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「式内社」て何。讃岐国式内社の多和神社、行方不明

こんにちは。


志度の多和神社。


今日は式内社のお話から。


【『式内社』(しきないしゃ)】

「延喜式」の神名帳(官社を記載登録した名簿)にその名が記載されている神社。2861社。

特に由緒のある神社とされ、毎年の祈年祭に幣帛が供えられ、災害や全国的な疫病蔓延などに際しては公の祈願が行われました。


【「延喜式」とは】

905年(延喜5年)。醍醐天皇の命により藤原時平・藤原忠平等が編纂に当たった格式(律令の施行細則)。全50巻。

927年(延長5年)に完成、967年(康保4年)より施行。

巻8に祝詞を掲載。巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっており、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載される。


延喜式撰修前後に「存在していた」神社。ここ、ポイント。


藤原時平・忠平兄弟が編纂に当たったので、中臣氏(※藤原氏)と共に宮中祭祀を掌ってきた忌部氏の裔・忌部広成が「官社は中臣氏が欲しいままに選定した」(『古語拾遺』)と、愚痴っています。


藤原時平イメージ。


式内社は、官社制の形骸化と共に中世には実態が失われました。

しかし、名称自体は、千年以上の歴史と伝統を持つ古い神社であることを示す社格の一種として残ります。


【式内社の多和神社】

讃岐国式内社二十四座の寒川郡の一座として、「多和神社」は延喜式神名帳に登載されています。

「『三代実録』元慶元年(877)3月4日の条」に「讃岐国従五位下多和神社に従五位上を授く」とあるので、それ以前に既に「従五位」の官社ではありました。

しかし、その後は国史に登場することはなく。

延喜7年(907)から乾元元年(1302)までの400年間に5回(延喜7・治暦4・治承2・弘長2・乾元元)遷宮が行われた(『長尾宝蔵院古暦記』)記録はあるものの、鎮座地は不明。


つまり、延喜式が完成した延長5年(927)当時は、讃岐国に「多和神社」が存在していたものの。

他の多くの式内社と同様に以降は、行方不明になったのでした。



現在、「式内社多和神社」は、さぬき市の中で、志度の多和神社、前山の多和神社、鶴羽の鶴羽神社、鶴羽の大森神社の四社が「論社」となっています。


【前山の多和神社】


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)


『讃岐国名勝図絵』には、「延喜式内社」の記載。


「当社ははじめ未詳。この辺りを大田尾と称するため、『多和の音に似ているところから』大田尾神社(明神社)を修理して多和神社と唱えた。
旧社地は川向かい二十丁にあったのを移した。
祭神は、大己貴命。」



前身は大田尾神社という明神社であったものを、「大田尾」と「多和」の音が似ているから「多和神社」にした、のですねー。

ただ、「前山の多和神社」は、『玉藻集』『三代物語』『新撰玉藻集』『讃岐国名勝図絵』『生駒記』などの郷土史には全て「式内社」として記載。

少なくとも江戸時代以前から、「式内社の多和神社は前山に鎮座」の認識があり。




しかし、明治になって、いきなり志度の多和八幡宮が式内社だと主張し始め、それが認められてしまいます。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度の多和八幡宮。


「延喜式内社」の記載はなく、ただ「八幡宮」と記されているけれど。


前山の多和神社では、それに反論するだけの江戸時代以前の式内社の根拠となる史料に乏しかったのでしょうね。

が、志度の多和神社でもそれは同じ。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
昨日の大河「真田丸」で、信繁義兄のヒゲの濃い~ぃ小山田信誠くんが、縁側で妻とお揃いのポプリをにこにこしながら作って、しかもそれを握りしめて幸せそうに寝てましたねー。信長も光秀もぜんぶぶっ飛んでしまいました。ポプリ・・・ポプリ・・・。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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No title

「ちきないちゃー」は、こちらで勉強させて頂いているのですが、人に説明できないあたり、脳の芯から理解してるか怪しい^^;スイマセン

義兄さん、全然潜伏してないですよね・・・
あの時代なら「匂い袋」のはずなのに、どうみても「ポプリ」・・あれは「ぽぷり」でございました(。-_-。)

ぽちぽちぽちーーー☆

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

ちきないちゃーは、延喜式制定時に、存在していた。

be動詞だと思えばいいかと。

be、was(were)、been、です。

存在してる(制定当時)、してた(もう、ない)、ずっとあり続ける、です。

義兄、なんで香木じゃないのかと。
安土にはポプリもあったよーん、すごいねー、なのかしら?

私のプチ発見は、穴山梅雪との会談中の家康が持ってた扇が、謡のお稽古に使う仕舞扇ではなかろうかってとこで。

青二段に観世水の模様。

骨が少し膨らんでたのと、少し彫りが見えたので。

きっと家康はお稽古途中だったのねー。

No title

こんばんは。

式内社、やはり格式が高いのね。
気になってる神社があって、ちょっと調べてみました。
佐久市郊外にある 「英多神社」
石柱にしっかりと 「式内社 英多神社」 と刻まれていて、こんなに鄙びた所でひっそりと建っているのに、って驚いたのよ。
でも、佐久の総鎮守と言われている 「新海三社神社」 の命令にも従わなかったというから、やはり式内社のプライドは高かったのね。
今は鄙だけど、昔は大事な場所だったんだろうか。
何だか記事と無関係なことばかり書いてゴメンナサイ。
でもお蔭様で、良い勉強になりました。
気候が良くなったら、またお詣りしてみようと思います。

No title

つねまるさん、おばんですばーい♪

「式内社」を勉強させて貰いましたので、西海道を調べてみたら、
国に数社ずつしかありません。
わが肥後国には阿蘇を中心に4社です。

神名帳の頁が落丁してしまったのではないでしょうか。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうですね。927年当時に鎮座していることと、当時の政権にとって重要なお社である事が神名帳に記載される条件のようなものですから、格式が高いといえると思います。

今は国道等からそれてしまった事でひなびたように見える場所でも、古には要所であったかもしれませんね。

>でも、佐久の総鎮守と言われている 「新海三社神社」 の命令にも従わなかったというから、やはり式内社のプライドは高かったのね。

ほほおー。何があったのかなー。後で調べてみよーっと。

万見仙千代様とお話させていただくようになってから、すごく「佐久」が気になるんですよー。

平賀源内のとこでも、佐久から来たのー!?って。

とてもありがたいことですわ。うふふふ。

今はとても寒いのでしょうねぇ。
一時の寒波を脱したら、こたつだけで過ごせてしまうので、想像もつきませぬ。

piglet01様

こんにちはですばーい。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

畿内でも、神名帳に記載されていないけれど、由緒が古く、今も残る神社は山ほどあります。
石清水八幡宮も、式外社ですしねー。びっくりぽんです。

ちょろっと書いたように、純粋な「神社の名前の羅列」ではなく、中臣氏寄りであり、政権にとって重要なお社である事が基準だったようですね。

延喜式の巻9と10がいわゆる「神名帳」ですが、原本は残っておらず写本です。

肥後国が延喜式制定時にどんな感じだったのか私にはわからないので、もや~んっとしておりますが。

上記のような選定者の「お好み」に合致しなかったのかもしれませんね。

なので、式外社でも格式高く由緒あるお社ってのは全国にたーんとあると思います。

そういえば、くまもんと「本能寺の変♪」のエグスプローションのコラボの動画、面白いですよね。うふふふふふふふ。
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Author:つねまる
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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