足利義維(義冬)、従五位下左馬頭になれども将軍には?

義稙亡き後、その意思と執念を継いだのは、11代将軍義澄の子で義稙の養子であった足利義維(よしつな・後に義冬)(1507-1573)。
お育ちは阿波細川さんち。

という、とーちゃんの遺志を継ぎ。
京都の室町御所で第十二代征夷大将軍となっていた実兄の足利義晴と対立する道を選び、その将軍位を虎視眈々と狙い始めます。
そんな義維の後ろ盾は、阿波国を代表する二人の権力者。
阿波守護職・細川之持(ゆきもち)と、その右腕・三好元長。

特に三好元長及び弟の康長の武勇と器量は大きな支え。
大永7年(1527)2月。桂川原の戦い。
三好元長・細川晴元達は、兄の第12代将軍・義晴を擁する細川高国を打ち破り。
将軍義晴は京都を捨て近江朽木谷へ逃亡。京都室町政権は瓦解。
ポイント。
ほっぽり出すだけで、追いかけて始末まではしないのが三好元長。
これは、子の長慶も同じ。

覚えておいてね♪
同年3月。
細川持隆、三好元長に擁立され、義維(義冬)はついに阿波を出立。
大阪の堺へ入ります。

同年7月。
「従五位下左馬頭」に叙任。
これは、征夷大将軍になる者が事前に命じられる官職。
あとは朝廷からの勅使を迎え、征夷大将軍の宣下を待つのみ。

堺の顕本寺に居住した足利義維(義冬)の周りには、都を追われ鳴門の撫養で死去した第10代将軍・足利義稙に従ってきた幕府吏僚達がおり、奉行人奉書の発給を始めています。(wikipediaより)
「堺公方」「堺大樹」と呼ばれても、肝心の待ち人、来ず。
朽木谷へ逃れたとはいえ、現職の将軍・義晴は存命。
再起する可能性もあったからでしょうか。

かれこれ5年間、待ちぼうけ。
そこへ凶報。
天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。

この時、お腹から中身を取り出して天井へ投げつけたとか。

三好氏の本拠地・勝瑞城跡に建つ見性寺境内に墓所がありましたね。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
頼みとしていた三好元長の死。

足利義維(義冬)、しょーっく。
三好一族と共に阿波へ帰国。

迎えたのは、阿波守護・細川之持でした。

ところがどっこい。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。
「あちょー」等でたびたび登場するちび狛犬さんは、兵庫県丹波市春日町黒井の兵主神社の子です。阿波公方なんて馴染みの薄い人のお話には、せめて狛犬劇場で楽しく楽しく・・・。暖かくなり凍結の心配がなくなったので、狛犬さんに会いに行かなくちゃ♪とわくわくしてたら、花粉症が来ました。うおー。



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