吉田家栄枯盛衰。神社商売と伊勢のリベンジ。白鳥神社(9)

こんにちは。

寛文5年(1665)7月11日。

江戸幕府、「諸社禰宜神主法度」(当時は「神社御条目」)発布。

「神主に対する絶対の裁量権」の保持を望む吉田家と、あらゆる神道を統一管理したい幕府。

神社・神職統制のための法度の中で、両者の魂胆が一致。


・・・はっと。


法度の発布よりはるか前。

朝廷の国家祭祀を担う機関「神祇官」において。

長官は、「神祇伯」で、白川家。
次官は、「神祇権大副」で、吉田家。

神祇官は、白川家と両頭体制によって運営。

ただし、吉田家のみ「神祇管領長上」(神道界の技能者の最高位)の肩書きを持ちます。

「天児屋命の妙業を唯一受け継ぐ吉田家は、神道の棟梁である」ので、
律令制度の序列に関係なく、神祇官の最上席を占めるのだ、という理論。


神祇官ヒエラルヒーの頂点は、吉田家。

なので。

江戸時代になっても。

下記の証状を一手に付与する権限を持ち、神社ビジネスを展開。


「宗源宣旨」《文明14年(1482)初出》

高い神格を示す称号や位階を授与・承認する文書。

天皇の綸旨と同じ薄墨紙を使用し、神代正印を押印。

特に、神様個人に与えられる位階「神階」のトップ「正一位」。
これをもらうと、荒ぶる神が穏やかになるってんで、おらが村の神社の神様にもー!っと望む人々に人気。

江戸時代中期、8両(約100万円)。
取り分は、吉田家に6両、斡旋者に2両。


「神道裁許状」《大永7年(1527)初出》

村の人々が禁忌を破ることを、神様が許可する書状。

農村の神社には、それぞれ神様の御嫌物があります。
鳥、馬、蕎麦、胡麻、茗荷、胡瓜、麻、黍、牛蒡など。

具体的にはこんなお願い。

「この地には、ゴマを作るべからずという禁忌(御嫌物)がありますが、高く売れるので作りたいです。」

これを神様が許可する書状の発行を吉田家が行います。

農業の発達によりこれは増大。

享保元年(1716)125件、享保3年130件、享保4年118件。
元禄期から比べ、なんと10倍に。


「鎮札」《天文2年(1533)初出》

祟る神様を押さえ鎮める効果を持つ御札のような書状。


古代の神社は、天下国家の泰平や豊穣を祈ることが第一義で、個人の祈願を込めるだけの神社は「淫祠」として否定されていたのに、劇的な変化です。

神社ビジネスです。

これは、大成功。


出る杭はー?



そう。ぺったんぺったんされる。

平安朝以来の名家が次々に反旗を翻します。



まず、お伊勢さん。

かつて、伊勢神宮外宮が焼失したとき。

吉田兼倶は、後土御門天皇に報告。

「1489年3月25日。京都吉田山斎場所に目映い光と共に、なんか落ちた。
10月4日には、天から射した光が消えたら、変なもんがいっぱいあった。伊勢神宮のご神体です!」


伊勢神宮のご神体が自らの「京都吉田山斎場所」へ移ったとした吉田兼倶は、伊勢神宮の「神敵」に。


伊勢外宮の権禰宜、出口延佳は『神敵吉田兼倶計記』を漢文で執筆。

その子延経は1698-1712頃までの問答を『弁卜抄』と題する書物に。
この書物は、信頼できる文献に基づいて論証されたもの。


元文4年(1739)。名古屋東照宮の祠官・吉見幸和は、一般の人にも分かるように仮名交じり文に置き換え『増益弁卜抄俗解』を公表。


・吉田家は天児屋命とは無関係。吉田家の系図は捏造。
・吉田家の元は亀の甲羅を灼いて占いを行う神祇官の下級技術吏員である。
・吉田家やその祖先が神祇伯に就任したことは、過去に一度もない。
・「神祇管領長上」の職は、吉田家の創作である。
・吉田家が活動根拠とする綸旨・院宣類はニセモノである。
・斎場所の由緒はウソである。
・宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない。



