真田丸第31話「終焉」神となった秀吉と高野山豊臣家廟所

慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。
9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。
慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。
木食応其上人とは、秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した高野山の僧。
【秀吉、神となる】

慶長4年(1599)4月16日。
自身を八幡神(新八幡/いまはちまん)として神格化するよう遺言した秀吉に与えられた神号は、「豊国大明神」。
この理由としては、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、吉田神道による運動の結果とする説があるそうで。
ちなみに「大明神」とは、吉田神道では最高の神格。
吉田神道とは、貞観元年(859)藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したことに始まる吉田社を中心とし、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝した神道。
吉田神道について詳しくはこちら
⇒⇒⇒吉田神道とは?
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-697.html
⇒⇒⇒吉田神道の戦国・桃山時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-698.html
⇒⇒⇒梵瞬とサルとタヌキと大僧正
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
⇒⇒⇒吉田神道の江戸時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-705.html
⇒⇒⇒神社商売と伊勢のリベンジ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-695.html

「都名所図絵(天明6年(1786)版)」より、吉田社(吉田神社)。
細川幽斎の従兄弟にあたる吉田兼見は、
織田信長の推挙により堂上家(家格は半家)の家格を獲得。
近衛前久に家礼として仕えたり、明智光秀と深い親交があったり。
豊臣秀吉の庇護のもと、弟・吉田梵舜と共に豊臣家の宗教顧問としてあちこちで活躍。
ここで、キーマンとなるのは、弟の吉田梵舜(ぼんしゅん)。
吉田家の次男は氏寺の「神龍院」に入る習わしに従い、梵舜も仏門に入りました。
梵舜が天正11年(1583)から最晩年の寛永9年(1632)まで綴った『梵舜日記』(別名『舜旧記』)は、豊臣から徳川へ移り変わる時代の資料として貴重。

洛中洛外図の一部。
方広寺大仏殿と豊国社(豊国神社)
大仏殿の後ろに秀吉の慰霊を祭る豊国廟と参道
※「廟」は墓ではなく神を祀るところ。
秀吉は、「豊国大明神」になったので、ここ。
豊国社の社務職は、吉田兼見の孫で養子の萩原兼従。
豊国社の神宮寺の別当は、吉田兼見の弟・梵舜。

神となった秀吉「豊国大明神」を祀る豊国社ですが、

元和元年(1600)大阪の陣により、豊臣家が滅亡。
徳川家康の意向で後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪。
秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられ以後仏式で祀ることなります。(wikipediaより引用)
そして、豊国社は、
「元和五年九月十八日梵舜、取毀を神璽に告げ、終に神社を妙法院に引き渡す。爾来荒廃して叢となる」(『豊国神社誌』青山重鑒/大正14年)
という、徹底的な迫害を受けます。
詳しくはこちら⇒⇒⇒梵瞬、天海と勝負
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html

天明6年(1786)版「都名所図絵」。
方広寺大仏殿図に、豊国社の形は見えません。

大仏殿の片隅に「秀吉公塔」と記された石塔があるのみです。
【秀吉と高野山】

高野山奥の院。

右端に見えるのが、大師廟へ続く「御廟橋」。

大師廟に近い一等地です。
もう少し拡大。

「太閤秀吉」と記された五輪塔。
左から、大納言北方(?)、大光院殿、秀吉、春巌院□□、秀次公。
「大光院殿」は、弟の大納言秀長。
「春巌院□□」は、母の大政所の法名?
そして、右側に、石田三成。

現在は、「豊臣家廟所」として整備されています。

背後の大きなものは、昭和14年に京都の豊国廟から霊土を移して建立された秀吉の五輪塔。
名所図絵には「太閤秀吉」と書かれていますが、この新しい五輪塔が出来るまでは「高野山に秀吉の墓所はない」ことになっています。
何故なのかしらねぇ?

向かって右端に並ぶ2基は、弟の「大納言秀長」夫妻とか。
秀長は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」
妻の供養塔に「大納言北方 慈雲院芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日」。
そしてなぜか、図絵では右隣にあった三成の供養塔はここにはなく。

豊臣家廟所から、大師廟と反対側へずーっとずーっと

中の橋を越えて、

石田三成の「逆修墓」です。
「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。
「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。
天正18年(1590)3月といえば、小田原征伐の開戦直前。

関係ないですが、すぐ近くに「伝・明智光秀墓所」
しかし、何でここ。
豊臣家と引き離されたのかしら?

可哀想に。
「都名所図絵」
国際日本文化センター/都名所図絵データベース
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
「紀伊国名所図絵」
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500
その他参考文献は各々の記事に明記済
いつも応援いただきありがとうございます。
吉田神道のお話を、香川県の白鳥神社のところでせっせと書いていたので、自分のブログながら行方不明。ほほ。検索しちゃった。おほほほほ。そしていつまでたっても高野山から離れられないでおりますの。奥の院の地図と名所図絵とにらめっこ。まぁ、信長の墓所も最近発見されたそうですし、時代によって隠したり表に出したりと奥の院も案外落ち着かないものなんですね。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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