浪人、足利義根。阿波公方270年の歴史に幕。最終回
こんにちは。
少し懐具合が良くなった阿波公方。
第8代義宜、第9代義根は共に漢文学や儒学を熱心に学び、
京都から招聘した島津崋山の教え方も上手だったのか、
優れた門人が多数、平島館に集います。

阿波南部における漢文学の中心地、「平島文化サロン」のオープンです。
しかし。
「文化って金喰い虫なの」(←誰)
文化2年(1805)。第9代義根は、京都の名門を介して、阿波徳島藩第11代藩主・蜂須賀治昭に増禄を願い出るも、不可。
父の代にたくさん増えたばかりです。無理。

義根、噴火。
今までの阿波公方ならば、「ところがどっこい」→「しょぼん」で終わるところ。
しかしこの義根、根性が違う。

怒った。
阿波を出る覚悟を決めます。
病気療養を名目に阿波退去の許可を第11代藩主・蜂須賀治昭に申請。

徳島市の興源寺、蜂須賀家墓所。
蜂須賀治昭も学問好き。
義根の出奔には「藩主蜂須賀治昭からの退去慰留状追書」(阿波公方・民俗資料館蔵)を出して引き留めます。
藩主としては、阿波公方家を藩から出してしまうのは、まずい。
しかし、義根の決意は変わらず。
やむ無く、義根の阿波退去を許可。
義根には餞別として銀300枚、阿波公方家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えました。

文化2年(1805)7月24日。
足利義根、阿波を出ます。
ここに、270年間も続いた「阿波公方」の歴史は幕を閉じました。

平島館は廃され、解体。
阿波国を去った義根は、紀州へ。

なぜ、紀州?
紀州側は「名門の直系である足利家が蜂須賀ごときに隷属し、不遇な日々を送るとは、なんてこと。うちへ来たら厚遇するよー」

と言っており、義根は紀州を目指しました。
ところがどっこい。(やっぱり)

幕府老中・水野出羽守より
「足利に対しては、扶知を致す筋合いなし」
と叱られた紀州藩主。

義根、紀州藩への仕官かなわず。
さぁて、どうしましょ。
阿波公方家は、阿波徳島藩の陪臣ですが、第3代義種の妻は足利周暠の孫で水無瀬家養女、第8代義宜の妻は羽林家中納言持明院基輔の娘、義根自身の妻は西洞院家の養女であるように、京都に限り権威や血筋をある程度は認められていました。
もう、京都しかない。
京都において義根は、蜂須賀家に押し付けられた平島姓を足利姓に戻し。
足利歴代の菩提寺・等持院を宿所とし、盛大な先祖供養の法会を行いました。
しかし、どの宮宅、公家も義根一行を受け入れてくれる所はなく、生活にも困窮。
阿波を出たときに270名ほどいた一族・家臣達は殆ど離散。

悲惨。
義根は、足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつなぐ日々。
援助したのは、四つのお寺。
天龍寺(開基・足利尊氏)
相国寺(開基・足利義満)
等持院(開基・足利尊氏。足利氏菩提寺)
金閣寺(開基・足利義満。義満の北山山荘を死後に鹿苑寺とした)
※等持院には代々の室町将軍像があるが、阿波から第14代将軍となった義栄はないとか。いけず~。
さあ、どこにも属さない足利義根。身分は、浪人。

悲惨。
あのまま阿波にいれば、少なくともここまで惨めな事はなかったのに。
さすがにまずいと思ったのか、紀州藩。

紀州徳川家から毎年200両を援助。
これは明治30年頃まで続きました。

その後、義根は北野七本松(現・一条七本松)の崇禅寺に移り。
文政9年(1828)10月8日。80歳で亡くなりました。
やがて御一新で全て白紙に。

もう、阿波公方といえば、これ。
紀州藩の援助はその額が減らされ、四ヶ寺からの援助は廃止。
義根の子の足利義俊は、明治4年に阿波公方家の華族復帰運動をするも、失敗。
葛野郡下山田村(現・京都市西京区)にて帰農。
阿波に留まっていれば、蜂須賀家家臣として士族になれたかもしれません。

泣くな。
悲惨な結果となった第9代阿波公方・義根ですが、この阿波公方家は現在も続いておいでです。
他家(喜連川氏)が養子を入れたのに対し、阿波公方家は平安時代末期の足利家初代・足利義康の血脈が途絶えることなく続きました。
阿波公方のおはなし、おしまい。

参考文献
◎阿波公方
『平島公方物語』(中島 源・著/那賀川町役場/1991.11)
『平島公方史料集』(那賀川町史編さん室/2006)
阿南市「阿波公方・歴史民俗資料館」の展示文書
西光寺の境内説明板
◎三好氏
『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』(天野忠幸・著/ミネルヴァ書房/2014)
『戦国三好氏と篠原長房』(若松和三郎・著/戎光祥出版/2013)
『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(天野忠幸・著/戎光祥出版/2016)
◎その他、適宜「wikipedia」を閲覧
☆出演 兵庫県、徳島県、京都府、和歌山県、香川県、北海道の狛犬さん
いつも応援いただきありがとうございます。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。決して有名ではないけれど、徳島県から室町将軍が出たこと、そしてその子孫が徳島県阿南市の平島という地で「阿波公方」として粛々と生きていたこと、頭の片隅にでも置いていただければ幸甚に存じます。いやー、狛ちゃん達には助けてもらいました。みんながいなければとても続かず。狛ちゃんにも感謝でーす。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
少し懐具合が良くなった阿波公方。
第8代義宜、第9代義根は共に漢文学や儒学を熱心に学び、
京都から招聘した島津崋山の教え方も上手だったのか、
優れた門人が多数、平島館に集います。

