真田丸第27回「不信」(3)秀次達の能装束と舞台の桃山革命
こんにちは。
妙なエンジンがかかってしまいました。
だって、ほんとにほんとに良かったのですもの。
大河の能の場面。

小鼓の先生も、お芝居してます。うふ。
さて。
秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。
れぼりゅーしょんは、大きくみっつ。
①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給
①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化

シテの装束は、若い女性の常の姿「紅入唐織着流出立」。
能装束は今でこそきらびやかなイメージですが、秀吉前はさほどでもなく。
足利時代は、良質の生糸は輸入に頼り、国内の織物の技術が未熟でこれも輸入。
よって、豪華な唐織物は大変高価。
余程有力なパトロンがいない限り、無理っ。
そこへ現れたのが、贅沢な絹織物を好んだ信長・秀吉。
南蛮貿易による生糸・絹織物の輸入と並行し、養蚕と国産織物の生産を奨励。

応仁の乱で堺へ避難していた織物工達が西陣へ戻り、輸入品に劣らない良質の絹織物を生産。
秀吉好みの桃山文化。
建築、庭園等と共に、能装束にも桃山風の華やかさが表れます。

刺繍と摺箔(すりはく)で着物全体に模様を表した縫箔(ぬいはく)。
「唐織」は、縫箔でこさえた装束の総称。
絹織物の技術は、江戸時代にさらに発展。
各大名の庇護下で能装束は、絢爛豪華なものに。
各地の博物館や美術館の展示で目にする、能装束の出来上がり。
ちなみに。
これは現在のものですが

装束・面・持ち物は、各曲で定められています。

勢揃い。

同じワキ方でも、ワキとお供のワキツレでは中の着物が違います。

これ、お坊さんの定番です。
大口とは、見ての通りの幅が非常に広くて固い装束。袴の仲間。
楽屋口を通る時は正面向いては入れないので、先生に「カニさんっ(横歩きっ)」と言われます。
新しい能楽堂では、大口を付けた人がぶつからずにすれ違うことができる幅に通路が設計されている所があります。(名古屋能楽堂など)

前シテ。赤と白の地が互い違い。刺繍と摺箔で着物全体に模様。
わかりやすいように「唐織・紅白段○○○○(模様の形。短冊桔梗源氏車、など)」と呼びます。
「源氏供養」の前シテは若い女なので、紅白。
安逹原など、おばちゃんの場合は、赤ではなく青とか緑とか。地味。
片方を肩から外すと、物狂いの姿。蝉丸の姉など。
両方外すと、裸。羽衣の前シテで、衣を取られた時はこの姿。
では、舞台を見てみましょ。

お坊さんと若い女のにらめっこ、に見えましたねー?うふふ。

後シテの紫式部。

長絹(ちょうけん)もまた、能装束独特の呼称。

亀甲と桔梗の模様が金で描かれています。

大口を白に、頭上を天冠にすると、天女に変身。
隅っこに座るワキ方は勅使一行なので装束が豪華。
夏になると能楽師の先生の各家で虫干しが行われ、舞台や客席に一斉に装束が広げられる光景は壮観です。
②常設の能舞台の設置

吉野の花見では、吉水神社に設けられた舞台での演能。
秀吉以前は、能舞台は屋外で、中庭等に土を盛り、その上に板を敷いた仮設の簡素なものでした。
奈良の春日若宮御祭の後宴の能では今も、この造りの舞台です。
それが室町後期より公家宅に常設の能舞台が現れはじめ、

シテやワキが登場する「橋掛り」が定着。
秀吉の能好きにより盛んに演じられるようになった桃山時代からは、

このように常設の能舞台の形に。ただし、屋外。
江戸時代になると各大名が城内や神社等に設置。

切戸は地謡や後見が出入りする場所。
能舞台に壁が出来たことで必要となった扉です。
この他、舞台寸法や地謡座などの細かい点が整ったのは江戸時代。

現在のような、屋根の下に屋根、の形は明治以降。
能を武家の式楽として庇護した徳川幕府の崩壊により、能楽師達も武士と同じように自力で生活しなくてはならず。
演能で収益をあげるには、お天気に左右されるのは困ります。
能舞台をホールの中に移すことで、お天気を気にせずいつでも公演することが出来るようになりました。
③猿楽4座への扶持米支給
今夜のお酒がなくなったので、つづく。
参考文献
『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024
『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)
『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)
いつも応援いただきありがとうございます。
各能楽師のおうちに伝わる面(おもて)や装束は、数百年前のものもザラ。文化財の宝庫ですが、指定を敢えて受けないのは、受けたら舞台に使えない(使いにくい)から。舞台で使用してこそ、生きるもの。それが能装束であり、面なのですね。秀吉のご贔屓の金春流ではこの桃山時代の素晴らしい装束が数多く伝わります。それはもう、とっても素敵。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
妙なエンジンがかかってしまいました。
だって、ほんとにほんとに良かったのですもの。
大河の能の場面。