なぜ尾張名古屋かといえば、初代藩主・徳川義直が学問好き。
「古典考証」学派による研究が盛んでした。

豊富な資料を持ち出したこの反論。


みんなが広める広める広める・・・。


これに対し吉田家は、根拠となる歴代天皇の宣旨等を示しません(示せません?)。

吉田家の正当性の根拠が崩れ去ってしまいました。

トドメ。

1743年。桜町天皇は、吉田家による「宗源宣旨」を廃止。

神位取得権は朝廷に移り、書式も延喜式の文書様式を採用。
公家が連署した上に「天皇御璽」印を捺印した巻物仕立ての物に。

ちなみに、文化13年(1816)の位階費は、8両から75両(約940万円)にまで高騰。




このようにして、吉田家の威光にかげりが見え始めます。



神道界とはいえ、吉田家のタガがゆるむとどうなるか。

一例。



全国に約3万社あるといわれる稲荷神社。

他の神社と違うのは、



「正一位」の神階を持つ稲荷神社が圧倒的多数。



伏見稲荷では、天慶5年(942)に稲荷神が「正一位」を授与されています。

通常「神階」は、神様本人だけに与えられる位。
分祀の際には、神階は引き継がれず、神階を引き継ぐ場合には勅許が必要でした。


でも、ほら。律令制は崩壊しているし、吉田家のタガが外れてますから、神主達は抜け道ビジネス。


分祀先の各地の稲荷神社への勧請に際して、本社(伏見稲荷)が同位の神階「正一位」を授位します。

よって、「正一位稲荷大明神」という尊称が一般化。



「正一位」といえば稲荷神社、になったのでした。


吉田家に出来ることは限定されましたが、それでも神社・神職統制のための法度の中での吉田家の威光は衰えず、幕末・明治維新を迎えます。


ね。

さあ、明治。神道による祭政一致を柱とする新政府ですから、さぞかしー!?


吉田神道は教説の中に、密教や道教をとり入れていました。

従って、明治維新の神仏分離政策によって吉田神道は廃止



吉田神道の最高位の神号「大明神」を冠した神社は、「神社」へと改称。

吉田神社は国学神道(復古神道)の流れに統合され、本来の吉田神道の拠点としての色を薄めてしまうのでした。


次回は白鳥神社。

吉田神道、おしまい。


参考文献

『吉田神道の400年 神と葵の近世史』(井上智勝著/講談社/2013)

「吉田神社」(wikipedia/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田神社)

「國學院大学伝統文化リサーチセンター資料館」(「近世における祓の展開」吉田神道と吉川神道)
http://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/oharai/t_04.html

神社新報 『神道いろは』(平成十四年二月十一日/第二六三五号)


いつも応援いただきありがとうございます。
長くなりましたが、吉田神道と吉田家のお話はこれでおしまい。吉田神道というと、何故か変な邪教のように扱う向きもあるようですが、それはどうなんでしょう?吉田家自身の詐称の部分もありますが、明治政府の神仏分離政策により廃止となる際に「変な教義なんだよー」っと流布されたような気がします。さーて。白鳥神社の鶴さんやでっかい狛犬さんにまた戻りまーす。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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非公開コメント

No title

誰が悪いという訳でなく、
「ビジネス」として展開しちゃうと、色々混ざるのは仕方ない流れだと思う。
こういう言い方は何だけど「売りやすく」するには「判りやすく・大衆に受けやすく」しなきゃならないから。

それにしても高額強気商法だ^^;

