松永久秀と三好三人衆、足利義冬を将軍にしま・・・
天文22年(1553)。
頼みとしていた細川持隆が、長慶の弟・三好実休により見性寺において殺害されてしまった足利義冬。
さすがにこれには激怒して

妻の実家、周防の大内さんち(当主は大内義長)へ家出。
畿内では。
永禄元年(1558)。
将軍家(足利義輝)と三好長慶は和解。
永禄4年(1561)3月30日。
三好長慶は、義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で敵対する細川晴元とも和睦。
数年の間、平穏。
長慶はこの頃には摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和の10カ国に加え、伊予東部2郡・山城南部等を支配下に。
ところが。
永禄7年(1564)。
三好長慶、病没。
長慶を支えたよくできた弟達(実休・安宅冬康・十河一存)も、既に他界しており、後を継いだ長慶の甥・義継は若年。
で。
松永久秀と、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が、台頭。

一方、将軍義輝は

香取神道流の剣豪・塚原卜伝に習う程のリアル暴れんぼー。
しかも、筆まめ。
あちこちの合戦を調停したり、せっせせっせとお手紙書いた。
「当代、京の公方様義輝と申候は、天下の覚めでたく候」(『細川両家記』)

松永久秀と三人衆、危機感ばりばり。
彼等が望むのは、傀儡の将軍。
永禄8年(1565)。
室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。
室町御所を襲撃し、めっためたに斬り殺しましたとさ。

室町幕府の将軍を近江へ追い払うものの、殺しはしなかった三好元長・長慶とは大違い。
さて、松永久秀&三好三人衆は

第14代将軍を誰にするかと考え・・・
義澄(11代)━義晴(12代)━義輝(13代)
┗義冬 ┗義昭
おや。阿波公方家しか将軍継承候補が居ない。(義昭、逃亡なう)
そう。

白羽の矢がぶっ刺さったのは、

ずっと将軍になりたかった、義冬です。

三人衆(三好長逸)が迎え、周防国から阿波へ戻った義冬。
いよいよ将軍に・・・
ちょっと待て。

いくつだ、義冬。
57。

待ちに待ってたら、もう、57。
なんてこったい。
さすがにこの年では征夷大将軍職ははばかられ。

嫡男の足利義栄が次代室町幕府将軍として推挙されました。

ちなみにこの頃、松永久秀と三人衆、仲違い。
永禄9年(1566)。
足利義栄は、三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁され摂津国へ入ります。
永禄10年(1567)1月5日。
「従五位下左馬頭」に叙任。
これは、征夷大将軍になる者が事前に命じられる官職。
あとは征夷大将軍の宣下を待つのみ。←義冬、ずっとここ

永禄11年(1568)2月8日。
朝廷より「第14代将軍」として義栄に将軍宣下。
ついについに、将軍になれたー(息子が)!!

苦節数十年。
義冬自身はなれなかったけれど。
よよよよ。
ところがどっこいしょ。
義冬を最大の悲劇が襲います。

つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。
自分の武力を持たない義冬には、待つことしか出来なかったのかな。ずーっと待ったあげく、年をとってしまったが故に手に入らなかった将軍の座。嫡男の義栄が第14代将軍になれたのが救いです。畿内に松永久秀と三好三人衆が出てきたということは、いよいよ、織田信長がやって来る頃合い。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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