真田丸第28話「受難」。秀吉と秀次と高野山
こんにちは。

秀吉の吉野の花見は、
文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。
秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上でした。

「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)
能に夢中になった秀吉。

自分の功績を題材とした「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群を創作。
有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。
謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。
その中の一曲「高野参詣」は、

母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行をたたえるというお話。
誰かの幽霊が現れて喋って舞って帰っていくのは、能の定番ですが、普通は仏の功徳を讃えたり、修羅道の苦しみを訴える(平家物語を題材にした曲)ものです。
かーちゃんが息子をほめまくるなんて、聞いたことがない。
いやまぁ、・・・だからこそ「天下人」ってとこかしら。

先週の秀次くんの勇姿。
今回は、「秀次悪くない」でしたね。よかったなぁ。
秀次が自害したのは、今の「高野山・金剛峯寺」。

秀吉は、高野山攻めの際に、秀吉と高野山を仲介した木食応其上人に帰依するようになり、寺領を寄進。
応其上人は。
天正18年(1590年)。興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。
この隣に建立したのが、「青巌寺」。
「青巌寺」は、秀吉が母の菩提のための建立。
お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。
明治2年(1869年)3月29日。
青厳寺・興山寺の二寺を合併。
金剛峯寺と呼ばれるように。
※興山寺は、山縣玄浄僧正が稲葉氏の協力を得て大分の臼杵に寺号、寺宝を移しました。

正門は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)再建。
高野山は度々の落雷による火災で、多くの堂于が焼失&再建を繰り返しています。

金剛峯寺の主殿。
文久3年(1863年)の再建。
この中に、文禄4年(1595年)、秀次が自害したと伝わる「柳の間」があります。

あれ?
・・・当時のままに復元したということで。

大玄関。
正門・大玄関は、本来は天皇・皇族や高野山重職のみ出入り可。

秀次に思いを馳せようにも、文久3年(1863年)の再建ではねぇ。
ざんねん。
「金剛峯寺」は、元来は高野山全体を指す名称でしたが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称しているそうです。(wikipediaより)

壇上伽藍へ。

他より高い位置にあります。
高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺の境内地。
高野山の本堂は、壇上伽藍にそびえる「金堂」。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院。
現在では117ヶ寺が存在。(金剛峯寺HPより)

宿坊も、塔頭寺院になります。

中門は、昨年再建。
壇上伽藍は、空海が在世中に堂宇を営んだ場所なので、聖地。

・・・。

金堂を挟んで、反対側はガラリと雰囲気がかわります。

こちらにあるのが、山王院と

御社。

雰囲気がよく、人が少ないのがとてもいいです。
いつも応援いただきありがとうございます。
金剛峯寺の内部は再建ながらピカピカ、あ、いや、えーっと、見事な美しさです。あっけらかーんっとした金堂の東側と、鬱蒼とした森の残る西側の対比は、焼失したか否かの違いのようで。戦でファイヤーではなく、落雷。これほど歴史ある高野山内で国宝建造物が少ないのは、これが原因。自然って怖いなー。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

秀吉の吉野の花見は、
文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。
秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上でした。

「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)
能に夢中になった秀吉。

自分の功績を題材とした「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群を創作。
有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。
謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。
その中の一曲「高野参詣」は、

母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行をたたえるというお話。
誰かの幽霊が現れて喋って舞って帰っていくのは、能の定番ですが、普通は仏の功徳を讃えたり、修羅道の苦しみを訴える(平家物語を題材にした曲)ものです。
かーちゃんが息子をほめまくるなんて、聞いたことがない。
いやまぁ、・・・だからこそ「天下人」ってとこかしら。

先週の秀次くんの勇姿。
今回は、「秀次悪くない」でしたね。よかったなぁ。
秀次が自害したのは、今の「高野山・金剛峯寺」。

秀吉は、高野山攻めの際に、秀吉と高野山を仲介した木食応其上人に帰依するようになり、寺領を寄進。
応其上人は。
天正18年(1590年)。興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。
この隣に建立したのが、「青巌寺」。
「青巌寺」は、秀吉が母の菩提のための建立。
お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。
明治2年(1869年)3月29日。
青厳寺・興山寺の二寺を合併。
金剛峯寺と呼ばれるように。
※興山寺は、山縣玄浄僧正が稲葉氏の協力を得て大分の臼杵に寺号、寺宝を移しました。

正門は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)再建。
高野山は度々の落雷による火災で、多くの堂于が焼失&再建を繰り返しています。

金剛峯寺の主殿。
文久3年(1863年)の再建。
この中に、文禄4年(1595年)、秀次が自害したと伝わる「柳の間」があります。

あれ?
・・・当時のままに復元したということで。

大玄関。
正門・大玄関は、本来は天皇・皇族や高野山重職のみ出入り可。

秀次に思いを馳せようにも、文久3年(1863年)の再建ではねぇ。
ざんねん。
「金剛峯寺」は、元来は高野山全体を指す名称でしたが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称しているそうです。(wikipediaより)

壇上伽藍へ。

他より高い位置にあります。
高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺の境内地。
高野山の本堂は、壇上伽藍にそびえる「金堂」。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院。
現在では117ヶ寺が存在。(金剛峯寺HPより)

宿坊も、塔頭寺院になります。

中門は、昨年再建。
壇上伽藍は、空海が在世中に堂宇を営んだ場所なので、聖地。

・・・。

金堂を挟んで、反対側はガラリと雰囲気がかわります。

こちらにあるのが、山王院と

御社。

雰囲気がよく、人が少ないのがとてもいいです。
いつも応援いただきありがとうございます。
金剛峯寺の内部は再建ながらピカピカ、あ、いや、えーっと、見事な美しさです。あっけらかーんっとした金堂の東側と、鬱蒼とした森の残る西側の対比は、焼失したか否かの違いのようで。戦でファイヤーではなく、落雷。これほど歴史ある高野山内で国宝建造物が少ないのは、これが原因。自然って怖いなー。



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