勝瑞城館。阿波守護細川氏と三好氏のまちづくり
こんにちは。
旅の二日目は、徳島県板野郡藍住町をうろちょろ。

はいはい。
阿波守護細川氏と三好氏の本拠地となり、阿波の政治・経済・文化の中心地として繁栄し、また、名前の通り徳島藍の産地であった土地です。

まずは、旧吉野川を北に控え、広大な平野の広がる勝瑞へ。
《細川と三好。その歴史》
十五世紀中頃に阿波守護細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した後、「勝瑞城」を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えました。
歴代守護細川氏は京都の管領家を支援し、たびたびこの城から大軍を畿内に送って活躍。
勝瑞城は、京都の管領屋形に対して「阿波屋形」または「下屋形」とも呼ばれ、応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点に。
また、城下に五十ほどの寺院があるなど、四国最大の守護町が形成され、おおいに賑わいます。
が。
天文二十一年(1552)。守護の細川持隆は、執事の三好義賢(後に実休)と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えます。
この頃三好長慶らは度々畿内に出兵。三好の名が天下に轟く時代です。
天正十年(1582)。阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防が繰り広げられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去。
天正十三年(1585)。蜂須賀家政、入封。徳島城の早期築城をすすめるため、廃城となった勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったとか。
《細川と三好。まちづくり》

復元された勝瑞城館と細川殿(勝瑞遺跡デジタル博物館より引用)
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/m_01_03.html
画像の上(切れてます)には、旧吉野川。
画像内を東西に走る青い線は、吉野川支流。
このように吉野川本支流に挟まれた勝瑞の地は、水運が発達。
畿内とは、海と川で繋がっていることになります。
細川・三好両氏は畿内でも活躍していますから、これは大きな利点。
水運により、畿内から多くの物資や文化がここに集まり、「畿内と直結した文化都市」として全盛を誇りました。

「中世都市勝瑞」(勝瑞遺跡デジタル博物館より引用)
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/m_01_03.html
細川氏は、京都の中心部のような碁盤の目に区画した「まちづくり」。
その後、16世紀中頃に阿波の実権を握った三好氏もまた、勝瑞に拠点を置き、勝瑞城館を整備。それを中心に濠を巡らす「まちづくり」。
この三好氏の居館と、北東の勝瑞城を併せて「勝瑞城館」と呼びます。
(現在も発掘調査が行われています。)
【勝瑞城】

旧本丸の部分とされる城跡。
勝瑞城は、阿波守護の細川氏9代、三好氏3代、約240年の根拠地。
中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されているそうです。

勝瑞城域は現在、三好家の菩提寺である見性寺の境内となっています。

江戸時代に城域の西より移転。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
こちらへお参り出来てとても嬉しかったです。
つづく。
勝瑞城館
《住所》徳島県板野郡藍住町勝瑞
参考文献
勝瑞城館現地説明板
勝瑞遺跡デジタル博物館
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/index.php
いつも応援いただきありがとうございます。大阪府内をうろついていると、三好氏に関連する史跡に多く出会います。こそっと三好氏好き。うふふ。「阿波の三好氏」の拠点がどこなのか、また、一族の墓所はどこにあるのか、ずっと気になっていたのでやっと現地に立つことが出来て嬉しかったです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
旅の二日目は、徳島県板野郡藍住町をうろちょろ。

はいはい。
阿波守護細川氏と三好氏の本拠地となり、阿波の政治・経済・文化の中心地として繁栄し、また、名前の通り徳島藍の産地であった土地です。

まずは、旧吉野川を北に控え、広大な平野の広がる勝瑞へ。
《細川と三好。その歴史》
十五世紀中頃に阿波守護細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した後、「勝瑞城」を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えました。
歴代守護細川氏は京都の管領家を支援し、たびたびこの城から大軍を畿内に送って活躍。
勝瑞城は、京都の管領屋形に対して「阿波屋形」または「下屋形」とも呼ばれ、応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点に。
また、城下に五十ほどの寺院があるなど、四国最大の守護町が形成され、おおいに賑わいます。
が。
天文二十一年(1552)。守護の細川持隆は、執事の三好義賢(後に実休)と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えます。
この頃三好長慶らは度々畿内に出兵。三好の名が天下に轟く時代です。
天正十年(1582)。阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防が繰り広げられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去。
天正十三年(1585)。蜂須賀家政、入封。徳島城の早期築城をすすめるため、廃城となった勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったとか。
《細川と三好。まちづくり》

復元された勝瑞城館と細川殿(勝瑞遺跡デジタル博物館より引用)
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/m_01_03.html
画像の上(切れてます)には、旧吉野川。
画像内を東西に走る青い線は、吉野川支流。
このように吉野川本支流に挟まれた勝瑞の地は、水運が発達。
畿内とは、海と川で繋がっていることになります。
細川・三好両氏は畿内でも活躍していますから、これは大きな利点。
水運により、畿内から多くの物資や文化がここに集まり、「畿内と直結した文化都市」として全盛を誇りました。

「中世都市勝瑞」(勝瑞遺跡デジタル博物館より引用)
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/m_01_03.html
細川氏は、京都の中心部のような碁盤の目に区画した「まちづくり」。
その後、16世紀中頃に阿波の実権を握った三好氏もまた、勝瑞に拠点を置き、勝瑞城館を整備。それを中心に濠を巡らす「まちづくり」。
この三好氏の居館と、北東の勝瑞城を併せて「勝瑞城館」と呼びます。
(現在も発掘調査が行われています。)
【勝瑞城】

旧本丸の部分とされる城跡。
勝瑞城は、阿波守護の細川氏9代、三好氏3代、約240年の根拠地。
中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されているそうです。

勝瑞城域は現在、三好家の菩提寺である見性寺の境内となっています。

江戸時代に城域の西より移転。

三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。
こちらへお参り出来てとても嬉しかったです。
つづく。
勝瑞城館
《住所》徳島県板野郡藍住町勝瑞
参考文献
勝瑞城館現地説明板
勝瑞遺跡デジタル博物館
http://aizumi-shouzui.sakura.ne.jp/pc2009/index.php
いつも応援いただきありがとうございます。大阪府内をうろついていると、三好氏に関連する史跡に多く出会います。こそっと三好氏好き。うふふ。「阿波の三好氏」の拠点がどこなのか、また、一族の墓所はどこにあるのか、ずっと気になっていたのでやっと現地に立つことが出来て嬉しかったです。



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