高野山は帝城を去つて二百里郷里を離れて無人声清嵐梢を鳴らし夕日の影閑かなり。
八葉の峰八つの谷まことに心も澄みぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ垣に苔生して星霜久しく覚えたり。


都から二百里離れた高野山は、風が梢を鳴らす音、鈴の音だけが聞こえる静寂の世界。

瓦には松が生え、垣は苔むして、歳月の長さを感じさせる光景でした。


維盛、奥の院を堪能。

維盛が身のいつとなく雪山の鳥の鳴くらんやうに「今日よ明日よ、と思ふものを」とて涙ぐみ給ふぞ哀れなる



御入定は承和二年三月二十一日の寅の一点の事なれば、過ぎにし方は三百余歳、行末もなほ五十六億七千万歳の後慈尊の出世三会の暁を待たせ給ふらんこそ久しけれ。

「平家物語」の時点で、弘法大師の入滅から三百余年。
弥勒菩薩が現れ、出世三会の説法が行われるまであと五十六億七千万年。



来るのか来ないのかというと、来ない、のではなかろうか。



この夜は滝口入道の庵へ帰って、いろいろな話をしました。

維盛の滝口入道評価。

更けゆくままに聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には真理の玉を磨くらんと見えて、後夜晨朝の鐘の声には生死の眠りを覚ますらんとも覚えたり。遁れぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。

極めて深遠な中で真理を追い求めているようで、夜明け前と早朝の鐘の音で迷いの夢を覚ますのだろうと思われる滝口入道の姿。

維盛は「この境遇から逃れて滝口くんみたいになりたい」と思ったのでした。

大丈夫か、維盛・・・(T_T)


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『高野巻』

いつも応援いただきありがとうございます。平家一門内での居心地の悪さに加え、維盛は源氏と戦う中で、平家の将来にも悲観的になったかもしれません。都へ残した子供達のこともあり、維盛の心の中でなにかが、ぷちん、と壊れてしまったのでしょうか。ロミオ滝口入道、これからいい仕事します。
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世俗の姿は男前。滝口入道と桜梅の中将。『平家物語』in高野山

こんにちは。


横笛との恋心を捨てて、出家した斎藤時頼こと滝口入道。


横笛から逃げるように高野山へ入ります。

そこへ。


ぴんぽーん。っと、訪ねて来たのは、


間違えました。

こっち↓


・・・誰?

斎藤時頼は、平重盛に仕えておりました。

重盛といえば・・・「桜梅の中将」平維盛のとーちゃんです。


そう。訪ねて来たのは、平維盛なのでした。


滝口入道を頼り高野山へ来た維盛。

何という変貌ぶりでしょう。いったい彼に何があったのか。


家族を都へ残し、平家一門と共に都落ちしたはず。

その平家一門は、一の谷の合戦で源氏に敗退し、屋島等へ移動したところ。


平忠度、敦盛達も討死。

実は維盛。


都へ残してきた愛しい者達。


子供達の事がとにかく頭から離れません。


身は屋島にありながら、心は都へトリップした状態。

『あるにかひなき我が身かな』(生きる甲斐もない我が身だなぁ)な日々。

ついに、寿永3年3月15日の暁。

こっそりと屋島の館を脱走します。


同行するのは、三名。
与三兵衛重景、童子の石童丸、舎人の武里(舟の操舵の心得あり)。


阿波国結城の浦から出航。


和歌、吹上、衣通姫の神と現れ給へる玉津島の明神、日前国懸の御前を過ぎて紀伊の湊にこそ着き給へ。
これより山伝ひに都へ上り、恋しき者共を今一度見もし見えばやとは思はれけれども。
本三位中将殿、生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥を曝し給ふだにも口惜しきに、この身さへ囚はれて父の屍に血をあやさん事も心憂し。とて千度心は進めども、心に心をからかひて高野の御山に参り給ふ。



紀伊の港から都へ上り、恋しい者達に今一度会えるものなら会いたいと思ったけれど。



叔父の本三位中将重衡は、生け捕りにされて大路を引き回され、京・鎌倉に恥を晒されました。

この事だけでも悔しいのに、維盛まで囚われて、亡き父・重盛の名を辱めるような真似はできません。

心は千度も都へと向かったけれど、葛藤を繰り返した挙げ句、高野山へたどり着いたのでした。

この時の維盛の姿は。

潮風に黒み、尽きせぬ物思ひに痩せ衰へて、その人とは見え給はねども、なほ世の人には勝れ給へり

・・・大変だったのね、維盛。

こうして高野山へ来た維盛は、面識のあった滝口入道を訪ねたのです。
(前述。滝口入道こと斎藤時頼は、平重盛に仕えていた)

維盛の滝口入道評。



三位中将それに尋ね逢ひて見給ふに、都にありし時は、布衣に立烏帽子衣文をかい繕ひ、鬢を撫で、華やかなりし男なり。
出家の後は今日初めて見給ふに、未だ三十にも成らざるが、老僧姿に痩せ黒みて、濃墨染に同じ袈裟香の煙に染み薫り、賢しげに思ひ入りたる道心者羨ましうや思はれけん。



