真田丸第30話「黄昏」苦悩する三成の内緒話 in 高野山

大河では苦悩する姿がたまらない三成です。
今日は、三成と高野山のお話。
【天正18年(1590)3月】
小田原征伐の開戦直前。

高野山奥の院。
中の橋の程近くに。

石田三成の「逆修墓」。
「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。
「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。
奥の院の石塔は、江戸期の大型の五輪塔が立ち並びますが、
本来は、総高60cm程度の五輪塔や、方柱状の一石の石柱を五輪塔形にした40cmから60cm程の一石五輪塔の造立が主流でした。

そこへ、この三成の石塔です。
当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのこと(高野山大学図書館館長談)。

紀伊国名所図絵では、奥の院に近い秀吉達の供養塔の隣にある三成の逆修墓ですが、

現在は何故か徒歩数分の離れた場所に。
【文禄3年(1594)】

吉野の花見が催された年。

大河では能「源氏供養」のシテは秀次(史実では秀吉)。
秀次が自害したのは、

青巌寺。
秀吉が亡母の菩提を弔うため建てたお寺。
秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した木食応其の建立。
応其上人は。
天正18年(1590)興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。
この隣が「青巌寺」で秀吉が母の菩提を弔うために建立。
お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。

青巌寺+興山寺=現在の高野山金剛峯寺。明治2年(1869)に合併。

この年、三成にゃんは

高野山奥の院、御廟橋。この先の大師廟の隣に、
三成は母の菩提を弔うため、経堂を建て、一切経を奉納。
しかし、翌々年焼失。
【慶長3年(1598)】
3月15日。醍醐の花見。

花咲か爺さん by 秀吉。

決して秀吉を殴っているのではありません。
落下する秀吉ではなく、枝を受け止めた三成(違)。
この慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。
9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。
翌慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。
三成、えらいこっちゃの連続ですが、
【慶長4年(1599)3月】
三成、焼失した経堂を再建。
経蔵の内部は、本尊文殊菩薩騎獅像を正面に、八角形の回転式輪蔵となっており、高麗版一切経6285帖(現存・重文)が納められました。

奥之院経蔵は弘法大師御廟に向って右(矢印部分)。
経蔵の正面に掲げられれる扁額銘には、

當輪蔵造営同
一切経奉納之
近江国坂田郡
石田治郎小輔
藤原朝臣三成
為慈母菩提也
扁額の裏面には

本願木食興山上人深覚房応其
金剛峯寺奥院経蔵之銘
慶長四己亥年三月二十一日記之
この銘から、三成の経蔵建立に木食応其上人が関わっていたことがわかります。
三成が木食応其上人と知己を得ているのは、秀吉と木食応其上人の関係から容易に推測できることでもありますね。
ほんとはそれどころじゃない三成ですが、裏ではお母さんのためにこんなことしてたんだなー。

照れなくてもいいのに。
いつも応援いただきありがとうございます。
高野山のあちこちをポケーッと見ていたら、三成もこそっと足跡を残していることにやっと気付きまして。おほほ。焼失した経蔵の再建計画は、秀吉死後のごたごたの前からあったとは思いますが、タイミングの悪さがお気の毒です。木食応其上人も「あちゃー」っと思ったことでしょうね。



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