東大寺境内「子安神社」。初代別当・良弁と、かーちゃん
鎌倉時代は重源、江戸時代は公慶が東大寺再興に尽力。

再興の寺務所であった、東大寺勧進所。
この向かいに、公慶が図面(指図という)を展示した

指図堂。
寛政3年(1791)倒壊、嘉永5年(1852)頃再建。

指図堂から見た大仏殿。
ちろっと見えているのが、白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神と呼ばれる小社。

スロープ側を歩いたもので、えびぞりして撮影。
子安神社というと、安産や子授け・子育てを神仏に祈願する子安信仰。
それがなぜ東大寺に?
(以下、現地説明書を引用)
東大寺の古図には、この子安宮の位置に神社が描かれていて「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたらしい。
平成元年に当社の解体修理が行われた際、社殿内より寛文11年(1671)9月24日と文久2年(1862)の日付の還宮の棟札2枚が発見された。
そこから中門堂衆の文殊院によって既に改築されていたことが明らかになり、子安宮の称号が17世紀に遡ることも判明した。
二月堂神名帳には、「子安大明神・穴師大明神」と子安明神の名がみえるが、この子安神は他国の明神である。
(引用終わり)
ひとつ目の棟札の「寛文11年(1671)」の頃とは?
寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通じて、良弁・実忠2人の祖徳が顕揚された時期でもある。(現地説明書)
良弁は、開山・初代別当。
実忠は、二月堂の修二会(お水取り)を始めたとされる人。
二月堂の焼失とは。
東大寺ファイヤーは、

治承4年(1180)平重衡の兵火

永禄10年(1567)三好・松永の乱
二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれています。
が。
寛文7年(1667)、修二会の最中の2月13日に失火で焼失。

あーあ。
二月堂は、その直後の寛文9年(1669)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建。これが現存建物。
子安神社のひとつ目の棟札の「寛文11年(1671)」は、ちょうどこの頃。
二月堂再建時の将軍は、家綱。延宝8年(1680)没。
継いだのが、綱吉 with 桂昌院。
東大寺大仏殿再興に対してははじめはケンモホロロ。

貞享元年(1684)の公慶の陳情には、「勧進は勝手次第」。
それが

となり、
宝永6年(1709)3月21日から18日間の「落慶法要」。

このあとも、18世紀後半まで東大寺伽藍は順次復興されました。
ところで。
東大寺の開山・初代別当の良弁にはこんな伝承があります。

野良作業中の母が目を離した隙に鷲にさらわれて、

二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵(元正・聖武期の高僧)に助けられ、
僧として育てられて東大寺の前身に当たる金鐘寺に住みました。

後に全国を探し歩いた母とは、30年後、再会。
(以下、現地説明書を引用)
享保年間(1716-1735)の「東大寺諸伽藍略録」によると、良弁(開山・初代別当)僧正の母を祭祀したと言い、「相模国からこられた母がここに住し、良弁は孝養を尽くした」旨の説明がなされ、「孝養社」と言ったとも記されている。
寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通じて、良弁・実忠(修二会を始めた人)2人の祖徳が顕揚された時期でもある。
安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。(以上、引用終わり)

鷲にさらわれた良弁のかーちゃんが住み、祀られた子安神社なのでした。
いつも応援いただきありがとうございます。
いやぁ、暑くなりましたねー。東大寺は6月下旬に訪れましたがこの時は涼しくて、てくてくするのが苦にならず。まるで幻のようです。小さな祠のような子安神社ですが、実はこっそり二月堂等と同じ時代のもの。あらびっくり。



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