都にいた時は布衣に立烏帽子、衣をきちんと装って鬢を整え、華やかな男でした。
今日初めて会った出家後の姿は、まだ三十歳にならないのに、老僧のように痩せ黒ずんで、濃墨染に同じ色の袈裟をまとい、香の煙に染み薫り、深く仏道を歩んだ者となっているのです。

維盛はこれを、羨ましいなぁーっと思ったのでした。



大丈夫か、維盛・・・(T_T)



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『横笛』

いつも応援いただきありがとうございます。ロミオ滝口入道は、やはり男前だったようですね。出家しなければ浮いた話がわんさかと出たことでしょうねー。その滝口入道の前に現れた、ヨレヨレの維盛。源氏との合戦での連敗、家族を残して都落ち。維盛、いいとこなしです。ううう。
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立花宗茂帰依の高野山大円院に滝口入道と横笛の悲恋物語。

こんにちは。

高野山の宿坊寺院に、大圓院(大円院)、があります。

もとは多聞院と称し、開創は聖宝理源大師(延喜年間901~923)。

豊前豊後の守護職大友能直が帰依し、師檀の契りを結びます。
その孫・立花道雪(宗茂の義父)も傾信が深く、宗茂も天正年間に高野山に来た折りにここを訪ね、宣雄阿闍梨と意気投合し、帰依。

1592(文禄元)年。
義父の道雪・実父の紹運の霊牌と宝塔を建立して、多聞院と師檀の契りを結びます。



宗茂は、関ヶ原において西軍の武将として大津攻めでいけいけどんどん、西軍の敗北を知り急遽戻った柳川で鍋島相手に手加減なく戦い、加藤清正の説得に応じ開城。

数年の浪人貧乏時代を経て、御書院番頭等に誠意を込めてお仕えし、幾星霜を経て旧領の柳川に復活。


そんな宗茂が帰依した多聞院は。


大檀主立花宗茂の法号「大圓院殿松隠宗茂大居士」から大圓院という寺名に改めました。


「柳川城主前飛弾太守従四位源宗茂公」
「奉為大圓院殿松隠宗茂大居士成三菩提也」
「嗣子左近将監従四位下源忠茂朝臣 建立」(忠茂は宗茂の養子・二代目柳川藩主)


さて。この大圓院。

第8世住職に、阿浄、という僧がいます。或は、滝口入道。


元の名は斎藤時頼。

平重盛の侍であった彼は、清盛の西八条殿での花見の宴で建礼門院の女官の横笛の舞姿を見初め、恋文を送るように。


しかし、父・三条斎藤左衛門茂頼が「将来は平家一門に入る名門のお前が、横笛ごときとお付き合いするのは、だめー」と、反対。


主の平重盛の信頼に背いて恋に溺れそうだわっと、これを機に嵯峨の往生院で出家。


極端な人である。

一方、梯子をいきなり外されたかのような、横笛ちゃん。

我をこそ捨てめ様をさへ変へけん事の恨めしさよ。
たとひ世をば背くとも、などかはかくと知らせざるべき。
人こそ心強くとも尋ねて恨みん、と思ひつつある暮れ方に都を出で嵯峨の方へぞ憧れける。



頑張って時頼を追いかけ、とうとう嵯峨の往生院まで辿り着きます。

しかし、時頼は

全くこれにはさる事なし。もし門違へにてやら候ふらん。とてつひに逢はでぞ返しける。
横笛情なう恨めしけれども力及ばず涙を押さへて帰りけり。



同宿の僧に「全くここにはそのような人はいません」と言わせたので、横笛は泣く泣く帰りました。


また横笛が訪ねてきたら、きっと心が動いてしまうから、と、滝口入道(時頼)は嵯峨を出て、高野山へ移ります。

横笛も髪を下ろしたと伝え聞いた滝口入道。二人は和歌を交わします。

滝口入道
そるまでは恨みしかどもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき

横笛
そるとても何かうらみんあづさ弓 引とどむべきこころならねば


その後、横笛は横笛はまもなく法華寺で亡くなりました。

滝口入道は、これを聞き、ますます修行に励みます。



父の斎藤左衛門茂頼は息子の不孝を許し、親しい者達も入信。

やがて滝口入道は「高野聖」と呼ばれるほどの人物になりました。


おや。滝口入道のもとへ誰かが訪ねてきました。

どちら様でしょう?


つづく。


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『横笛』

いつも応援いただきありがとうございます。ロミオとジュリエット風の滝口入道と横笛の悲恋物語。立花宗茂が帰依したことと、この滝口入道にゆかりのお寺として大円院は有名です。さて、『平家物語』の滝口入道は、この訪ねて来た人物の最期を見届けることになります。
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さらば愛しき者達。『平家物語』維盛都落。実盛との縁。

こんにちは。


富士川の戦いや


倶利伽羅峠の戦い等一連の合戦で


平家軍の大半を失った、総大将・維盛。


木曽義仲達が入洛する前に、西国へと向かうことに。


「平家都落」です。


平忠度は都落にあたり、歌の師匠・藤原俊成に和歌を託しました。


維盛は、

「我は日比申ししやうに、一門に具せられて西国の方へ落ち行くなり。 何処までも具足し奉るべけれども、道にも敵待つなれば、心安く通らん事有難し 」

「常々言っていたように、一門と共に西国の方へ落ちて行くのだ。
皆をどこまでも連れて行きたいが、途中にも敵が待ち構えているだろうから、簡単には通り抜けられないだろう」

