「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め
天正10年(1582)3月11日。
武田勝頼が甲斐国(山梨県)天目山で滅ぼされたことにより、武田氏滅亡。
信長により「関東管領職」の任と上野国と信濃国小県・佐久二郡を与えられ、信長秘蔵の脇差一腰と馬を携え入部したのは、滝川一益。
まず箕輪城(高崎市)に入り、厩橋城(前橋市)へ移り、厩橋城を拠点として上野国支配を図ります。
【滝川一益の能興行】
「真田丸紀行」に出ていた長昌寺。厩橋城の南に位置。
「境内に本格的な能舞台を作り人々を楽しませました」と語られておりましたが、実はここが群馬県における能発祥の地なのです。
天正10年(1582)5月。
一益は、厩橋城に上野国内の諸将を招き、能を演じます。

自ら『玉鬘(たまかずら)』を舞い、一益の嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打ったといいます。
《能楽メモ。大鼓ってなんだー》
嫡子・於長が打った小鼓(○こつづみ、×こづつみ)は、ポンポンと鳴らす皆様ご存じの鼓ですが、岡田太郎右衛門が打った大鼓(おおかわ)とは。

お雛様の五人囃子。
向かって左から、太鼓・大鼓・小鼓・能管・謡。
大鼓は、音としては、カーンカーンという、固く高い音。
馬のお尻の皮を張っています。

演能前に、炭火でかんかんにいぶって乾かします。
これによって、カーンという音が出ます。
私の習っている大倉流では、ドン、と、チョン、の「ちっちゃい音とおっきい音」の二つ。
かんかんに張った固い皮を素手で打つと、衝撃で手のひらではなく、手の甲がぽんぽんに腫れます。
そうねぇ。テーブルの角を手のひらで思いっきり打ち付ける感じ。
素手で打つと、ほんっとに痛いんだよー。
氷で冷やさないといかんほど、痛いんだよー。
初めて打った時は、ほんっとに手の甲が内出血したんだよー。
なので。

プロの方は、「指皮」という指サックとグローブもどきで保護。
指サックは、張り子のように米粉を水で溶いた糊と和紙を指に張り付け重ね、一番上を紅茶で着色した和紙を張り付けます。
乾燥させれば、こちこちになります。
全てオリジナルにするのは、自分の指の形にぴったりでないと、演奏中に飛んでいってしまうため。
演奏前に昔ながらのつぼに入った糊を滑りに用いて、ぎゅーっとはめ込みます。
グローブもどきの位置が大鼓の縁に当たります。
《『玉鬘(たまかずら)』という選曲》
『玉鬘(たまかずら)』は、『源氏物語』の玉葛(夕顔の娘)を題材とした曲で、作者は金春禅竹。
「げに妄執の雲霧の。迷いもよしや憂かりける。
人を初背の山颪。はげしく落ちて。露も涙もちりぢりに秋の葉の身も。
朽ち果てね恨めしや。」
と謡う、美しい女性がシテの曲です。
一益の選曲は、平家物語を題材とする修羅物(武将がシテ)ではなく、美しい女性がシテ。
なんでや。

ねー。
この時の一益の意図としては、織田家家臣ってのは、戦バカだけじゃないぞー、新しい城主は文武両道なんだぜーっと。

果して伝わったのかどうか。
なお、戦国時代の能舞台は、庭先に板を置いた可動式の簡素な物、あるいは、屋内の板敷の上で行っています。
現在のような「能舞台」が出来るのは、秀吉が能に耽溺する晩年以降。
《群馬県における初めての能興行》
6月2日。本能寺の変。

一益、6月7日にそれを知る。(『上野史談』)
6月11日。
一益は長昌寺で能興行を行います。
「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」「総構ヲ大竹ニテ二重」(『石川忠総留書』等)
これが記録に残る群馬県で最初の演能とされています。
状況が状況ですから、長昌寺の「総構ヲ大竹ニテ二重」に厳重に囲んだ中での興行でした。
「能組十二番」
現在、午前11時開演、午後5時終了とすると、プログラムは能三番、狂言一番、仕舞数番です。
これでは能十二番なんてとても無理。
秀吉の晩年の演能記録など数々の資料から、戦国時代の能は、曲の全部を謡本通りに演能するのではなく、一部を取り上げるなどして、現在の半分ほどの演能時間であったと推定されています。
「舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」
能の型に、足拍子、があります。
足で床をトントンと踏み鳴らす所作ですが、この際の音を響かせるために、舞台床下に口を上に向けた龜や瓶を置きます。
屋根や柱の有無は不明ですが、庭先に板を置いただけのものが多い中、「本格的な能舞台」であると言えると思います。

太平記英勇伝35:滝川左近一益(wikipediaより引用)
滝川一益、小鼓なう。
これは、ポ、の手をしている図。いいのか、一益。のんびりしてて。
6月13日。山崎の合戦。

(高野山奥の院。豊臣家墓所)
周知の如く、光秀は秀吉の軍により、敗北・死亡。

(高野山奥の院。明智光秀墓所)
北条さんが不穏な動きを見せているし、滝川一益、さぁ、どうなる?

舞ってる場合か。
来週へつづく。
参考文献
『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917
同上「上野史談」
いつも応援いただきありがとうございます。甲斐国・武田信玄の家臣団の中に猿楽師五十余名がいたほどですから、大和猿楽が東へ普及していなかった事はないです。しかし、それが広く普及していることはなく、あくまでも大領主主従の話。滝川一益は上野国の諸将に見せた点が、ポイントです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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