大麻比古神社(4)メガネ橋と板東俘虜収容所

満面の笑みの狛犬さんと

樹齢1000年になるという大楠がお迎えしてくれるのは、
大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)。
本殿背後の森の中に

ドイツ橋。
なぜドイツ?

大麻比古神社の約2km南にあったのは、板東俘虜収容所。
1914年。日本軍は、ドイツの租借地であり極東根拠地であった中国の山東半島にある青島(チンタオ)を攻撃。
敗れたドイツ兵4715人が俘虜に。
このドイツ兵4715人のうち約1000人が「板東俘虜収容所」に1917年から1920年まで収容されていました。
⇒⇒⇒板東俘虜収容所を知っていますか
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-314.html

2006年公開の映画「バルトの楽園」は、「板東俘虜収容所」における収容所所長・松江豊寿の葛藤や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを史実に基づいて描いた作品。主演は松平健。

撮影のため再現したセットが残る「バルトの庭」。

当時の配置図。
板東俘虜収容所の所長は、松江豊寿大佐。
1872(明治5)年。会津藩士・松江久平の長男として誕生。
ドイツ人俘虜達が職業軍人ではなく、手に職を持つ義勇兵であると知っていた松江豊寿は、彼等の知識や技術を生かした収容所にすべく心を砕きます。
仕立屋、理髪店、靴屋、写真館、製本屋、家具店、パン屋。
音楽教室、楽器修理、金属加工、配管工事の店などを敷地内に作ります。その数実に80件。
⇒⇒⇒板東俘虜収容所所長・松江豊寿。会津の心と武士の情け。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-315.html

板東俘虜収容所跡地。

「バルトの庭」で再現したパン屋さん。
ヴェルサイユ条約の締結によりドイツ人達は本国へ送還となりますが、約170人が日本に残ります。
その中に、カール・ユーハイム、アウグスト・ローマイヤー。
お菓子のユーハイム、ソーセージ等のローマイヤー、有名店ですね。

同上、酒場。

・・・の、お手洗い(跡地の遺構)。

水回りはまとめるのが基本?

板東俘虜収容所跡地。

「バルトの庭」で再現した兵舎(バラッケ)。四人部屋。

再現セットの一部は当時の部材。
「へルマン・ハウゼン楽団」も結成され、

日本最初の「第九全曲演奏」は、板東俘虜収容所で行われたささやかな演奏会。
ソプラノも、男声で。
さて。大麻比古神社へ戻り。

本殿背後の森の中に、丸山公園。

メガネ橋。

1919年4月初旬。ドイツ人俘虜たちが地域住民との親交の記念として建築。2ヶ月で完成。
川床の土台を強固にして、セメントを一切使わずに寸分の狂いなく積み上げられた石橋は、100年程が経過しても微動だにせず。
地元から出す相応の建築費を、ドイツ人俘虜達は固辞。
「松江大佐が、我々俘虜に創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれたことこそが最大の報酬です。」

1919年8月。収容所で亡くなった11名の仲間を弔うため、帰国前にドイツ人俘虜達が建立。
「自分達が帰国した後は慰霊碑が放置され死者を傷つけるかもしれない」とドイツ人俘虜達が危惧した通り、1920年4月の収容所閉鎖後は放置。
1947年。第二次世界大戦終戦。
1948年。高橋春枝さん夫妻が、草むらの中の慰霊碑を発見。
夫妻とご近所さんは定期的にこの慰霊碑を清掃し、献花。
1960年、徳島新聞でこの事が紹介されたことをきっかけに、坂東俘虜収容所で収容生活をした人々で結成された「バンドー会」等との交流に結び付きます。

道の駅に隣接する資料館。
【松江所長が収容所の部下に語った言葉】
「実は、私は会津人だ。(中略)戊辰戦争のみぎり、鶴ヶ城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名を被った会津藩士の子として、この世に生をうけた。
私の父祖たちは、鶴ヶ城落城と同時に俘虜となって、会津降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。(中略)
降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。
『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』
とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。
これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。
さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。
『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。
わかってくれるかね。」

蜂須賀桜が咲いていました。
「板東俘虜収容所」
⇒⇒⇒板東俘虜収容所を知っていますか
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⇒⇒⇒板東俘虜収容所所長・松江豊寿。会津の心と武士の情け。
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⇒⇒⇒四方の海と日本初の「第九」全曲演奏。板東俘虜収容所。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-316.html
⇒⇒⇒きっかけは一通の手紙。忘れない事が大切。板東俘虜収容所。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-318.html
いつも応援いただきありがとうございます。
板東俘虜収容所と大麻比古神社は2km程の距離。日々のお散歩コースだったそうです。ドイツ橋は彼等が石橋を造るまでは木造でした。きっと危なっかしい橋だったのでしょうね。板東俘虜収容所の記事は昨年の訪問時に必死に調べて書きましたが、ぼろぼろ泣きながら本を読んだ日がよみがえります。



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