と、平家一門の中で唯一人、妻子を都へ残します。

維盛が別れを告げるのは。

「桃顔露に綻び紅粉眼に媚を成し柳髪風に乱るる粧また人あるべしとも見え給はず」というほどの美人(らしい)妻と、


10歳の息子「六代」と、8歳の姫君。


維盛は妻に語ります。

「たとひ我討たれたりと聞き給ふとも、様など替へ給ふ事は、努々あるべからず。
その故はいかならん人にも見もし見えて、あの幼き者共をも育み給へ 。情をかくる人もなどか無かるべき。」


「たとえ僕が討たれたと聞いても、出家などは決してしないでね。
貴女はどのような人でもいいから連れ添って、あの幼い子達を育ててほしいの。
貴女に情をかけてくれる人はきっといるはずだから。お願い。」

この維盛のお願いに、うだうだぐずぐずする妻。(ざっくり省略。)


「今日はかく物憂き有様共にて軍の陣へ赴けば、具足し奉つて、行方も知らぬ旅の空にて憂き目を見せ参らせんも、我が身ながらうたてかるべし。その上今度は用意も候はず。
何処の浦にも心安う落着きたらば、それより迎へに人をも参らせめ」とて思ひ切つてぞ立たれける。


「行方も知らぬ旅の空で辛い目を見させるのは情けない。
何処かの浦で安心して落ち着く場所が見つかったら、迎えをよこすからね」と言い残し、思い切りをつけて、具足を身に付け、馬に乗ろうとすると


二人の子達が維盛の鎧の袖や草摺に取り付き、「これはされば何方へとて渡らせ給ひ候ふやらん」「我も参らん」「我も行かん」と慕い泣く。


「憂き世の絆と覚えて三位中将いとどせん方なげにぞ見えられける」。


そこへ、新三位中将資盛、左中将清経、左少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、弟五人が、安徳天皇の行幸から遅れているぞー!っと、兄・維盛をお迎えに。

一旦馬に乗って出たものの引き返した維盛は、弓の弭で御簾を掻き上げて、



「これ御覧候へ。幼き者共があまりに慕ひ候ふをとかく拵へ置かんと仕るほどに、存知の外の遅参候ふ」と言い、はらはらと泣き。

弟五人、もらい泣き。


そんな中。

維盛の年来の侍、斎藤五宗貞と斎藤六宗光という、兄は十九歳、弟は十七歳になる兄弟が、維盛の馬の左右に取りついて「何処までも御供仕り候はん」と言い張ります。

斉藤さんちの五宗貞、六宗光という兄弟。誰?

そうです。斉藤さんといえば。


富士川の戦い、北陸方面での戦い(倶利伽羅峠の戦い等)で総大将・維盛に従い、坂東武者の強さを教え、


白髪を染め


錦の直垂を身に付けて戦い


討死した斉藤実盛。

この実盛の息子達なのです。


斎藤五宗貞と斎藤六宗光兄弟に対し、維盛は言葉をかけます。

「己等が父長井斎藤別当実盛が北国へ下りし時『供せう』と云ひしを『存ずる旨があるぞ』とて汝等を留め置き、つひに北国にて討死したりしは、古い者にてかかるべかりける事を予て悟つたりけるにこそ。」

「お前達の父・長井斎藤別当実盛が北国へ下ったとき、お前達が『供をする』と言うのを『思うところがある』と言って留め置き、ついに北国で討ち死にしたのは、実盛が豊かな経験からこうなることをあらかじめ悟っていたからだ。」と。



「『あの六代を留めて行くに心安う扶持すべき者の無きぞ。ただ理を枉げて留まれかし。』
と宣へば、二人の者共力及ばず涙を押さへて留まりぬ。」


「息子の六代を都に残して行くにも、安心して託すことが出来る者がいない。どうかこの無理をわかって留まってくれ。」と維盛が後を託す言葉を伝えると、二人は涙をこらえて留まりました。



妻は天涯孤独の身、維盛自身も有力な後ろ楯がない。

子供達、特に嫡子の六代の行く末を思う維盛の心中は、それこそ「察するに余りある」かと。


「若君姫君女房達は、御簾の外まで転び出で、人の聞くをも憚らず声をばかりに喚き叫び給ひける。
その声々耳の底に留まりて、されば西海の立つ波吹く風の音までも聞くやうにこそ思はれけれ。」


若君、姫君、女房達は声を限りに泣き叫びました。

この声々は維盛の耳の底に染みついて、西海の立つ波、吹く風の音までも、維盛にはこの泣き声のように思われたのでした。



維盛、大丈夫か?



