待ちぼうけて数十年。初代阿波公方・足利義冬
こんにちは。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。
頼みとしていた三好元長の死により、三好一族と共に阿波へ帰国した足利義維(義冬)。
※この頃に義冬に改名したので、以下、義冬で。

迎えたのは、阿波守護・細川家。
庇護者が世代交代しています。
阿波守護・細川之持→→息子の持隆
三好元長→→息子の長慶

足利義冬は、まず西光寺へ。

後に阿波公方足利家の菩提寺となるお寺。
細川持隆は、平島郷十二村、吉井村、楠根村、丹生村、和食村の計三千貫の土地を献上。
義冬は、侍分15人含む360人を従え、平島の地へ下向。
これ以降、義冬の家系は「阿波公方」と呼ばれるように。
なぜ平島なのか。
それは、この西光寺がある辺りは、足利尊氏が開基し、足利家に縁の深い天龍寺の荘園「平島荘」だったから。

義冬、鼻息ぶぉーぶぉー。
ところがどっこい。
細川持隆も、三好長慶も、左へ受け流すぅ~。
そう。将軍義晴は琵琶湖湖西(朽木・坂本)と都をうろうろするわ、呼応したいろんな人が出てくるわで、畿内あっちこっちをモグラタタキするため長慶と兄弟達はフル活動。(略しすぎてごめんなさい)
もんもんする義冬。

待ちぼうけ♪ること、実に十数年。
やがて、京都は再び義晴派閥の手に。
天文15年(1546)12月。
義晴は征夷大将軍職を嫡男の義輝(11歳)に譲ります。

早く上洛して将軍の位を奪還しなくちゃっ。
なのにぃ~(T▽T)
三好長慶ってば、足利義輝に何度も命を狙われている(焼き殺されかけたり、斬られたり)というのに、近江へ逃れた後の義輝を追い詰めない。
放置。

自害した父の三好元長も、そうでしたね。
結局、諦めない義輝との争いは十数年に及びます。
つまり、

待ちぼうけ♪ていたら、さらに十数年経ってた義冬。
義冬の周囲は変化がなくても、畿内は大騒動。
特に、三好長慶の台頭はめざましく。
永禄4年(1561)3月30日。
義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で敵対する細川晴元とも和睦。
長慶の勢力圏は、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和の10カ国。
さらに、伊予東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化。
(阿波守護細川家は既に三好長慶の台頭により実力が形骸化。)

さすがにしびれが切れた義冬。
三好がダメなら、と、阿波守護細川家を説得。
上洛の同意を得て、いざ。
ところがどっこい。
天文22年(1553)。
肝心の、細川持隆が、長慶の弟・三好実休により見性寺において殺害されてしまいまーす。

なんてこったい。
さすがにこれには、義冬、激怒して

妻の実家、周防の大内さんち(当主は大内義長)へ家出。
え?
義冬の先代、第10代将軍・足利義稙は家臣達に征夷大将軍をクビにされ(明応の政変)、激怒して逃亡し、征夷大将軍職復権を目指して13年半もの間、越中、近江、加賀、中国地方の最西端・周防国まで放浪。

周防国の大内義興の支援により、めでたく永正5年(1508)に京都を占領し、将軍職に復帰。
この、大内義興の娘が、義冬の妻(この人の姉は細川持隆の妻)。
永禄6年(1563)頃に三好長逸らの手引きで帰国するまで十年間を周防国で過ごした義冬。
さて、ここでクイズです。

永正6年(1509)生まれなのよ。
このまま周防の国でおとなしく余生を過ごしました・・・か?
そんなわけなかろ。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。
まー、待つわ待つわ、いつまでもまぁつーわ♪(古っ)の足利義冬さんですが。三好長慶には将軍義輝を義冬のために討つ気などさらさらないようで。義冬を対抗馬として担ぎ上げる義理もないですしねー。ものすごく省略していますが、この時期の畿内はほんとに面白いです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。
頼みとしていた三好元長の死により、三好一族と共に阿波へ帰国した足利義維(義冬)。
※この頃に義冬に改名したので、以下、義冬で。