小鼓の先生も、お芝居してます。うふ。
さて。
秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。
れぼりゅーしょんは、大きくみっつ。
①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給
①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化

シテの装束は、若い女性の常の姿「紅入唐織着流出立」。
能装束は今でこそきらびやかなイメージですが、秀吉前はさほどでもなく。
足利時代は、良質の生糸は輸入に頼り、国内の織物の技術が未熟でこれも輸入。
よって、豪華な唐織物は大変高価。
余程有力なパトロンがいない限り、無理っ。
そこへ現れたのが、贅沢な絹織物を好んだ信長・秀吉。
南蛮貿易による生糸・絹織物の輸入と並行し、養蚕と国産織物の生産を奨励。

応仁の乱で堺へ避難していた織物工達が西陣へ戻り、輸入品に劣らない良質の絹織物を生産。
秀吉好みの桃山文化。
建築、庭園等と共に、能装束にも桃山風の華やかさが表れます。

刺繍と摺箔(すりはく)で着物全体に模様を表した縫箔(ぬいはく)。
「唐織」は、縫箔でこさえた装束の総称。
絹織物の技術は、江戸時代にさらに発展。
各大名の庇護下で能装束は、絢爛豪華なものに。
各地の博物館や美術館の展示で目にする、能装束の出来上がり。
ちなみに。
これは現在のものですが

装束・面・持ち物は、各曲で定められています。

勢揃い。

同じワキ方でも、ワキとお供のワキツレでは中の着物が違います。

これ、お坊さんの定番です。
大口とは、見ての通りの幅が非常に広くて固い装束。袴の仲間。
楽屋口を通る時は正面向いては入れないので、先生に「カニさんっ(横歩きっ)」と言われます。
新しい能楽堂では、大口を付けた人がぶつからずにすれ違うことができる幅に通路が設計されている所があります。(名古屋能楽堂など)

前シテ。赤と白の地が互い違い。刺繍と摺箔で着物全体に模様。
わかりやすいように「唐織・紅白段○○○○(模様の形。短冊桔梗源氏車、など)」と呼びます。
「源氏供養」の前シテは若い女なので、紅白。
安逹原など、おばちゃんの場合は、赤ではなく青とか緑とか。地味。
片方を肩から外すと、物狂いの姿。蝉丸の姉など。
両方外すと、裸。羽衣の前シテで、衣を取られた時はこの姿。
では、舞台を見てみましょ。

お坊さんと若い女のにらめっこ、に見えましたねー?うふふ。

後シテの紫式部。

長絹(ちょうけん)もまた、能装束独特の呼称。

亀甲と桔梗の模様が金で描かれています。

大口を白に、頭上を天冠にすると、天女に変身。
隅っこに座るワキ方は勅使一行なので装束が豪華。
夏になると能楽師の先生の各家で虫干しが行われ、舞台や客席に一斉に装束が広げられる光景は壮観です。
②常設の能舞台の設置

吉野の花見では、吉水神社に設けられた舞台での演能。
秀吉以前は、能舞台は屋外で、中庭等に土を盛り、その上に板を敷いた仮設の簡素なものでした。
奈良の春日若宮御祭の後宴の能では今も、この造りの舞台です。
それが室町後期より公家宅に常設の能舞台が現れはじめ、

シテやワキが登場する「橋掛り」が定着。
秀吉の能好きにより盛んに演じられるようになった桃山時代からは、

このように常設の能舞台の形に。ただし、屋外。
江戸時代になると各大名が城内や神社等に設置。

切戸は地謡や後見が出入りする場所。
能舞台に壁が出来たことで必要となった扉です。
この他、舞台寸法や地謡座などの細かい点が整ったのは江戸時代。

現在のような、屋根の下に屋根、の形は明治以降。
能を武家の式楽として庇護した徳川幕府の崩壊により、能楽師達も武士と同じように自力で生活しなくてはならず。
演能で収益をあげるには、お天気に左右されるのは困ります。
能舞台をホールの中に移すことで、お天気を気にせずいつでも公演することが出来るようになりました。
③猿楽4座への扶持米支給
今夜のお酒がなくなったので、つづく。
参考文献
『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024
『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)
『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)
いつも応援いただきありがとうございます。
各能楽師のおうちに伝わる面(おもて)や装束は、数百年前のものもザラ。文化財の宝庫ですが、指定を敢えて受けないのは、受けたら舞台に使えない(使いにくい)から。舞台で使用してこそ、生きるもの。それが能装束であり、面なのですね。秀吉のご贔屓の金春流ではこの桃山時代の素晴らしい装束が数多く伝わります。それはもう、とっても素敵。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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