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)


いつも応援いただきありがとうございます。維盛めそめそ編の初回は、妻子を前に少し大人のふりする維盛くんでした。一旦馬に乗って出たものの引き返した維盛が「弓の弭で御簾を掻き上げ」る所作に、何とも言えぬ色気を感じた高校生の私。友人に引かれようともめげたりしませんでしたわ。むふんっ。
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老武者の矜持と執心。能「実盛」

こんにちは。



前回までは、『平家物語』の実盛。

能「実盛」で描かれる実盛は、また一味違います。
作者は世阿弥。


【能「実盛」】

場所/加賀国篠原の里(篠原の戦いの場所)

前シテ/篠原の里の老人。着流尉出立(老人の扮装)
後シテ/斎藤別当実盛の霊。修羅物出立(武将の扮装)
ワキ/遊行上人。大口僧出立(格式張った僧侶の扮装)
ワキツレ従僧(二人)・間狂言篠原の里の男


源平の合戦から時は流れ。平和になった加賀国篠原の里。

踊り念仏で有名な一遍上人の弟子・遊行上人は、この里を訪れ説法をしていました。


遊行上人は一遍上人の弟子。一般の僧より格上だと装束で示します。

毎日、上人と話をする老人がいましたが、その姿は上人以外には見えないと分かり、ある日。

上人は老人に名を尋ねます。しかし、名乗らない。名乗らないどころか、源平合戦の話まで始めてしまう。



イライラしつつ何度も尋ねて、ようやく老人は、自分は斎藤別当実盛の亡霊だ、と述べて池のほとりに姿を消します。

(中入)

上人と従僧が池のほとりで踊り念仏で弔っていると、やがて、老いても華やかな鎧を身に付けた武将姿の実盛の幽霊が現れます。

ワキ/上人
「不思議やな白みあひたる池の面に。
かすかに浮び寄る者を。見ればありつる翁なるが。甲冑を帯する不思議さよ」


残雪のように鬢鬚白き老武者なれども、その出で立ちは、「夜の錦の直垂に、若武者が着るような萌黄匂い(もえぎ色の濃淡)の鎧、金(こがね)作りの太刀刀(たちがたな)」と、華やか。



実盛は、上人の弔いに応じ、「慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の物語。なほも昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。草の蔭野の露と消えし有様語り申すべし」と、討死した時の有り様を語ります。

まず、首実験の場面から。

シテ/実盛(語り)
「さても篠原の合戦破れしかば。
源氏の方に手塚の太郎光盛。木曽殿の御前に参りて申すやう。
『光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ。
大将かと見れば続く勢もなし。また侍かと思へば錦の直垂を着たり。
名のれ名のれと責むれどもつひに名のらず。声は坂東声にて候』と申す。

木曾殿、『あつぱれ。長井の斎藤別当実盛にてやあるらん。
しからば鬢鬚の白髪たるべきが。黒きこそ不審なれ。
樋口の次郎は見知りたるらん』とて召されしかば。

樋口参りただ一目見て。涙をはらはらと流いて。


『あな無慚やな。斎藤別当にて候ひけるぞや。
実盛常に申ししは。六十に余つて戦をせば。
若殿原と争ひて。先に駆けんもおとなげなし。
また老武者とて人々に。侮られんも口惜しかるべし。
鬢鬚を墨に染め。若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。まことに染めて候』」


と、ここまでは『平家物語』とほぼ同文。

「あな無慚やな、斎藤別当にて候ひけるぞや」からとったものが、
芭蕉の「むざんやな 甲の下の きりぎりす」。
多太神社に今も残る実盛の兜を見て読んだ句。
はじめは「あな」が付いていたものを、字余りになり省いたとか。


シテ/実盛
「『(まことに染めて候)。洗はせて御覧候へ』と。
申しあへず(申すやいなや)首を持ち。」

地謡「御前を立つて辺りなる。この池波の岸に臨みて。
水の緑も影映る。柳の糸の枝垂れて。
気(き)霽(は)れては。風 新柳の髪を梳(けず)り。
氷消えては。波 旧苔(きゅうたい)の。
鬚を洗ひて見れば。墨は流れ落ちてもとの。白髪となりにけり。

げに名を惜しむ弓取は。誰もかくこそあるべけれや。
あらやさしや(※殊勝なことである)とて皆感涙ぞ流しける。」



せっかく染めていたのに。墨、流されちゃった。


続いて、実盛の錦の直垂の話。



実盛は出陣にあたり、「このたび北国に。まかり下りて候はば。さだめて討死仕るべし。
老後の思ひ出これに過ぎじ御免あれと望み」宗盛から、赤地の錦の直垂を許されました。

実盛は故郷の越前国に「隠れなかりし弓取の。名は末代に」残す心意気だったのです。


ところで。実盛は武者ですから、当然多くの殺生をしました。

死後、敗れても再生し戦い続け苦しむ世界の「修羅道」へ堕ちています。

この修羅道、ご丁寧に毎日決まった時刻に、地獄の苦しみを味わうところなのです。

修羅道に堕ちる時刻となると、実盛は手塚の太郎と組み討ち死にした有様を見せ、篠原の土となった身の弔いを願い、姿を消しました。

以下、少し長いですが、『平家物語』よりもテンポよく読めると思うのでそのままご覧ください。

 
上人「げにや懺悔の物語。心の水の底清く。濁りを残し給ふなよ。」

実盛「その執心の修羅の道。めぐりめぐりてまたここに。
木曾と組まんと企みしを。手塚めに隔てられし。無念は今にあり。」

地謡「続く兵(つわもの)誰々と。名のる中にもまづ進む。」

実盛「手塚の太郎光盛」
地謡「郎党は主(シュウ)を討たせじと。」
実盛「駆け隔たりて実盛と。」
地謡「押し並べて組むところを。」
実盛「あつぱれ。おのれは日本一の。剛の者と組んでうずよとて。
鞍の前輪に押し付けて。首掻き切つて捨ててんげり。」
 
