三好家菩提寺の瀧寺。長慶のゆりかごから墓場まで

水仙でーす。
さて、今日もなるしすと、ではなく。

三好長慶。
長慶誕生の地の、

芝生城跡。
寛正年間(1465年頃)。小笠原家11代義長が、池田(三好市よりさらに西)の大西城を廃して、築城。
ここ芝生城において姓を三好と改め、三好氏の家祖となりました。
以後、2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長、6代長慶まで、芝生城は三好氏の本拠地に。

思いっきりうはうはしたところで、

もしゃもしゃしながら、

山の上へ。

石段をだんだん登るとね~

はーい、鐘楼ですよ~( 〃▽〃)
・・・不思議な参道。
あ、車で上まで来れます。ちゃんとした道です。

もしゃもしゃ、あります。
そんなここは。

開創は天長年間(824~833)。
開山は空海、開基は小笠原長経。
承久3年(1221)。承久の乱で功績をあげた小笠原長清が阿波国守護となり、その息子である小笠原長経が守護代として入国。
瀧寺は、阿波国守護の小笠原氏と、その後裔・三好氏代々の帰依により近世以前まで栄えました。(wikipediaより)
現地説明板では、阿波守護・小笠原氏と三好氏の菩提寺。

読んでくだされ。

ぱんちゅがずり落ちたみたいな石灯籠。
んふふふ。ここには、三好長慶の墓所があるのよー。

どこかなどこかな~?

違うかしら。

おはようございます。
違うわねぇ。

お。

おおお。
三好長慶は、永禄7年(1564)7月4日、河内国飯盛城で病死。
享年43歳。
嗣子の義継が若年のため、松永久秀・篠原長房・三好三人衆らはその死を秘します。
長慶の葬儀が営まれたのは、二年後。永禄9年(1566)6月24日でした。

ずっとずっとお参りしたかったの。

芝生城。
父・元長の死亡後奮起し、12歳で芝生城を出陣。

勝瑞城を経て、再び畿内へ進出。
天文19年(1550)ついに京の都を征覇。
京畿一円と、中・四国の9か国を支配する実力者となった三好長慶。
彼のゆりかごから墓場までを、ゆっくり見ることが出来ました。

感慨無量です。起きて。
瀧寺
《住所》徳島県三好市三野町大字加茂野宮1796
いつも応援いただきありがとうございます。
晩年はお気の毒な状態になる長慶ですが、今は懐かしい故郷の菩提寺に戻り、静かに眠っているのだなぁと泣けてきました。ちょっと隅っこだけど、いいの。墓所は大阪府八尾市の真観寺、京都市の大徳寺聚光院、大阪府堺市の南宗寺などにもあります。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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