武から文へ。阿波公方の平島館、文化サロンになる

こんにちは。

今日も阿波公方のお話。


阿波公方に与えられたのは、100石。生活、困窮。

第4代義次の代に旧領のうち七浦山が返還され、第5代義景の代に現米(土地でなく、お米の現物支給)100石の合力米が許されても、


平島館は火の車。


そこで、第8代阿波公方義宜は。

プライドを捨てました。

なんと。

阿波徳島藩第10代藩主の藩主蜂須賀重喜に加増を求めたのです。



(徳島市の興源寺、蜂須賀家墓所)

蜂須賀重喜は、出羽秋田新田藩主・佐竹義道の4男。
第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任。

藩政改革に着手。

明和6年(1769)10月晦日。32歳の時に「藩政宜しからず」として幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(治昭)に家督を譲ります。

そんな藩主、蜂須賀重喜。



プライドを捨てて頼んだのに。

藩政改革の途中の為か、蜂須賀重喜、拒否。

でもめげないっ。



宝暦11年(1761)、重喜が江戸に参勤交代で上府した際、藩重役に再度加増を求めるも、やはりダメ。


ところがどっこ~い。


明和年中に現米950石を加増されて、1190石に。

やったぁー♪


奥さん、すごくなぁい?


この第8代阿波公方義宜、プライドを捨てて頼んだけれど、それはそれ。

平島姓を名乗るとはいえ、うちは何たって足利将軍家。


れっつすたでぃー。

京都から名儒学者として著名な島津華山を招聘。

平島館に学問所「栖竜閣」を設け、子弟・家臣達の教育を崋山に任せます。


《島津華山て誰?》

島津崋山(1738~1794)

兵法家・島津義忠の子として京都で生まれ、両親他界後に父の友人の医師、京極高安の養子となり医業を修め、儒者に転向。

養父他界後は、島津姓に戻します。

義宜の招聘を受け阿波公方に仕え、子弟や家臣の教育に尽力。



崋山の儒学教室は、

平島周辺の寺子屋師匠・山内省山、医師・高橋赤水、西光寺の堅如(大仁錦水)、信行寺の才玄など優れた人物を輩出。

この弟子達は、崋山が親しく交流した藩儒の那波魯堂(なばろどう)と共に、「平島文化サロン」(後述)のメンバーに。

崋山はそのまま阿波平島で没。

墓石には、崋山の功績を讃える碑文が刻まれています。

それは、第9代阿波公方・足利義根撰、弟の義恭の書。
(阿南市那賀川町大京原・須賀庵墓地)


崋山の弟子で著名なのは、医師・高橋赤水。

赤水は明和6年(1769)徳島生まれ。
京都で医学、儒学を学び、赤池村(那賀川町)に移り、医業の傍ら崋山に学び、また、門人に儒学を教えました。

弟子に、貫名菘翁(ぬきなすうおう)がいます。
江戸後期の文人画家の巨匠であり、書では「幕末の三筆」。

赤水は、当時主流であった朱子学を排斥し、孔子本来の教えに立ち戻る立場をとり、著書『赤水文鈔』『古今学話』等を記しています。

生涯については墓碑銘しか知る手立てがないようで。


墓所は、阿波公方家と同じ西光寺にあります。

(墓碑銘なんて読めやしませんでした・・・)


《足利義根、文化サロンをオープン》

足利義根(1747~1826)

宝暦12年(1762)。兄の義智が家督を継ぐ前に早世、第9代阿波公方に。

義根は島津華山に学びます。


義根、漢詩・漢文学に才能が開花。


天明6年(1786)。義根、『栖竜閣詩集』を刊行。

第8代義宜の頃より崋山も協力して編纂を始め、5巻3冊で219首の漢詩を掲載した『栖竜閣詩集』。


『栖竜閣詩集』(阿波公方・民俗資料館蔵)

第9代義根の漢詩も数多く入っています。



義根の漢詩では、義根は平島館を「野水の浜」と詠んでいるそうです。

館から那珂川河口はそれほど遠くはないので、義根の目には平島館が「野水の浜」と映ったのかなー。


さて。


京都詩壇の大御所・江村北海(華山の京都時代の師)のもとへ、崋山に連れて行ってもらったこともある義根。

他に、藩儒・那波魯堂、江村北海・伊藤蘭嶋等の碩学名士とも親しく交流。

崋山の弟子である寺子屋師匠・山内省山、医師・高橋赤水、西光寺の堅如(大仁錦水)、信行寺の才玄など、文人が集う平島館。

「平島文化サロン」のオープンです。


平島館は、阿波南部における漢文学の中心地に。


しかし。

「文化ってのは金喰い虫だぜ」(←誰)

つづく。


島津崋山について、下記の記事を参考にしました。

毎日新聞2015/8/30地方版『阿波春秋』より
http://mainichi.jp/articles/20150830/ddl/k36/070/375000c

その他の参考文献はシリーズ最後に掲載。


いつも応援いただきありがとうございます。
漢詩って難しいですよね。資料館で見ても何が何だか。第8代義宜の尽力により少しは暮らし向きが楽になったのかしら。ちなみに義宜の妻は、羽林家中納言持明院元輔の娘。蜂須賀家の陪臣でわずかな知行地しかない阿波公方足利家ですが、京都ではその権威と血筋は少しは認められていたようです。ここ、ポイント。

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No title

こんばんは~
久々のミニクマちゃんが嬉しい^^

>べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる

ってセリフ「だけ」は覚えてます^^
母が詩吟の練習で何度も出だしの声出ししてたから(爆

足利将軍家も江戸時代ともなれば、京都社交界では準公家扱いだったのかな?

漢詩は(も)サッパリ・・・和歌も苦手・・・詩心がなくて残念・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

ぽちぽちぽちーーー☆彡

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

おおお。お母様、詩吟をなさっておいでで。
大きな声を出すのは体にいいですし、いいご趣味ですね。

漢詩はねぇ。故事がわからんので、さっぱり。

足利ブランド、武家ちゃうんかー?などと思いますが、元は捏造じゃない、ちゃんとした源氏ってとこがポイント高いのかしら?

のたのたと阿波公方のお話を続ける間にも、あっちこっち行ってしまって在庫が山。

三好氏の追っかけは近くてよいわー、です。
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