江戸幕府の諸社禰宜神主法度。吉田神道踏ん張る。白鳥神社(8)

こんにちは。


「家康様の遺言は、山王一実流神道だった」by天海@強引。

最終的に天海の主張が通り、家康は吉田神道の「大明神」ではなく、天海の山王一実流の神号「大権現」を与えられ、「東照大権現」として日光山へ祀られます。

天海に、吉田神道は負けました。



ぴーんち。

ここで、ちょっと振り返ると。


洛中洛外図の一部。

方広寺大仏殿と豊国社(豊国神社)、大仏殿の後ろに秀吉の慰霊を祭る豊国廟と参道。

豊国社の社務職は、吉田兼見の孫で養子の萩原兼従

豊国社が廃されプータローになった後は、吉田家後見人として学問面を支えます。

この萩原兼従の門下にいたのが、吉川惟足(これたり/1616~94)。


江戸日本橋の商家の養子だった吉川惟足は、36歳のときに鎌倉に隠居し、38歳で萩原兼従に入門。

兼従の信頼を得て吉田神道の道統の伝授を受けます。

当主が幼少のため吉田家への返伝授は出来なかったものの、吉田家の教説・秘伝が初めて同家の外へと開かれた転換点でした。

惟足は、吉田神道を継承しつつ、他方で朱子学を受け入れた『吉川神道』を確立。



家康が「東照大権現」という神様になったのですから、神道の奥義ってなに?っと大名達がこぞって学ぼうとするのは自然な事です。



吉田家が独占していた神道の教義理論が、この吉川惟足により外へ開かれた影響は大きく、彼のもとへ「教えて♪」と参じる大名達が出てきます。

尾張の徳川光友、水戸の徳川頼房、紀伊の徳川頼宣等が吉川惟足を迎えてお勉強する中で、特に心酔していったのが、山崎闇斎や会津藩主・保科正之。

ちなみに、この保科正之。
墓所は神式。隣接する土津(はにつ)神社に祭神「土津霊神」として祀られています。(会津藩主は2代目以外は神式)




天海に負けた上に、実は奥義伝授があやふやになってしまった吉田家。

吉川惟足の双肩に吉田神道の復活がかかります。

彼は、将軍後見役である保科正之に懇願。


決死のロビー活動(誇張)!


ここで復習。

① 吉田家は、天児屋命を受け継ぐ者で、神道の棟梁である。
② 吉田家は、「宗源宣旨(高い神格を示す称号や位階を授与・承認する文書)」「神道裁許状」「鎮札」を一手に付与する権限を有する。


寛文5年(1665)7月11日。

江戸幕府が法令を発布します。

それが、「諸社禰宜神主法度」(当時は「神社御条目」)

神社・神職統制のための法度です。

同日付で寺院・僧侶統制の寺院法度が出されています。
両者合わせて幕府の宗教統制策の根幹をなす法令です。


はいはい。はっ!と、ね。


「諸社禰宜神主法度」(「神社御条目」)

定め

一、諸社の禰宜・神主等、専ら神祇道を学び、その敬うところの神体、いよいよこれを存知すべし、有り来たりの神事・祭礼これを勤むべし、向後怠慢せしむるにおいては、神職を取り放つべきこと

社家は神祇道を学び神体を崇敬し、神事祭礼を勤めること


一、社家の位階、前々より伝奏をもって昇進を遂げる輩は、いよいよそのとおりたるべきこと

社家が位階を朝廷から受ける場合、執奏の公家が既に決まっている時はこれまで通りとする


一、無位の社人、白張を着すべし、その外の装束は、吉田の許状をもってこれを着すべし

位階を持っていない神職は、無地の真っ白な装束を着る事。
ただし、吉田家の許状(吉田家が出している神道裁許状)があれば白張以外の装束を着けることができる。


一、神領一切売買するべからざること、付けたり、質物に入れるべからざること

神領の売買・質入れは行ってはならない。 


一、神社小破の時、それ相応常々修理を加えるべきこと 付けたり、神社懈怠なく掃除申し付けるべきこと

神社は小破のときは修理を加えて維持する。お掃除はしっかり。


右の条々、堅くこれを守るべし、もし違犯の輩これ有るにおいては、科の軽重に随い沙汰すべきものなり。


他に禰宜神官巫および氏子の名簿登録などを定めています。


これは、吉田家が既に有していた「神位・位階授与、資産監督の権限」を幕府  管掌するようになった基本法。

諸宗寺院法度とコンセプトはほぼ同じ。


江戸幕府は、宗教者を管理する行政機構(寺社奉行)は設けても、教義を所管する専門部署を持ちません。

主要宗教である仏教や神道に対する教義上の介入は積極的に行わず、政治権威の執行を脅かさない限りは自由に任せたのです。(キリスト教や法華の不受不施派は除く)

国家護持のために宗教を活用しない江戸幕府にとっての「宗教」は、徳川家を含めて私事に過ぎず。

天皇の神聖権威を利用しつつ権力を維持した従来の武家政権と大きく異なる点です。



はい、なんでしょう。


吉田さんに聞いてね。あ、もう着てるのね。めっ。

と、このように何とか法度の中に吉田家の権威を組み入れることが出来ました。

なお、保科正之はじめ多くの大名が共感した吉川家は寺社奉行の神道方に任命されます。

さて。


讃岐の白鳥神社。

生駒氏改易後に讃岐高松藩主となった松平頼重。

寛文4年(1664)に白鳥神社の社殿を修築するにあたり、事前に実弟の光國に『日本書紀』資料を提供するなどの交流があった、京都の「吉田神社」の祀官「猪熊兼古」に、社殿の設計や運営を委託。

