三井寺の三重塔の故郷を訪ねてみた。世尊寺(その1)

べんべんが広報担当僧のお寺は~

三井寺。ぼーん。

文禄4年(1595)年11月。もんきー・秀吉の「闕所(けっしょ=寺領没収)」の命により、クラッシュ&リセットされた三井寺。
再建された素晴らしい建物が並びます。

仁王門。
慶長6(1601)年、徳川家康により甲賀の常楽寺から移築・寄進。

真っ先に北政所によって再建された国宝・金堂。

一切経蔵。重文。

慶長7年(1602年)、毛利輝元により、山口県の国清寺から移築。

敷居が高い場所にそびえるのは

三重塔。重文。室町時代。
文禄3年(1597)。大和比曽寺の東塔を、豊臣秀吉が伏見城下に移築。
慶長6年(1601)。それを、徳川家康が伏見より三井寺へ移築。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。
軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。(三井寺HPより引用)
ふむ。
こんな素晴らしい三重塔があったお寺とは、どんなところぞ~?
ってことで。

ふっふっふ。

やって参りました、世尊寺(比曽寺)へ。
私はお尻が軽いの。ふふ。

山門の左甚五郎作と伝わるお猿さん。

山門の額。

山門から中門まで遠いとぉい。

この広い場所の東西に塔が建っていたのですわ。

ほら、これよこれ。これがここにー!!
嗚呼、来て良かった~(*^^*)
正直、現在はほんとに静かな静かな里。
どうしてここに素晴らしい寺院があったのだろうと思うような所です。

ね。

右側に鎮守のお社。

ごめんよー。
まずは、全体像を見なくっちゃ~(*^^*)

中門から本堂までも、まーっすぐ。

本堂と太子堂。
創建は飛鳥時代。

反対側に、庫裡と鐘楼。
それぞれの建物は回廊で結ばれています。

配置図。目を凝らしてご覧ください。

金堂の礎石が8つ残ります。

鐘楼。

中門から振り返ると、正面直線上に山門。

東西の塔跡がはっきり残ります。

西塔跡に残る礎石。

そしてこちらが、現在の三井寺の三重塔である東塔跡。
西塔と比べ、礎石の作りが違います。精巧。

三井寺の三重塔、一辺の柱が4本ずつ。

礎石の並びは、一辺が4つずつ。
ふむ。
数は合う。
合うけど、この間隔だとカニさん歩きしないと内部へは入れなさそう。
並べ直したのかなぁ?これで正解なのかなぁ?
真ん中の穴の開いたものが、中心の柱の礎石。

測ってみた。
ただし、センチで測ると、変な数字になります。

三井寺の三重塔の故郷、世尊寺編、スタートです。
つづく。
世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762
※世尊寺は明日香村の南にあたり、また、世尊寺から南へ下ると吉野川や吉野山。
この位置関係がポイントで。
古代から中世にかけて盛んに行われた、壷阪寺から世尊寺(比曽寺)を経て吉野山の金峯山寺へ詣でる「吉野詣」の古道に位置しています。
いつも応援いただきありがとうございます。三井寺は歴史ある素敵なお寺ですが、こちらはまたさらに往時の面影をあちこちに残す素朴で素晴らしいお寺でした。秀吉、よくぞ見つけた。さすが鵜の目鷹の目お猿の目。伏見や三井寺へ引っ越しさせられた東塔の礎石の大きさを測りながらいろいろな方向からしげしげと眺めて、今はもうここにはないけれど、当時の姿や塔の大きさを想像して、幸せなことこの上ないのでした~(*^^*)ウフフフ



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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