地謡「その後(のち)手塚の太郎。実盛が弓手に廻りて。
草摺を畳み上げて。二刀刺すところをむずと組んで二匹(※二頭の馬)が間(あい)に。どうと落ちけるが。」

実盛「老武者の悲しさは。」

地謡「戦には為(し)疲れたり。
風に縮める。枯木の力も折れて。
手塚が下に。なるところを。郎党は落ち合ひて。
つひに首をば掻き落とされて。篠原の土となつて。
影も形も亡き跡の、影も形も南無阿弥陀仏。
弔ひて賜び給へ、跡弔ひて賜び給へ。」



能「実盛」の中の実盛は、なんと、義仲と組もうと向かったというのです。



二歳の頃、実盛が命を救った敵の大将・木曽義仲。
彼に討たれるならそれもよしと立ち向かった老武者実盛。

それを、手塚太郎光盛に阻まれたことが今でも無念である、と。



終にはその手塚に首を落とされ、あげくに、黒く染めていた髭や髪を池で洗われ、白髪をさらされてしまいました。

髪を黒く染め、若々しく戦に臨んだ実盛は、生前語っていた通り、最期までその矜持を貫き通したというのに。

実盛はその無念を

「いやさればこその実盛は。この御前なる池水にて鬢の髯をも洗はれしとなり。
さればその執心残りけるか。」


と、述べています。その執心たるや、

「われ実盛が幽霊なるが。魂(こん)は冥土にありながら、魄(はく)はこの世に留まりて。
なお執心の閻浮の世に、二百余歳の程経れども、浮かびもやらで(略)」


な、状態。



ですから、実盛の幽霊は、篠原の土となった身の弔いを遊行上人に「弔ひて賜び給へ、跡弔ひて賜び給へ」と言い残して姿を消したのでした。


【曲趣】

能「実盛」の主題は、老武者の執心。

前場は老人の独唱が大半、後場は老体ではあるが型が多く、その動きの中に老武者の心情を入れなければならないため、難曲だとされています。

本作では、ワキに名乗れと言われても、シテはなかなか名乗ろうとしません。
これは実盛が最期に臨んで手塚太郎と戦ったとき、手塚が「名乗れ、名乗れ」と責めかけても遂に名乗らなかったことを思い起こさせ、ひねくれ者の実盛の執心の深さと矜持を象徴しているとか。


『平家物語』の爽やかな「坂東武者の実盛」と比べて、どうでしょう?


【作者・世阿弥の意図】

世阿弥は、能の詞章を書くにあたっては、忠実に原典の順に従うのではなく、劇的効果を出すために順序を変更すべきであると述べています。(『申楽談儀』)

「実盛に鬚洗ふより、順序ならば、合戦場になる体を書くべきを、『また実盛が』など言ひて、入端に戦う体を書く、かやうの心得なり」の説明通り、

『平家物語』/「合戦討死」→「首実検」→「錦の直垂の話」
能『実盛』//「首実検」→「錦の直垂の話」→「合戦討死」

と、なっています。


また、この「実盛の幽霊が現れて、遊行上人から念仏を授かった」話は、当時、実盛の幽霊が出たという噂が京都で広まっており、世阿弥はその趣向を取り入れて本作を書いたと考えられています。
(1414/応永21年5月11日、醍醐寺三宝院の僧・満済の日記)


おまけ。


前シテの尉の頭は、「尉髪」の形。

これ、出来上がった鬘をかぽん、っと被るのではなく、毎回結うのです。
後シテでは、この直毛の鬘を垂らし、梨子打烏帽子を被ります。


以上、能「実盛」でした。



参考文献
『世阿弥芸術論集』(田中裕校注/新潮社)
観世流大成版『実盛』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。能「実盛」の舞台での装束は、権利関係上掲載出来ないので、お手数ですが「能 実盛」で検索してご覧くださいませ。様々な組み合わせが出てきます。面白いですよー。
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「故郷へは錦を着て帰る」実盛のお洒落決意

こんにちは。

追手の迫る幼い義仲を、木曽まで逃がした斎藤別当実盛。

彼は平家軍が散り散りになる中、一騎残り、義仲軍の手塚太郎光盛と対峙。



実盛は、敢えて名乗らず、手塚光盛と組み合います。

「さては汝が為によい敵ぞ。但し和殿下ぐるにはあらず。
存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ。寄れ組まう手塚。」


「あつぱれ己は日本一の剛の者に組んでうずなうれ」

手塚太郎光盛は、実盛に対し「鎧の草摺引き上げて二刀刺し弱る処に組んで落」します。

気持ちは勇ましいものの、年を老い、戦い疲れ手負いであった実盛は手塚太郎光盛の郎等により、首を落とされたのでした。


手塚光盛は、実盛の首を義仲の前へ持参します。

義仲には、この首は、斎藤別当実盛だとはわかったものの、自分が幼い頃に既に白髪混じりだったのだから、お髭や髪がこんな真っ黒なはずはない、おかしいなー?と、乳兄弟の樋口兼光を呼び出し確認させました。


樋口次郎ただ一目見て『あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり』とて涙をはらはらと流す。

「あな無残。長井斎藤別当にて候ひけり」・・・実盛に間違いありません。


義仲の恩人である実盛を自分の手勢が討ち果たしてしまったのです。



なんてこったー!!義仲、号泣!!

