丹生都比売神社(5)修験道の交差点。五輪卒塔婆と光明真言板碑
こんにちは。

神仏分離クラッシュの後に残ったもの。
何があるのかな。

一番奥に、ぽつん。

この一角に並ぶ石塔群が、丹生都比売神社に残る唯一の仏教色。
左が光明真言板碑。4本の五輪卒塔婆。

光明真言板碑は、名所図絵とほぼ同じ位置。

寛文2年(1662)高さ 240cm。
光明真言曼荼羅碑、ともいうそうです。
中心の梵字は、向かって中央・下・左・上・右、と読む五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)で、
大日如来の報身真言である、
五字真言(अ वि र, हूं खां、a vi ra hum kham、ア・ビ・ラ・ウン・ケン)。
大日如来は密教で一番大切な仏様。

高野山奥の院の五輪塔にも
下から、五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)。
※種子
種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)(wikipediaより引用)

周りを囲む円形の部分は、中央下(6時の位置)から時計回りに光明真言24梵字。
オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ
唵 阿謨伽 尾盧左曩
偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽
光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽
(wikipediaより引用)
だそうな。

「ボローン(一字金輪)」と「キリーク」

ええ、私もよくわかりませんが、
・・・「光明真言」を刻んだ「板碑」ってことで。

天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)
左下の長い建物は神仏分離時に失われましたが、
《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。
葛城先達の行所でした。
高野山の三つの構成員「学侶・行人・聖」のうちの「行人」から修験が育まれます。
特にここ、天野社(現・丹生郡比売神社)の「長床」を拠点とした「長床衆」と呼ばれる修験者は「葛城先達」として知られていました。
丹生都比売神社が位置するのは、
北へ行けば、葛城修験道の場所。
東へ行けば、山上ヶ岳を中心とする大峰修験道の場所。

右側2本は五輪上部が落ちてますが、五輪卒塔婆。
4本の五輪卒塔婆は大峰修験者が大峰入峯に際し建立。(現地説明板より)
ここから大峯山系へは険しい山々を越えて東へ。

修験道との繋がりを示す遺構です。

五輪卒塔婆には、先達と参加人数。
右から(現地説明板による)
延元元年(1336)。南北朝時代初期。花崗岩。「泰助」他30名
正安4年(1302)。鎌倉後期。花崗岩。「定慶」他170名
ひとつおいて、
正応6年(1293)。鎌倉後期。安山岩。「幸明」他90名
文保3年(1319)。鎌倉後期。花崗岩。「覚祐」他180名

一番右の五輪卒塔婆正面上部に刻まれているのは出典不詳の、偈(げ)。
《偈(げ)》
「我今依於大教主(がこんえおだいきょうしゅ)
遍照如来成道法(へんじょうにょらいじょうどうほう)
若能依此勝義修(にゃくのうえししょうぎしゅ)
現世得成無上覚(げんせとくじょうむじょうがく)」
『我れ今、大教主(大日如来)により、遍照如来の道法を成ず。
もしよく此の勝義を修ずれば、現世に無上覚(悟りをひらくこと)を成じうる 』
※出典/「石仏と石塔」様より「丹生都比売神社五輪卒塔婆群と板碑」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/wakayama-niutuhimejinjya.htm

元は、黄色の丸の場所に立っていました。
が、明治の神仏分離の際に現在地へ移動。
白丸の場所、鳥居の足元には1対、ふたつの護摩鉢。

ここへ移動されてます。

多宝塔の礎石かと思ったら、護摩鉢。
元は1対。
保存されてます、と言いたいところですが、放置気味。

脇ノ宿石厨子。
元は脇ノ宿にあり、役行者を祀った石祠。寛政2年(1790)の銘。

役行者は、修験道の始まりの人。

自然石板碑。
中央上部に大きく「वं」、金剛界大日如来の種子。

石仏様。

隅っこに追いやられてますが、大切な遺構です。
大きな石塔は、神仏分離の時に競売でも売れず破壊するのも面倒だから残った、のかも。
不幸中の幸い、かな。

石段にされることもなくよかったよかった、と言ってあげましょう。
いつも応援いただきありがとうございます。
多宝塔等が建ち並んでいた一角に並ぶ石塔卒塔婆群。画像では小さく感じますが、高さ2mを超える大きなものでした。ここの位置が葛城山系と大峯山系の中間点にあたり、双方の修験者達が交差した所が面白いです。それにしても、文保3年(1319)の大峰修験者の一行が180名の団体さんだとは、びっくりです。先達さんの気苦労やいかに?



