志度の多和神社宮司の松岡調とこんぴらさんの神仏分離

こんにちは。

一般に「式内社」を自ら名乗りながらも根拠に乏しい神社は、式内社の「論社」「比定社」とされています。



明治にいきなり


今日からうちが「式内社多和神社!」と言い出した志度の多和神社。

ここも、「式内社多和神社」の論社のひとつではありますが、他と違うのは、「式内社である」とされている点。


ではなぜ、明治にいきなり式内社を名乗り、それが現在通じているのか。

幕末から明治にかけて、ここの宮司は松岡調(みつぎ)。

彼を調べると何やらにおう。


違うってば、狛ちゃん。


【背景、幕末の高松藩】

藩主は松平氏。

幕末期の動乱の中では親藩であり、藩主・松平 頼聰(よりとし)は徳川慶喜と縁戚関係にあり(従兄弟)、当初は佐幕派。

慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となりますが、結論から言えば、その後は、新政府にひたすら恭順。


【キーパーソン・松岡調】

まずは、松岡調の略歴(wikipediaより抜粋・引用)

高松藩藩士佐野正長の次男。

友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶ。

嘉永3年(1850)。多和神社社家の松岡寛房の養子となり、祀官に。
慶応2年(1866)。養父の後を継いで同社の神主となる。
明治2年(1869)。高松藩の藩校の皇学寮の教授に就任。

同年。高松藩の命により、新政府の神仏分離令を実施するための「讃岐国の寺社の実態調査」を行う
(※高松藩は「新政府にひたすら恭順」時代)

この結果、讃岐国内の神社の来歴などが明らかになる。

明治5年(1872)。金刀比羅宮の禰宜を兼務する。以降23年間、禰宜。

明治27年(1894)。従八位下。

明治28年(1895)。金刀比羅宮を巡る不祥事(日清戦争に際し、朝鮮半島や遼東半島に独自に神道布教を図った問題)に巻き込まれて金刀比羅宮禰宜を解任される。


(北海道の羅臼神社。明治28年に金刀比羅宮より分祀)


【松岡調が神社を調べる】

「尊王攘夷」を理念として成立した明治政府は、まず、「王政復古・祭政一致」を宣言。

その理念の裏づけとなった思想は「水戸学や後期国学や復古神道」ですから、「神社」の存在を重要視。


詳細は→→→「神仏分離の実施。法令で確認」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-444.html


既存の神社に対し、布告を出し、全国津々浦々の神社を社格制定の為に調べ上げます。

【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座
某社
 1.宮社間数 並大小ノ建物
 1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
 1.神位
 1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書□スヘシ
 1.社地間数 附地所古今沿革之事
 1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
 1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
 1.造営公私或ハ式年等之別
 1.摂社末社の事
 1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別
 1.社中男女人員
 1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
 1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
 1.同管轄之庁迄距離里数


この一連の作業の中で、当然「式内社」の存在を調査。



松岡調が明治2年(1869)に高松藩の命により、新政府の神仏分離令を実施するための「讃岐国の寺社の実態調査」を行ったのは、この布告の事前調査でした。

よって、彼は讃岐国内の式内社に当時最も精通している人物であったのではないでしょうか。


【松岡調とこんぴらさん】

「金刀比羅宮」という神社は、皆様ご存じの、こんぴらさん。



しかし、ここは元々、真言宗の「象頭山松尾寺金光院」というお寺。
神仏習合で「象頭山金毘羅大権現」と呼ばれていました。


「金毘羅参詣名所図絵」金堂・多宝塔の文字が見えます。

江戸時代中期より盛んになった「こんぴらふねふね~♪」の「こんぴら信仰」は、この「象頭山金毘羅大権現」に対する信仰。

何があったのか。


よくできました~。

はい。明治の神仏分離・廃仏毀釈ですね。

お寺をクラッシュ、神社をビルド。


「金毘羅大権現」の「こんぴら」の音は長年親しまれています。

そこで、新しく作った神社の名は「金刀比羅宮」としたのでしょう。

しかしここに金毘羅大権現はおらず、祭神は、大物主神と崇徳天皇。



こんぴらさんの門前町として栄えた「那珂郡金毘羅村」は、
明治6年(1873)11月27日に、諸官省布達により「琴平村」と改称。

そこまでせんでも・・・。

こんぴらさんの神仏分離・廃仏毀釈のポイントは、別当職の僧宥常が還俗して「琴陵宥常」と改名し、「金刀比羅宮」の宮司となった点。


(画像:書写山園教寺の捨てられ朽ち果てた仏像)

詳細は省きますが、松岡調はこの真っ只中に禰宜に就任。

既存の「象頭山松尾寺金光院」を廃し「金刀比羅宮」という神社を新たに作り上げる時の、神社側の責任者です。

彼の立場を物語る象徴的な地位かと思います。


【集めに集めて多和文庫】

幼少より国学・和歌・絵画を学び、古典考証学や考古学に精通していた松岡調は、藩政時代に『讃岐国名勝図会』の製作に協力しています。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の、ここ。


自分で「八幡宮」って書いとるがな。
(※「協力」だから知らないかもしれませんが・・・)

日本各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究に熱心だった松岡調。

著作に『古事記刪定』『古語拾遺刪定』『新撰姓氏録刪定』『国土考』『讃岐国官社考証』『新編讃岐国風土記(未完)』。

自身の日記である『年々日記』(文久4年(1864)~)が、「地方における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る」のに貴重であることは簡単に推察出来ますが、多和文庫は「一般には公開しておりません」(多和神社説明書)。

研究を待つ。


明治18年(1885)。自宅敷地に蔵「香木舎(かきのや)」を新築。


(随神門の向きが現況とは90度違います)

古文書、古写本、書画、文献、考古学上の発掘物など、五千点余に及ぶ資料が収蔵されています。

それが、「多和文庫」。

「東大寺写経文書」(天平勝宝6年(754)と天平宝字2年(758))と「讃岐国山田郡弘福寺領田図」は国の重文。

(その他に何があるかは、検索ください。)


今もお住まいなので画像はこれ。

明治28年(1895)。金刀比羅宮の禰宜を解任された松岡調ですが、

明治35年(1902)兵庫県の伊和神社(式内社)宮司
明治37年(1904)香川県の田村神社(式内社)宮司

を歴任しました。


志度の多和神社。

これほどの人物が宮司である志度の多和神社が、明治に「うちが式内社」と言えば、例え数百年来「式内社多和神社」と称されていようとも裏付けとなる史料に乏しければ、強く反論出来なかったでしょうね。



いつも応援いただきありがとうございます。
養子に入った負い目でもあったのでしょうか。自身が宮司である志度の多和八幡宮を式内社としたことは。自力で培った知識を生かした著作の数々、熱心に集めた膨大な諸資料、どれをとっても貴重なもので、松岡調の生涯に渡る努力の結果だと思います。しかし、いきなり「式内社」とするには無理がありました。次記事に、つづく。

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