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東大寺焼失。百年野晒しの大仏様と公慶勧進。金がない

こんにちは。


重源達の奮闘により無事復興した東大寺。

が。

永禄10年(1567)三好・松永の乱。


大仏殿・廻廊・講堂・三面僧房・食堂・八幡宮・東塔・戒壇院・大湯屋・上院閼伽井屋・東南院・尊勝院・真言院など中心伽藍の殆どが焼失。

創建当初の建物は、三月堂・二月堂・転害門だけに。


えらいこっちゃえらいこっちゃよいよいよーい。

しかし、時は戦国。

朝廷は諸国勧進の推進や、織田信長や武田信玄に協力を命じますが、それどころじゃない。

頼りとする相手もなく、大仏様は、120年間ずーっと雨ざらし。

実は


大仏様、頭部を欠いた姿。


そこへ。登場したのが、公慶。


公慶の父は丹後京極家藩士・鷹山弥次右衛門頼茂。
南都水門郷へ移住し、後に現在の生駒市へ。

公慶は13歳で東大寺に入り、大喜院を預かります。


貞享元年(1684)。公慶、江戸幕府へ大仏殿の再興と諸国勧進を訴え。

翌年、寺社奉行より許可が下りますが、「勧進は勝手次第」

(『龍松院上人公慶大仏殿再興発願興隆略記』並びに『龍松院公益・公俊・庸訓代々諸興隆略記』。以下『興隆日記』)


つまり、幕府の援助なし。(『興隆日記』)

公慶、全国勧進行脚を実践。

奈良町の町衆はもちろん、江戸浅草の長慶寺を拠点に大仏講を設置。


重源の勧進、リバイバル。

公慶は、住まいの大喜院が手狭になったので。


大仏殿跡の西側に一寺を建て「龍松院」と称し引っ越し。
(画像は大仏殿の西側/子安神社付近)


大仏再興の事務を全て行う「東大寺勧進所」と名称変更。(現存同名)

この大仏殿跡西側一帯が、再建のための本拠地に。


大仏殿の図面(指図と呼ぶ)を展示するお堂、指図堂。

寛政3年(1791)倒壊、嘉永5年(1852)頃再建。


さて、大仏様。

元禄5年(1692)3月8日~4月8日。

「大仏開眼供養」(導師:東大寺別当勧修寺宮二品済深法親王)


東大寺「開眼供養屏風」

勅使参列、僧侶は1万2899名、一般の参詣20万5303名(『大仏殿再建記』)。

幕府から奈良奉行の大岡美濃守忠高が参列。町中を与力同心が警護。


金は出さずにのこのこのこのこ。

しかし、まだまだこれから。


大仏様の次は、おうちが必要。

見積書「18万両」・・・きゃー。

元禄6年(1693)。転機が訪れます。

公慶は、知足院隆光の取持ちで、桂昌院、
側用人柳沢出羽守保明を通じて、将軍綱吉に拝謁。


手のひら返し。

公慶が幕府から得たものは

「南都大仏殿再興勧進之状」

これで幕府公認の口上書を得たことになり、寄付のお願いをする対象が庶民から諸大名へ拡大。


よっしゃー。

しかし、この寄付の対象は、「一家に一名」12銭。
つまり、一家で12銭。

足りません。

元禄10年(1697)。幕府は「一名12銭」の「人別奉加」へ拡大。

これにより、

東大寺独自の勧財方式から離れ、幕府&奈良奉行所の直轄管理に。

最高責任者は、勘定奉行・荻原近江守重秀。
現場責任者は、奈良奉行・妻木彦右衛門頼保。
さらに、勘定方南都代官・大柴清右衛門を派遣。

図面確認、見積書の作成、入札を幕府方で行います。

幕府の面子に関わるため、勧進を待たずに着手。


公慶は引き続き勧進に勤しむも、たぁりぃなぁぁぁい。


幕府は、天領と大名領から10万両の拠出を決定。
(『大仏殿再建記』・『興隆日記』)

それでも、



さらに、桂昌院は柳沢吉保を通じ、

「南都大仏殿修造金高百石に付壱分」を決定。

江戸屋敷の家老達を呼び寄せて命じます。


もはや、国家事業です。

最終的な費用は、12万1294両壱分。
うち、公慶が用意できた額は、1万1206両。残りは幕府負担。

公慶個人での勧進がいかに困難であったか、よくわかります。

それでも、創建当初の規模に復興することは出来ず、

大仏殿の間口は、11間から7間に縮小。


つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
鎌倉時代は、重源を源頼朝が支援。江戸時代は、公慶を江戸幕府が支援の後、国家事業に。東大寺の再建には共に、武家が大きな役割を果たしていた、と。この時、幕府側に桂昌院がいたことが非常に大きいと思います。 そして、大仏様よりも大仏殿の再建が、実はえらいこっちゃー!なのでした。つづくよー。

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No title

こんばんは。

百年野晒しの大仏様
公慶さんのご努力と、他の皆さんのお蔭で、大仏殿は出来上がったんですよね。
(まだお話はここまで来てませんね。この先が楽しみ)
鎌倉の大仏さんは、何故露座のままなのか不思議なのよね~
一生懸命さが足りなかったのかな。

No title

こんにちは~

面白い流れですね^^
寺社仏閣を改修・増築いろいろするのは権力者の証。
でもって勧進として支払い命令を出せるのは政権の力が強い証拠^^

綱吉は治世時代に幾つもの大名の改易や引っ越しさせてる。
その綱吉を動かすには生母・桂昌院を動かすのが一番。

この先がどうなるか楽しみです^^
ぽちぽちぽちーーー☆彡

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

野ざらしになった大仏様を毎日眺めるのは、とても辛かったろうと思います。

三好・松永久秀がいまいち人気がないのは、奈良市内、特に東大寺などの古いお寺を舞台にどんぱちしたせいかと。

幕府が本腰を入れる前の勧進先は、奈良町などの庶民。
彼らにとっては、大仏様と大仏殿の再興は本当に大きな大きな喜びであり、念願だったでしょうね。

工事中、たいそう繁昌したことも、奈良町の人々には大きいかも。

鎌倉の大仏様、確か往時には大仏殿があったのですよね。

立ち上がるきっかけがなかったのかなぁ。
南都は忘れられかけても、やはり南都、鎮護寺院は桁が違うのかしら。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

文献などではたった一言「焼失」でも、東大寺の現地に立つと、これが燃えてなくなってしまったらどんなに喪失感が大きいだろうか、と実感します。

まぁ、権力者云々を言ってしまったらどこを調べても同じ結果で面白くないので、私はひとつずつゆっくりゆっくり調べて楽しみたいです。
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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