翌寛文5年(1665)。猪熊兼古を宮司として迎えます。



この、松平頼重が猪熊兼古を迎えた年こそ、吉田家が復権に向けて必死に働きかけ、「諸社禰宜神主法度」(「神社御条目」)発布にこぎつけた年。


白鳥神社の「神主屋敷」(猪熊邸)。

吉田神道の理念に基づく社作りを目指す松平頼重は、猪熊兼古を迎えるのに大名クラスの門構えを持つ屋敷を用意したのでした。

吉田神道の復権を目指す吉田家には、まさに渡りにフネ。

しかし。

出る杭は、打たれる。



そう。ぺったんぺったんぺった・・・ちゃうわっ。

つづく。


参考文献

『吉田神道の400年 神と葵の近世史』(井上智勝著/講談社/2013)

「吉田神社」(wikipedia/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田神社)

『梵舜日記(舜旧記)』国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1367086/6

『舜旧記』(鎌田純一・編/八木書店/1999)

「國學院大学伝統文化リサーチセンター資料館」(「近世における祓の展開」吉田神道と吉川神道)
http://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/oharai/t_04.html


いつも応援いただきありがとうございます。
やっと戻ってきました白鳥神社。猪熊邸を見たときに、吉田神道、すげー!っと思ったのですが、実は内部ではあたふたしていたんですねー。猪熊兼古もまた、こつこつと『日本書紀』等のお勉強に勤しむ人だったのかな。天海に負けた吉田神道ですが、幕府の定めた法度の文言に吉田家の名前を入れ込んだ事で改めて吉田家の権威を示すことができました。しかし、これまで黙っていた面々が立ち上がります。次回は、お狐さん、登場。

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No title

今も神職の方は上衣は白ですよね。
袴の色が位階(って神社も言うのかな?)を表すのかな。

吉田神道が勝ってたら
東照大権現でなく東照大明神だったかもしれないのか。

いろいろ奥深い話ですね。
このあと、どうなるんだろう。

ぽちぽちぽちーーー☆

No title

つねまるさん、こんばんは。

真打、保科正之様の登場ですね☆ パチパチ!

伊那市で、保科正之を大河ドラマにと運動されていたのを思い出します。
知名度は低いですけど、いいドラマの脚本が書けそうですけどね。
いや、史実が多く残っている人は、脚色しくいのかな。

最初と最後の狛さんは兄弟?
海系でしょうけど、ワルの顔をしていますね!

No title

おはようございます、kotodayoriです。

いつもお世話になっています。

東照宮が大権現になっているわけがわかりました。あまり不思議とは思っていませんでしたが、こうして裏話を知ると、俄然興味がわいてきます。(ありがとうございます)

歴史は面白いですね。

また、いろいろと教えてください。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。すみません、寝落ちました。

偉くなると袴に色が入ります。
確か紫地にこいーぃ白の紋が入った人が、上級だったかと。
でも、白の袴に白の紋が入る上等なものもあったりして。

北海道の西野神社さんのホムペが参考になります。
困ったときはここへ行ってます。

神主さんの階級はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/touch/20060317

この論争で、明治の神仏分離の時になぜ、大権現とか大明神がアウトだったか、ヒントになりますよね。

誰が推す神号なのか、ってことで。

押した本人がアウトになったから、大権現と大明神がアウトに。

あ。しまった。これ、次記事の内容だー。すみません。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。すみません、寝落ちました。

ふふふ。保科正之様です。

知名度の低さなら来年の直虎さんが勝るかと。
丹波が推す光秀よりは、好きなんですけどねー、二人とも。
そもそも、ファイヤーしまくった光秀をなぜ丹波が推すのか。
燃えてるのは亀岡と福知山ぐらいなのになー。

徳島や讃岐の狛犬さんは、んまー、百面相。
いい子がてんこ盛りもりでした。

最初と最後のは、兄弟ではないですが、いいかおしてますよね。

うふふふふ。

kotodayori様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうなんですよー。面白い話で。

ちょうど明日、方広寺の発掘調査の現地説明会がありますが、国立博物館の平成知新館付近までが大仏殿の敷地だったようです。

豊国廟の参道は、今は京都女子大などがあり見渡せないですが、元々はそのまままっすぐ西へ延びており、豊臣家滅亡までは豊国廟、豊国社、方広寺、東西本願寺が直線上に並びます。

家康が豊国社を廃した後、妙法院が新日吉神宮を豊国廟への参道の真ん中へ移してイケズします。

梵舜の日記に、神社に邪魔されて豊国廟へお参りにいけないよー(泣)と記してありまして。

また、妙法院南側の智積院は、元は秀吉の根来攻めで焼失した根来寺ゆかりのお寺。天敵。

この場所には、秀吉が子の鶴松のために建てた祥雲寺がありました。
関ヶ原後に家康が智積院をここで復興させ、祥雲寺はなくなります。

今見ることが出来る国宝などは、智積院のものではなく、元は祥雲寺のものですの。

季節がよくなりましたら、ぜひ。
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Author:つねまる
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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