こんにちは。

復元された勝瑞城館と細川殿(勝瑞遺跡デジタル博物館より引用)
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/m_01_03.html
勝瑞城は、阿波守護の細川氏9代、三好氏3代、約240年の根拠地。
中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されているそうです。

勝瑞城域は現在、三好家の菩提寺である見性寺の境内となっています。

何だかよくわからないまま、突進。
三好さんに会いたくて~( 〃▽〃)

江戸時代に城域の西より移転。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
三好之長(ゆきなが)(1458-1520)
阿波守護細川氏分家・讃州家の細川成之に仕え、阿波から畿内へ進出した人。
三好元長(1501-1532)
之長の孫。阿波より挙兵し足利 義維(よしつな)を立て堺公方を樹立。
堺の顕本寺で自害する時、お腹から中身を取り出して天井へ投げつけた人。

シュールだ。
三好義賢(1527?-1562)※のちに、実休。
元長の子。兄は長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長。
天文2年(1553)。主の守護細川持隆を殺害しその実権を奪います。
お茶が好き。
「名物を五十種類も所持」「実休は武士なのに数奇者だ」by『山上宗二記』

狛さん、違うから。
三好長治(1553-1577)
義賢(実休)の子。弟に十河存保(そごうまさやす)。
織田信長と攻防。
石山本願寺の加勢、たまたま朝倉・浅井が決起した等により摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻すも、和睦して戻った本国の阿波の内政に失敗。
長宗我部軍の阿波侵攻を誘発してしまい、敗北死。

旧本丸の部分とされる城跡。
天下に名を轟かせた三好氏がここにいて、ここから畿内へ出兵したかと思うと、感無量。よよよ。

・・・。
いいの。勝瑞城は勝瑞城館とセットで、三好氏の居城として栄えたんだから。
私、中身を取り出して投げたとーちゃんと、長慶兄ちゃんを助ける実休、安宅冬康、十河一存のよくできた三兄弟にツボってますの。
みんな最期が悲しいんです。しくしく。

東屋があれば、即、おやちゅ。

現在、一部にのみ土塁が残存。

どこどこー?って聞いちゃだめ。

敵は外から来るのよ。

負け惜しみではない。

矢竹の森。
矢等の材料となるので城域でちょこちょこ見かけますが、いざというときに作っていたら間に合わないですよね。
普段からせっせと作っていたのかなー。地味だなー。
天正10年(1582)。

8月28日。十河存保は中富川の合戦で長宗我部軍に大敗を喫し、勝瑞城に籠城。
土佐の長宗我部元親が十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せます。
9月21日。十河存保、讃岐へ退き、勝瑞城はおしまい。廃城。

いくら水濠が囲んでいても、

周囲はご覧の通り、ぺったんこ。
居館を捨ててここで体制を立て直し、他の城へ移動。
そんな感じなのかな。
十河存保、よく一ヶ月弱もここで籠城したなぁー。

長宗我部軍が来たら、さぞかし怖かっただろうなー。

天正13年(1585)に阿波へ入部した蜂須賀家政は、徳島城の早期築城のため、廃城となった勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったとか。

徳島城の石積。
もぉー、はっちーったらぁ~。

おしまい。
勝瑞城館
《住所》徳島県板野郡藍住町勝瑞
参考文献
勝瑞城館現地説明板
勝瑞遺跡デジタル博物館
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/index.php
いつも応援いただきありがとうございます。勝瑞城、これだけかよ!っというツッコミはなしでお願いします。水濠が取り囲んでいること、内部は現在、見性寺の境内であり、三好一族の墓所があること、土塁がわずかに残ること。これだけでも三好長慶好き好きには満足至極。鳴門大橋も、明石海峡大橋もない時代に阿波から畿内へ侵出して、実力で手に入れたんですもの。すごいなーすごいなーの連発でございます。うふふふ。



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