・・・となるはずが、この点は『平家物語』は実にあっさりと流しています。


木曾殿「それならば今は、七十にも余り白髪にもならんずるに、鬢鬚の黒いはいかに」と宣へば、樋口次郎涙を押さへて

「さ候へばこそ、そのやうを申し上げんと仕り候ふが、あまりにあまりに哀れに覚えて、不覚の涙のまづこぼれ候ひけるぞや。
されば、弓矢取る身は予てより、思ひ出の詞をば聊かの所にても遣ひ置くべき事にて候ふなり。
実盛常は兼光に逢うて物語りにし候ひしは

『六十に余つて軍の陣へ赴かば、鬢鬚を黒う染めて若やがうと思ふなり 。
その故は若殿原に争ひて先を駆けんも大人げなし。
また老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし。』と申候ひしか。」


実盛ならば、年は七十にはなっているだろうに、なぜお髭や髪が真っ黒なの?と、義仲。

それを言おうとしたけれど、実盛の事があまりに、あまりに、哀れに思えて不覚にも涙がこぼれた兼光。


弓矢取る身は、常日頃より誰かに自分の考えを言い残しておくべきなのだなぁ、と言う兼光。

かつて実盛が兼光に語った言葉。

「六十過ぎて軍勢に加わる時は、髭も髪も黒く染めて若くしようと思う。
何故なら、若者達と争って先を駆けるのも大人げないし。
また、老武者だわ、くす、もうけたー、と、人が侮るのも口惜しいからなぁ」




「まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ。」と申しければ木曾殿「さもあるらん」とて洗はせて見給へば

白髪にこそなりにけれ。




本当に染めているのだろうか、と、実盛の首を池で洗ったところ、白髪の姿が現れたのでした。


(義仲主従と実盛の話はここで終わります)


さて。この戦いの時の実盛の装束。

「赤地の錦の直垂に、萌黄威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが(略)」

対峙した手塚太郎光盛は、この「錦の直垂」から大将かと思ったと、義仲の前へ実盛の首を持参した時に述べています。

「光盛こそ奇異の曲者組んで討つて参つて候へ。大将かと見候へば、続く勢も候はず。侍かと見候へば、錦の直垂を着て候ひつるが『名乗れ名乗れ』と責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。」

この日、実盛は大将が着用する錦の直垂を身に付けていました。

なぜ?

出陣前に実盛は、大臣の宗盛に申し出ます。


「実盛が身一つの事では候はねども、
先年坂東へ罷り向かつて候ひし時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだに射ずして駿河国の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老いの後の恥辱ただこの事候ふ。」


「実盛一人に限った事ではないが、先年、坂東へ出征(富士川の戦い)の時は


平家軍は、水鳥の羽音に驚いて敗退した。

この事は、実盛にとって老いの後の恥辱、これに尽きる」と。


この度の北陸への出陣は、討死する覚悟の実盛。

実盛は、近年は領地を武蔵国長井に与えられ、居住していましたが、元は越前国の者。



そこで、彼は宗盛に願い出ます。


「事の譬への候ふぞかし『故郷へは錦を着せて直ぐ帰る』と申せば、あはれ錦の直垂を御免候ひかし」と申しければ、
大臣殿「優しうも申したるものかな」とて錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし。


「『故郷へは錦を着て帰る』とも言うので、ぜひ錦の直垂の着用をお許しください」と実盛が言うと、宗盛は『殊勝な事を申した』と、錦の直垂の着用を許可したのでした。



昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当はその名を北国の巷に揚ぐとかや。
朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ


昔、漢の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当実盛はその名を北国の地に上げたという。

朽ちもせぬ空しい名前だけをそこに留めおいて、骸は越路の果ての塵となってしまったことは、哀れなことである。

実盛・・・( ノД`)…


去んぬる四月十七日、十万余騎にて都を出だし事柄は何面を向かふべしとも見えざりしに、今五月下旬に都へ帰り上るには、その勢僅かに二万余騎。

流れを尽くして漁る時は、多くの魚を得るといへども明年に魚なし。
林を焼いて狩る時は、多くの獣を得るといへども明年に獣なし。
後を存じて少々は残さるべかりけるものを、と申す人々もありけるとかや。



四月十七日、北陸へ出陣した十万余騎は。

五月下旬に都へ帰って来た時には、僅か二万騎。

控えの軍勢を都へ残さなかった平家軍は、この残存兵力で源氏と立ち向かわなくてはならなくなったのでした。


義仲、頑張りました。


総大将、維盛。ハリノムシロ。


『平家物語』「実盛最期」おしまい。



実盛を討った、諏訪神氏出身の手塚太郎光盛(金刺光盛)の居館跡は、諏訪では「霞ヶ城(かすみがじょう)」として伝わっているとか。

らんまる様が訪問し、記事にされていますので、ぜひ。


◆篠原の戦いで義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取ったという義仲の忠臣手塚太郎光盛の居館跡

