天神地祇八百万神を祀る吉田神社の卜部氏。白鳥神社(その5)

こんにちは。


白鳥神社。

生駒騒動で藩主生駒氏が改易となり天領となった讃岐高松。

寛永19年(1642)。松平頼重(水戸藩主徳川光圀《水戸黄門》の同母兄。)が12万石で入封。

寛文4年(1664)に白鳥神社の社殿を修築。

事前に京都の「吉田神社」の祀官「猪熊兼古(本名・卜部兼古)」に、社殿の設計や運営を委託。

白鳥神社の東隣に屋敷を建て、宮司として迎えます。


おきつねちゃんの背後に見える土壁が


白鳥神社で代々宮司を勤める猪熊さんち。

まるで大名クラスの門構えです。すごいぞ、猪熊兼古。

で、誰?


くまじゃない。

猪熊兼古は、高松藩主・松平頼重の実弟の水戸光圀に「大日本史」編纂資料として、「日本書記」の資料を提供。

元は、奈良時代から亀卜を司る卜部(うらべ)家の直系。

亀卜とは、亀の甲羅を焼いたひび割れで吉凶を占うこと。


焼くのは、亀じゃない。


「京都の「吉田神社」の祀官「猪熊兼古」とは、誰ぞや?」ってことで、まず。


【吉田神社】

京都市左京区吉田神楽岡町に鎮座。京都大学の近くです。

貞観元年(859)。藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請。
藤原山蔭の系列から一条天皇を出した頃より、吉田神社は平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになります。

式外社ですが、永延元年(987)より朝廷の公祭に預かり、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列。

鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝。


応仁2年(1468)。応仁・文明の乱の兵火により焼失。



このとき、吉田兼倶(かねとも)は、神社の再建より先に、自宅にあった斎場所を吉田山に移します。いわく、

「この斎場所は、『日本最上神祇斎場』。
神武天皇が日向から東に進んで奈良の橿原に都した際、その近郊の鳥見の山に日本国中のすべての神様を斎き祭って以降、都の近郊に設置されてきたという神社の総本社なのである。」


日本国内のすべての神様がいる場所としたのが、こちら。


斎場所大元宮(wikipediaより)

中心には、八角形をした茅葺きの大元宮が設置され、天地開闢(かいびゃく)に伴って現れた諸法の根源である国常立尊(太元尊神)を祀り。

大元宮を囲むように左右に三千を超える日本全国の神様を祀ります。

斎場所の遷宮時、後土御門天皇より「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」の勅額を下賜され、「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」と讃えられます。

これを根拠に、吉田神社はあらゆる神様の分霊を分け与えていく力を持つことになったのです。


この時、お伊勢さんは?


文明18年(1486)。内宮の門前町宇治と外宮の門前町山田が争い、外宮が炎上し、外宮の御神体が、安否不明に。

朝廷は、神祇権大副(神祇官次官)吉田兼倶に御神体の安否を確認させようとしますが、外宮の神官たちは調査を拒絶。

そりゃそうだ。

これに対して朝廷は、御神体の安否が確認できないという理由で神官の位階昇進の願いを退け、祈祷の使いも送らなかったといいます。


まぁねぇ。
お伊勢さん、南朝側についていたので、弱体化していたこともあり。


吉田兼倶は、「1489年3月25日。激しい風雨の中、京都吉田山斎場所に目映い光とともに不思議な物体が落下した。
その年の秋10月4日には、今度は天から光が降り注いだ。光が消えた後には、やはり不思議な器物が多数残されていた。二度にわたる不思議な現象があった」
と、後土御門天皇に報告。


なんと、お伊勢さんのご神体は、京都吉田山斎場所へやって来た!というのです。



当然、伊勢神宮側は承服せず、吉田神社を「神敵」と見なします。
(これは後に吉田神道を論破し、ひっくり返します。)


かくして、吉田神社の「斎場所」は、伊勢神宮までも含む「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」を祀る場所となります。



やり手の吉田兼倶。

室町幕府と朝廷(特に後土御門天皇)に食い込み、全ての神様が集まる「斎場所大元宮」を擁し、吉田家は近世まで神道界に君臨することとなります。

この吉田兼倶が創始した(彼の中では創始ではなく、ずっとそうであった)ものが、「吉田神道」(唯一神道)。



ヒエラルヒー、だよ。


頭がいっぱいいっぱいなので、吉田さんちの繁栄は、

つづく。


参考文献
『吉田神道の400年 神と葵の近世史』(井上智勝著/講談社/2013)

「吉田神社」(wikipedia/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田神社)


いつも応援いただきありがとうございます。
「吉田神道」の名称ではありますが、「○×●神道」のような最近の新興宗教ではなく、論破されるまで少なくとも数百年はあったものだとお考え下さい。それにしても、白鳥神社から吉田神社にたどり着いてしまい、えらいもんに関わってしまったーってのが、本心です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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吉田神道( ゚д゚)

こんばんは~

ここだけの話(←大袈裟)
実は自分が連載(現在は休載^^;)してる相良氏が吉田神道と所縁があるんです

戦国期の相良氏と遣り取りしてたのは吉田家8代目卜部氏24代・兼右です。
もちろん吉田神道を広めるための活動の一環で、熊本は人吉・相良氏に接触した。

その影響で江戸中期には人吉の青井阿蘇神社が、吉田神道でした。
(時の大宮司が神仏習合してたのを吉田神道オンリーにした)
(近代以降は、大宮司家が血統絶えて断絶してるから判んない^^;)

・・・でした・・けど、【吉田神道そのもの】が理解できなくて自分のブログではパスしたヘタレですil||li _| ̄|○ il||l

ここで吉田神道が出るとはビックリ(@@)
でもって、ここまでまとめた つねまる様の勉強熱心さに感動です。

ぽちぽちぽちーーー☆

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

吉田神道は、必ずぶち当たりますし、吉田神社は面白いし。
まぁ、いっかー、です。
はじめは、「唯一神」の「道」と間違えてました。おほほ。
キリスト教じゃないってのねー。

時として捏造か?と思うものもありますが、代々、家の伝承や学問を探求していることは、偉いなぁと思います。

それまでの仏教にあって神道になかったものではないかと。

利家の奥さんのまつ、なんかも崇敬してますね。

領内の地鎮祭を南光坊ではなく吉田にさせろと利長に指示した文書もあります。(『壬子集録』「斉藤四郎左衛門覚書」)

秀吉だけでなく、家康との深いつながりも面白いところです。

吉田神道とは何ぞ!!って見るよりは、もう少しざっくり、神道全体を見たほうがいいかもしれないです。

結論からいえば、あまり影響を及ぼしたものではないので。
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