迎えたのは、阿波守護・細川家。
庇護者が世代交代しています。
阿波守護・細川之持→→息子の持隆
三好元長→→息子の長慶

足利義冬は、まず西光寺へ。

後に阿波公方足利家の菩提寺となるお寺。
細川持隆は、平島郷十二村、吉井村、楠根村、丹生村、和食村の計三千貫の土地を献上。
義冬は、侍分15人含む360人を従え、平島の地へ下向。
これ以降、義冬の家系は「阿波公方」と呼ばれるように。
なぜ平島なのか。
それは、この西光寺がある辺りは、足利尊氏が開基し、足利家に縁の深い天龍寺の荘園「平島荘」だったから。

義冬、鼻息ぶぉーぶぉー。
ところがどっこい。
細川持隆も、三好長慶も、左へ受け流すぅ~。
そう。将軍義晴は琵琶湖湖西(朽木・坂本)と都をうろうろするわ、呼応したいろんな人が出てくるわで、畿内あっちこっちをモグラタタキするため長慶と兄弟達はフル活動。(略しすぎてごめんなさい)
もんもんする義冬。

待ちぼうけ♪ること、実に十数年。
やがて、京都は再び義晴派閥の手に。
天文15年(1546)12月。
義晴は征夷大将軍職を嫡男の義輝(11歳)に譲ります。

早く上洛して将軍の位を奪還しなくちゃっ。
なのにぃ~(T▽T)
三好長慶ってば、足利義輝に何度も命を狙われている(焼き殺されかけたり、斬られたり)というのに、近江へ逃れた後の義輝を追い詰めない。
放置。

自害した父の三好元長も、そうでしたね。
結局、諦めない義輝との争いは十数年に及びます。
つまり、

待ちぼうけ♪ていたら、さらに十数年経ってた義冬。
義冬の周囲は変化がなくても、畿内は大騒動。
特に、三好長慶の台頭はめざましく。
永禄4年(1561)3月30日。
義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で敵対する細川晴元とも和睦。
長慶の勢力圏は、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和の10カ国。
さらに、伊予東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化。
(阿波守護細川家は既に三好長慶の台頭により実力が形骸化。)

さすがにしびれが切れた義冬。
三好がダメなら、と、阿波守護細川家を説得。
上洛の同意を得て、いざ。
ところがどっこい。
天文22年(1553)。
肝心の、細川持隆が、長慶の弟・三好実休により見性寺において殺害されてしまいまーす。

なんてこったい。
さすがにこれには、義冬、激怒して

妻の実家、周防の大内さんち(当主は大内義長)へ家出。
え?
義冬の先代、第10代将軍・足利義稙は家臣達に征夷大将軍をクビにされ(明応の政変)、激怒して逃亡し、征夷大将軍職復権を目指して13年半もの間、越中、近江、加賀、中国地方の最西端・周防国まで放浪。

周防国の大内義興の支援により、めでたく永正5年(1508)に京都を占領し、将軍職に復帰。
この、大内義興の娘が、義冬の妻(この人の姉は細川持隆の妻)。
永禄6年(1563)頃に三好長逸らの手引きで帰国するまで十年間を周防国で過ごした義冬。
さて、ここでクイズです。

永正6年(1509)生まれなのよ。
このまま周防の国でおとなしく余生を過ごしました・・・か?
そんなわけなかろ。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。
まー、待つわ待つわ、いつまでもまぁつーわ♪(古っ)の足利義冬さんですが。三好長慶には将軍義輝を義冬のために討つ気などさらさらないようで。義冬を対抗馬として担ぎ上げる義理もないですしねー。ものすごく省略していますが、この時期の畿内はほんとに面白いです。



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