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「手塚館 (木曾義仲史跡関連 上田市手塚)」


http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-713.html


◆桜城に残る諏訪一族と義仲に関する伝説

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「桜城2 (木曾義仲史跡関連 下諏訪町)」


http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-719.html



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)


いつも応援いただきありがとうございます。『平家物語』では、実盛と義仲のお涙頂戴物語ではなく、坂東武者の実盛を描きたかったのかな。富士川の戦いと北陸方面の戦い(倶利伽羅峠の戦い等)において、総大将の維盛を補佐した実盛は、昔救った義仲の手勢によって討死。大敗を喫した維盛、これからどうするのでしょうねぇ。義仲、いよいよ上洛します。
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平家物語「実盛最期」。老体に鞭打ち、一騎残る

こんにちは。



倶利伽羅峠で木曽義仲に敗退した平家軍。

加賀国篠原に退却して兵馬を休めていたところへ、 木曽義仲の軍勢一万余騎が篠原に押しよせ、再び敗退。(篠原合戦)

散り散りになって敗走する平家軍の殿(しんがり)を自らつとめたのが、齋藤別当実盛。


富士川の戦い前に、維盛達へ坂東武者の強さを語って聞かせた人物。


「赤地の錦の直垂に、萌黄威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが、御方の勢は落ち行けどもただ一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ」

総大将の如ききらびやかな姿の実盛は、たった一騎で奮戦。



実盛の前へ、木曽義仲軍から手塚太郎光盛が進み出て、たった一騎で残った実盛に、見上げた者だ、「名乗らせ給へ名乗らせ給へ」と声をかけます。



実盛が逆に『かう言ふ和殿は誰ぞ。』と尋ね、光盛が『信濃国の住人手塚太郎金刺光盛』と名乗ります。しかし実盛は


「さては汝が為によい敵ぞ。但し和殿下ぐるにはあらず。
存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ。寄れ組まう手塚。」


「では私は貴殿にとって都合のいい敵だ。貴殿を侮るわけではないが、思うところがあって名乗りはしない。来い、組もう、手塚」

と、敢えて名乗らず。



「あつぱれ己は日本一の剛の者に組んでうずなうれ」

「おお、貴様は何と、日本一の剛の者にかかってくるのか。上等だー!」と、主を守るために間に入った光盛の郎等を自分の乗った鞍の前輪に押さえつけ、頭を掻き切って捨てました。


「手塚太郎 郎等が討たるるを見て、弓手に廻り合ひ、鎧の草摺引き上げて二刀刺し弱る処に組んで落す。

斎藤別当 心は猛う進めども、軍にはし疲れぬ手は負うつ、その上老武者ではあり手塚が下にぞなりにける。」


光盛は、郎等が討たれるのを見て、実盛の左手に回り込み、鎧の草摺を引き上げ、刀で二太刀刺し、弱ったところを組んで落とし。

実盛は闘志をむき出しにして突っ込んだものの、既に戦いに疲れ、痛手も負い、老武者でもあるので、手塚に押さえつけられてしまいました。


「手塚太郎、馳せ来たる郎等に首取らせ、木曾殿の御前に参つて

『光盛こそ奇異の曲者組んで討つて参つて候へ。
大将かと見候へば、続く勢も候はず。
侍かと見候へば、錦の直垂を着て候ひつるが『名乗れ名乗れ』と責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる。』

と申しければ」


手塚光盛は、実盛の首を郎等に落とさせ、義仲の前へ持参します。

実盛の装束を見れば、大将かと思ったが軍勢がいない。
侍かと思えば、大将の証である錦の直垂を着ている。
名乗れと何度も言ったのに、ついに名乗らず。
言葉は関東訛りであった、と報告。


「木曾殿『あつぱれこれは斎藤別当にてあるごさんなれ。
それならば義仲が上野へ越えたりし時、幼目に見しかば、白髪の霞苧なつしぞ。
今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。
樋口次郎年比馴れ遊んで見知りたるらんぞ。樋口呼べ 』とて召されけり。

樋口次郎ただ一目見て『あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり』とて涙をはらはらと流す。


手塚光盛にはわからなくとも、義仲には、わかりました。

この首は、斎藤別当実盛のものであると。



義仲の父・義賢は兄の義朝と対立し、大蔵合戦で義朝の長男・義平に討たれました。
当時2歳の義仲(駒王丸)は義平によって殺害の命が出されましたが、斎藤実盛達が信濃国へ逃したため、今も命があるのです。

「その頃既に白髪混じりだったなら今は真っ白になっているはず。
鬢や鬚が黒いのが腑に落ちない。」

長年懇意にしていた樋口次郎兼光に確認させようと呼んだところ。

兼光は一目見て

「なんと無残な。痛わしい。斎藤別当実盛でございます。」

と言って、涙をほろほろと流しました。


・・・なぜ泣く、兼光。

つづく。



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)


