稲田示植、大阪夏の陣で白うさぎに会う。白人神社。

穴吹川沿いに鎮座する白人神社。

狛犬親子の背後にいるのは、

倒木直撃を免れてひと安心の、

うさぴょん。

奉納は文政2年

阿波徳島藩筆頭家老の稲田氏の家紋、矢筈(矢羽根)。
白人神社は慶長年間(1596~1614)初め、稲田修理亮によって再興されたといわれます。
阿波徳島藩筆頭家老であり脇城主(後に洲本城代)であった稲田家の信奉が厚かった神社。
なぜ稲田氏の崇敬が厚かったのか。

稲田修理亮示植(しげたね・1577~1650)という人がおりましたとさ。
阿波徳島藩筆頭家老の稲田氏は、
慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけての大坂の陣に、父(植元)、子・植次と親子三代で出陣。
これにより、徳川家康より感状を受けています(阿波の七感状)。

大阪冬の陣にて。
稲田修理亮示植(小八郎)は、砦を攻めた際に手傷を負い、倒れてしまいました。
そこへ。

白うさぎ、登場。

倒れている修理亮の耳をくわえて引き起こしました。

お耳が切れちゃうわっというツッコミは、なしで。

白うさぎさん、必死。
そこへ鎌田又右エ門、渡辺七右エ門、大次郎達が駆けつけて介助。
無事に帰陣しました。


拝殿の彫刻も、うさぎさん。
この白うさぎは、きっと白大明神のお使いに違いないわよー。
となり、以降、うさぎさんは白人神社の神使とされるようになったそうな。

だねー。
元和元年(1615年)。大坂の陣の戦功により、主君蜂須賀至鎮が淡路一国を賜ると、稲田修理亮示植は、家康の命で淡路由良城代(後に洲本城代)となりました。
稲田家の知行地は、4代植栄(1660年頃)には、阿波分6879石余、淡路7318石余、さらに美馬郡拝原の新開高160石を加えて1万4357石余。
身分は家老ですが、そんじょそこらの小大名よりも力のある稲田家なのでした。

そんな稲田家に大切にされた白人神社。
稲田氏は代々鎧・刀・画などの寄進をたびたび行っていますが、当神社玄関にある「白人大明神」と刻まれた額も稲田主税助植春の奉納したもので、彗雲鉄啀の書になるものです。そのほか同神社に保存されている箙(えびら)は木製で、蜻蛉の形の彫り物を施し、全国的にも類例が少ないといわれています。
「美馬市観光情報」より引用
http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0023.html

寛文元年(1661)奉納。
稲田主税助植春奉納、彗雲鉄啀の書。
彗雲鉄啀は、禅宗の僧。1626(寛永3)年仙台生まれ。
浅井長政の曽孫といわれ、書画に通じ楊柳観音図が著名。

こちらの鳥居は崩れてしまいましたが、

もうひとつの鳥居は無事。

判読不可能な文字が~(T_T)
白人神社の祭神は、瓊瓊杵尊(ににきのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)・崇徳天皇・源為朝。
・・・ためとも?

(友情出演:西照神社のちび狛)
なんで、源為朝?
つづく。
白人神社
《住所》徳島県美馬市穴吹町口山字宮内2番地
いつも応援いただきありがとうございます。
うさぎさんが乗る石灯籠、「あ、無事な鳥居さんだ」の画像の「あ、」の石灯籠にもう一羽いたようなのですが、上手にそこだけ画像なし。あああ。それにしても、大阪夏の陣の最中にうさぎがぴょんぴょんしてたとは、何ともメルヘン。稲田氏の崇敬が厚かった白人神社ですが、理由はメルヘンだけでもないようです。つづきます。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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