「はっと」して・・・と聞くと、ついつい
「ぐっときて、パッと目覚める」まで呟いてしまう(。-`ω-)ンー

ぽちぽちぽちーーー☆

No title

こんばんは。

吉田さん、ちょっといい気になったんだと思うけど、吉田神道のお蔭で、神道自体が生き延びられたんじゃないかしらね。
そうでないと、仏教に席巻されていたかも。
神道贔屓の私、お稲荷さんは正一位で良いじゃない。
これだけ、民衆の崇敬を浴びてることだし。
お詣りすれば、全て上手くいくような気がするし。
信仰ってそれが大事だよね。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

公家の方でしょうか。価格高騰に拍車をかけたのは。
結局、彼等が憎かったのは金づるを独占したような形になった吉田家で、教義も何もあったもんじゃないですね。

僧侶から民衆に近寄っていった仏教に遅れること数百年。
ようやく大衆に目が行ったのかな。

鎮める、って発想は御霊信仰が根底にありますが、これは悔しい思いを抱いて亡くなった高貴な人が神として祀られたものに限っていたはず。

それをあちこちの神様に援用した点が面白いです。

お姉さまも、古いですねぇ。パッと目覚めちゃいますぅ?

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

おっしゃる通り、吉田家が数百年に渡って統制力を保持したことと神道に『日本書紀』を元にした教義を確立したことで、神道自体が生き延びることが出来たと思います。

仏教にあって神道にないもの。
それが、小難しい教義理論。

日本へ伝来した時点で既に異国で教義が仕上がっていた仏教。
日本古来のものでありながら、神社の由緒と神話に頼るしかなかった神道。

へりくつこねる仏教に押されたのは、理論武装だったと思います。

その点で、吉田家のもたらしたものは大きいかと。
記事でも書きましたが、今はあくまで明治新政府が伝統も何も破壊して作り上げた国家神道が主流です。

仏教、道教を取り入れた吉田神道を異端として廃したため、悪く言うようになったのではないかしら。邪教やから呪い殺す事もした!とか、もはやオカルトです。

よく言う、歴史は勝者が作るもの、です。

彼等が存在した意義をもっと冷静に解釈したら、すっきりする事が多いのになー。

さて。お稲荷さん。

小さい頃から神社の境内には必ずお稲荷さんがいるもんだと思ってました。
それほど数は多いですね。

江戸時代には、キツネの巣があれば、「お稲荷さんが来た!お祀りしなくちゃ!」と伏見稲荷に分祀の依頼が殺到。

だからー、稲荷神はキツネじゃなくて、キツネは神の使いやからそれは違うよ、っといちいち説明するのも伏見稲荷さんは面倒になったようで。

ほほえましいお話です。

正一位の授与については、伏見稲荷のHPで見解が書かれています。
くす、って微笑んでしまいましたのよ。
稲荷神社といえば、皆さんいなり寿司をお供えしますが、それはね、あのね、と、あたふたしてます。

なんか、いいです。好きだなぁ。

歴史好きな人が陥りがちなのですが、統治や勢力拡大のためだけの将棋の駒のように神道や仏教を含む宗教をとらえる事は苦手です。

能楽の文言は神も仏もいっしょくたになっているので解釈が難しいです。仏の功徳を説いていたのに、いつのまにか神様の話になっていたり。

でもそれが、わざわざ注釈を付けなくても当時の人々には伝わっていたのですよね。

一歩引いて視野を広くしないと、いかんです。

十津川では、神や仏に対する信仰よりも強かったのは、朝廷に対する崇敬だったのではないかしら。

明治新政府が、十津川の人々が一番大切にしている朝廷の名を借りたにせよ、これからは神仏分離をするよ、神道をよろしくね、と言ったから、した。

それだけのことに過ぎないのに、何で村の中に近年までお寺がなかったことを他の土地の人間がとやかく言うのか。

「わけわからんしぃ~」かな?


その土地にはその土地の人間が積み重ねてきたものがあり、よそ者が自分の基準で決めつけるのは絶対に違う。

何度も何度も十津川を訪れて、土地の人とお話しして、私なりに得た結論です。

長くなってしまって申し訳ありません。
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Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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