阿波南部における漢文学の中心地、「平島文化サロン」のオープンです。
しかし。
「文化って金喰い虫なの」(←誰)
文化2年(1805)。第9代義根は、京都の名門を介して、阿波徳島藩第11代藩主・蜂須賀治昭に増禄を願い出るも、不可。
父の代にたくさん増えたばかりです。無理。

義根、噴火。
今までの阿波公方ならば、「ところがどっこい」→「しょぼん」で終わるところ。
しかしこの義根、根性が違う。

怒った。
阿波を出る覚悟を決めます。
病気療養を名目に阿波退去の許可を第11代藩主・蜂須賀治昭に申請。

徳島市の興源寺、蜂須賀家墓所。
蜂須賀治昭も学問好き。
義根の出奔には「藩主蜂須賀治昭からの退去慰留状追書」(阿波公方・民俗資料館蔵)を出して引き留めます。
藩主としては、阿波公方家を藩から出してしまうのは、まずい。
しかし、義根の決意は変わらず。
やむ無く、義根の阿波退去を許可。
義根には餞別として銀300枚、阿波公方家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えました。

文化2年(1805)7月24日。
足利義根、阿波を出ます。
ここに、270年間も続いた「阿波公方」の歴史は幕を閉じました。

平島館は廃され、解体。
阿波国を去った義根は、紀州へ。

なぜ、紀州?
紀州側は「名門の直系である足利家が蜂須賀ごときに隷属し、不遇な日々を送るとは、なんてこと。うちへ来たら厚遇するよー」

と言っており、義根は紀州を目指しました。
ところがどっこい。(やっぱり)

幕府老中・水野出羽守より
「足利に対しては、扶知を致す筋合いなし」
と叱られた紀州藩主。

義根、紀州藩への仕官かなわず。
さぁて、どうしましょ。
阿波公方家は、阿波徳島藩の陪臣ですが、第3代義種の妻は足利周暠の孫で水無瀬家養女、第8代義宜の妻は羽林家中納言持明院基輔の娘、義根自身の妻は西洞院家の養女であるように、京都に限り権威や血筋をある程度は認められていました。
もう、京都しかない。
京都において義根は、蜂須賀家に押し付けられた平島姓を足利姓に戻し。
足利歴代の菩提寺・等持院を宿所とし、盛大な先祖供養の法会を行いました。
しかし、どの宮宅、公家も義根一行を受け入れてくれる所はなく、生活にも困窮。
阿波を出たときに270名ほどいた一族・家臣達は殆ど離散。

悲惨。
義根は、足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつなぐ日々。
援助したのは、四つのお寺。
天龍寺(開基・足利尊氏)
相国寺(開基・足利義満)
等持院(開基・足利尊氏。足利氏菩提寺)
金閣寺(開基・足利義満。義満の北山山荘を死後に鹿苑寺とした)
※等持院には代々の室町将軍像があるが、阿波から第14代将軍となった義栄はないとか。いけず~。
さあ、どこにも属さない足利義根。身分は、浪人。

悲惨。
あのまま阿波にいれば、少なくともここまで惨めな事はなかったのに。
さすがにまずいと思ったのか、紀州藩。

紀州徳川家から毎年200両を援助。
これは明治30年頃まで続きました。

その後、義根は北野七本松(現・一条七本松)の崇禅寺に移り。
文政9年(1828)10月8日。80歳で亡くなりました。
やがて御一新で全て白紙に。

もう、阿波公方といえば、これ。
紀州藩の援助はその額が減らされ、四ヶ寺からの援助は廃止。
義根の子の足利義俊は、明治4年に阿波公方家の華族復帰運動をするも、失敗。
葛野郡下山田村(現・京都市西京区)にて帰農。
阿波に留まっていれば、蜂須賀家家臣として士族になれたかもしれません。

泣くな。
悲惨な結果となった第9代阿波公方・義根ですが、この阿波公方家は現在も続いておいでです。
他家(喜連川氏)が養子を入れたのに対し、阿波公方家は平安時代末期の足利家初代・足利義康の血脈が途絶えることなく続きました。
阿波公方のおはなし、おしまい。

参考文献
◎阿波公方
『平島公方物語』(中島 源・著/那賀川町役場/1991.11)
『平島公方史料集』(那賀川町史編さん室/2006)
阿南市「阿波公方・歴史民俗資料館」の展示文書
西光寺の境内説明板
◎三好氏
『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』(天野忠幸・著/ミネルヴァ書房/2014)
『戦国三好氏と篠原長房』(若松和三郎・著/戎光祥出版/2013)
『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(天野忠幸・著/戎光祥出版/2016)
◎その他、適宜「wikipedia」を閲覧
☆出演 兵庫県、徳島県、京都府、和歌山県、香川県、北海道の狛犬さん
いつも応援いただきありがとうございます。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。決して有名ではないけれど、徳島県から室町将軍が出たこと、そしてその子孫が徳島県阿南市の平島という地で「阿波公方」として粛々と生きていたこと、頭の片隅にでも置いていただければ幸甚に存じます。いやー、狛ちゃん達には助けてもらいました。みんながいなければとても続かず。狛ちゃんにも感謝でーす。



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