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

神仏分離クラッシュの後に残ったもの。
何があるのかな。

一番奥に、ぽつん。

この一角に並ぶ石塔群が、丹生都比売神社に残る唯一の仏教色。
左が光明真言板碑。4本の五輪卒塔婆。

光明真言板碑は、名所図絵とほぼ同じ位置。

寛文2年(1662)高さ 240cm。
光明真言曼荼羅碑、ともいうそうです。
中心の梵字は、向かって中央・下・左・上・右、と読む五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)で、
大日如来の報身真言である、
五字真言(अ वि र, हूं खां、a vi ra hum kham、ア・ビ・ラ・ウン・ケン)。
大日如来は密教で一番大切な仏様。

高野山奥の院の五輪塔にも
下から、五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)。
※種子
種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)(wikipediaより引用)

周りを囲む円形の部分は、中央下(6時の位置)から時計回りに光明真言24梵字。
オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ
唵 阿謨伽 尾盧左曩
偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽
光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽
(wikipediaより引用)
だそうな。

「ボローン(一字金輪)」と「キリーク」

ええ、私もよくわかりませんが、
・・・「光明真言」を刻んだ「板碑」ってことで。

天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)
左下の長い建物は神仏分離時に失われましたが、
《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。
葛城先達の行所でした。
高野山の三つの構成員「学侶・行人・聖」のうちの「行人」から修験が育まれます。
特にここ、天野社(現・丹生郡比売神社)の「長床」を拠点とした「長床衆」と呼ばれる修験者は「葛城先達」として知られていました。
丹生都比売神社が位置するのは、
北へ行けば、葛城修験道の場所。
東へ行けば、山上ヶ岳を中心とする大峰修験道の場所。

右側2本は五輪上部が落ちてますが、五輪卒塔婆。
4本の五輪卒塔婆は大峰修験者が大峰入峯に際し建立。(現地説明板より)
ここから大峯山系へは険しい山々を越えて東へ。

修験道との繋がりを示す遺構です。

五輪卒塔婆には、先達と参加人数。
右から(現地説明板による)
延元元年(1336)。南北朝時代初期。花崗岩。「泰助」他30名
正安4年(1302)。鎌倉後期。花崗岩。「定慶」他170名
ひとつおいて、
正応6年(1293)。鎌倉後期。安山岩。「幸明」他90名
文保3年(1319)。鎌倉後期。花崗岩。「覚祐」他180名

一番右の五輪卒塔婆正面上部に刻まれているのは出典不詳の、偈(げ)。
《偈(げ)》
「我今依於大教主(がこんえおだいきょうしゅ)
遍照如来成道法(へんじょうにょらいじょうどうほう)
若能依此勝義修(にゃくのうえししょうぎしゅ)
現世得成無上覚(げんせとくじょうむじょうがく)」
『我れ今、大教主(大日如来)により、遍照如来の道法を成ず。
もしよく此の勝義を修ずれば、現世に無上覚(悟りをひらくこと)を成じうる 』
※出典/「石仏と石塔」様より「丹生都比売神社五輪卒塔婆群と板碑」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/wakayama-niutuhimejinjya.htm

元は、黄色の丸の場所に立っていました。
が、明治の神仏分離の際に現在地へ移動。
白丸の場所、鳥居の足元には1対、ふたつの護摩鉢。

ここへ移動されてます。

多宝塔の礎石かと思ったら、護摩鉢。
元は1対。
保存されてます、と言いたいところですが、放置気味。

脇ノ宿石厨子。
元は脇ノ宿にあり、役行者を祀った石祠。寛政2年(1790)の銘。

役行者は、修験道の始まりの人。

自然石板碑。
中央上部に大きく「वं」、金剛界大日如来の種子。

石仏様。

隅っこに追いやられてますが、大切な遺構です。
大きな石塔は、神仏分離の時に競売でも売れず破壊するのも面倒だから残った、のかも。
不幸中の幸い、かな。

石段にされることもなくよかったよかった、と言ってあげましょう。
いつも応援いただきありがとうございます。
多宝塔等が建ち並んでいた一角に並ぶ石塔卒塔婆群。画像では小さく感じますが、高さ2mを超える大きなものでした。ここの位置が葛城山系と大峯山系の中間点にあたり、双方の修験者達が交差した所が面白いです。それにしても、文保3年(1319)の大峰修験者の一行が180名の団体さんだとは、びっくりです。先達さんの気苦労やいかに?



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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