いつも応援いただきありがとうございます。今日は文字ばっかりになってしまいました。実盛最期の物語の真骨頂は次回。義仲の乳兄弟の樋口次郎兼光の涙の理由は如何に。そして一方、実盛の無骨な生き方を描くこともまた、『平家物語』の面白いところ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

夏の始まり沙羅双樹の花。

こんにちは。


いよいよ夏が本番になりつつありますねぇ。
昨日は、初セミが鳴きました。

シャー・シャー・シ・・・で止まったまま、沈黙。

あの蝉はどうなったのかしら。

そして、夜中の1時でも気温30度です。来た、大阪の夏。


いっそのこと海にでも出掛けてしまえばいいのですが。




祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。



『平家物語』の冒頭ですが、この「沙羅双樹」。

インド各地を修行中にクシナガラで病いに倒れ、入滅したお釈迦様。

インドの「沙羅」の白い花びらが散って、釈迦の体を包んだといいます。

精舎の四隅に「沙羅」が2本ずつ生えていたから、「沙羅双樹」。

インドではありふれた植物ですが、耐寒性に乏しいため日本では自生せず、温暖な地域や温室内でしか育たないため、代用されるのが、夏椿。


(※これは普通の椿)


「沙羅双樹」は、早朝に開花した純白の花が、夕方には無慚な姿で散ってしまうとか。

よって、儚い人間の一生に喩えられています。


朝には美しい姿を見せていた白い花。


夕方には散る。儚いものかな。


平家の繁栄と、平家の人々の命もまた同じ。


仏教において特別なお花の夏椿。

京都では、妙心寺内東林院、嵯峨鹿王院の沙羅双樹が有名。
毎年「沙羅双樹を愛でる会」等も六月中旬頃より行われるお寺もあります。


いつも応援いただきありがとうございます。「朝には紅顔ありて夕べには白骨となりぬ」とは、浄土真宗のおふみさまでしたでしょうか。母が、いつも「ほんとにそうだわ」と言っていました。ほんと、人の命なんて、儚いものです。
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坂東武者の恐怖。お話上手な斎藤実盛 in富士川

こんにちは。

富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い。


いずれの戦いでも、総大将の平維盛。

戦って、どんなんかなー?っと、富士川の戦いの前に、坂東の道案内、長井斎藤別当実盛に尋ねます。



「やや実盛、汝ほどの射手八箇国にいかほどあるぞ」

実盛が十三束(こぶし十三個分)の大矢を使うので、すごいなーっと思っていた維盛。

ところが実盛曰く

「実盛ほど射候ふ者は、八箇国に幾らも候ふ。
坂東に大矢と申す定の者の十五束に劣つて引くは候はず。
弓の強さもしたたかなる者五六人して張り候ふ。
かやうの精兵共が射候へば、鎧の二三両は容易う懸けて射通し候ふなり。
大名一人して五百騎に劣つて持つは候はず。」


実盛程度は坂東では大矢とは言わない。
力の強い者五~六人で張った強い弓を使う。
鎧の二つや三つは軽く射通しちゃうよ、。

そんな射手を、大名ならば五百騎以上連れている。だそうで。


坂東では、「馬に乗つて落つる道を知らず、悪所を馳せれど馬を倒さず」。

・・・。


何ですか、西ではこうだと?


実盛によると坂東では

「軍はまた、親も討たれよ子も討たれよ死ぬれば、乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。」

合戦となれば親が討たれようと、子が討たれようと、死屍累々の山を乗り越えて戦うのだというのです。

まぁ怖い。

「西国の軍と申すは、すべてその儀候はず。
親討たれぬれば引き退き、仏事供養し忌み明けて寄せ、
子討たれぬればその憂へ嘆きとて寄せ候はず。」



「兵糧米尽きぬれば春は田作り秋は刈り収めて寄せ」


「夏は熱しと厭ひ」


「冬は寒しと嫌ひ候ふ。」


「東国の軍と申すはすべてそのやう候はず。」

そして、既に甲斐信濃の源氏等は地形を調べ、富士の裾野から搦手へも廻りこんでいるだろうと続けます。

実盛の坂東のお話に、維盛も周りの兵達もさぞかし恐ろしく思ったことでしょう。


「かやうに申せば、大将軍の御心を臆させ参らせんと申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。
その故は、今度の軍に命生きて二度都へ参るべしとも存じ候はず。
但し軍は勢の多少にはより候はず、謀によるとこそ申し伝へて候へ。」


実盛は、皆を恐怖のどん底に突き落とすつもりではなく、今回の合戦で生き延び、再び都へ上ることができるとも思っていない、と述べ。

そして、軍は、兵の数の多少で決まるものではなく、謀略で決まると言われている、と結びます。


維盛・・・(T_T)


実盛の坂東武者のお話。


こうかてきめん。

維盛や平家軍の兵達には、源氏の兵は恐ろしいモノに見えたことでしょう。

結果。


水鳥の羽音に驚いて、平家軍は散り散りになり、大敗。

お話上手な、斎藤別当実盛でした。おしまい。



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)


いつも応援いただきありがとうございます。維盛達を恐怖のどん底に突き落とす程の斎藤別当実盛のお話。どんな語り口だったのでしょうねぇ。このお話上手なおっちゃん、木曽義仲と平維盛双方に深く関わっている人物です。
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プロフィール

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Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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