エルトゥールル号遭難事件(その2)紀伊大島の人々の心意気

こんにちは。


和歌山県串本町の紀伊大島。


紀伊大島の熊野灘側の海金剛。

台風に伴う暴風雨により、航行不能に陥ったトルコ(オスマン帝国)のエルトゥールル号。

明治23年(1890)9月16日21時過ぎ。


数百年来、船の難所と言われてきた船甲羅(ふなごうら)岩礁群で、座礁。


座礁と共に水蒸気爆発を起こしたエルトゥールル号。


22時半、沈没。


座礁地点は幸いにも紀伊大島の海岸に近く。


海に放り出された生存者は、何とか樫野崎灯台下の海岸へ上陸。


断崖絶壁が連なる中、この辺りは比較的低く。

それでも40m。

生存者はこの崖をよじ登り、樫野崎灯台の灯台守に助けを求めます。


樫野崎灯台は、1870年7月に初点灯。

日本初の石造灯台であり、日本初の回転式閃光灯台。


【紀伊大島・樫野の村の人々は】

灯台守は生存者から得た情報を、紀伊大島の住民へ連絡。

知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけ、危険を顧みず岩礁から生存者を救出し始めます。


橋杭岩越しに見える紀伊大島。


当時は3村から成る約400戸の島でした。

樫野崎灯台付近の樫野は、折からの台風の影響で漁に出られない上に、普段から食料の蓄えもわずかな寒村。

しかし、島民たちは非常用食料を供出し、不眠不休で生存者の救護に努め、必死に殉職者の遺体捜索や引き揚げ作業を行います。

「彼等の冷え切った体を抱いて温める」など、容易に出来ることではありません。

幸いにも紀伊大島には、島ながら医師が常駐。
川口三十郎、伊達一郎、松下秀の3名の医師が負傷者の治療にあたります。

多数の船が航行する紀伊大島には、往時は男性が遊ぶ所もあったので、医師が常駐していた事情もあるようで。(串本町トルコ記念館)

何にせよ、医師が3名でもいたことは、幸いでした。



沈没当日、16日夜から数日間は治療に没頭。
18日。負傷者を大島村の蓮生寺に移し、同寺院を仮病院に。
19日。ようやく簡単な診断書を作成。

また、樫野の人々は負傷者の看護の一方で、漂流物の回収も行っています。

遺留品は和歌山県庁から厳重に回収・保管するよう指示があり、最終的に外務省からオスマン帝国へ返還されました。


【生存者と死亡者】

エルトゥールル号は、司令官オスマン・パシャ海軍少将以下、乗組員650余名。

生存者69名は、樫野の寺、学校、灯台に収容。
そのうち53名は激浪に揉まれ、岩角で負傷。

残る587名は、死亡または行方不明。



事故の概要は紀伊大島に寄港させた船舶より伝わり、
神戸港に停泊中のドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行。

20日。生存者は神戸港へ搬送、病院に収容。

大日本帝国政府(当時)に連絡が入ると、明治天皇は、政府に対し可能な限りの援助を行うよう指示。

明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13人を神戸へ派遣。

日本赤十字は神戸港に着いた生存者を介抱します。
言葉が通じず、苦心した記録もあります。

が。

神戸での治療よりも、沈没地点である紀伊大島の初期対応の方が遥かに大変であった事は、言わずともわかることですね。


《トルコ(オスマン帝国)へ帰る》

神戸で治療を受けた生存者は10月初めに、日本海軍の軍艦「比叡」「金剛」で、帰国の途に就きます。


「比叡」(wikipediaより)


「金剛」(wikipediaより)

2隻には秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船。

10月初めに神戸港を出た「比叡」「金剛」は、翌年1月。
イスタンブルへ入港。
トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎をしたそうです。


・・・大歓迎されるべきは、紀伊大島の人々だな。
日本海軍、送ってっただけぇー。


《紀伊大島に残るもの》

エルトゥールル号沈没後、紀伊大島樫野では、夥しい数の遺体が海に浮かび、海岸に打ち上げられていたといいます。

引き上げられた遺体は、救出され一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に埋葬されたと伝えられています。

痛ましい事故の翌明治24年3月。
和歌山県知事はじめ、有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。


現在の慰霊碑。

昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立する事を決定。

和歌山県が委託を受け、現在のような立派な弔魂碑に改修。

エルトゥールル号遭難現場を見下ろす高台。



殉難乗組員の共同墓地が整備され、慰霊碑が建立されています。


《紀伊大島の3人の医師》

治療を行った紀伊大島の医師、川口三十郎、伊達一郎、松下秀の3人。

トルコ政府から治療費の精算書の要請を受けた和歌山県の書記官に宛てた連名の手紙が、近年、地元のお寺で発見されました。

彼等は何を伝えたかったのか。

少し長くなりますが、漢文調の手紙を読みやすくしたものを引用します。


「謹んで秋山書記官に申し上げます。
トルコ軍艦エルドグロウ号は、本月16日夜に航海の途中、暴風雨に遭遇して紀伊国大島村樫野近海で座礁、沈没。乗組員600余名のうち助かった者は僅かに60余名で、その悲惨な状況は言葉で表現出来ないほどでした。その助かったも、翌17日に樫野に何とか上陸できたものの、激浪に揉まれ、岩角で負傷した者は53名にのぼりました。

村役場から連絡を受けた私たちは、すぐ現場に急行し、負傷者には適当な治療を施し、力の及ぶ限り、救済に努めましたが、非常時の慌しさで、どの人にどのような治療を施し、どんな薬を投与したか、一々記録することは出来ませんでした。

しかし、後日、その筋の尋問に応じなければならない場合を考え、18日に負傷者を大島村の蓮生寺に移し、同寺院を仮病院として調剤所を設け、昼夜、診療と投薬を怠らぬ間にも正確な薬品等の員数を点検し、19日にようやく簡単な診断書を作成することが出来ました。快癒した負傷者も多く、20日午後、全員が、ドイツの軍艦に便乗して、離島しました。

21日、日本の軍艦、八重山も遭難者救助のために大島港に碇泊しましたが、その際、前記の53名の診断書は、八重山艦長からの請求により、お渡ししました。

なお、本日、閣下より、薬価及び治療代の精算書を作成して届けよ、との通牒を大島村役場を通じて拝受しましたが、私たちは元々それを請求する気持ちはなく、ただ痛ましい遭難者を心から気の毒に思い、ひたすら救助一途の人道主義的精神の発露に過ぎず、薬価及び治療代は、義捐致したく存じますので、どうかこの段、よろしくお取り計らい下さいますようお願い致します。

明治23年9月22日 
和歌山県東牟婁郡大島村 医師 川口三十郎、伊達一郎、松下秀」

(和歌山社会経済研究所『【編集後記】串本町・エルトゥールル号遭難者救助――心打たれる3医師の手紙』より引用)
http://www.wsk.or.jp/book/57/ps.html


初めから薬価治療費を請求する考えはなく、ただ負傷者を助けたい一心で従事したことであるので、全額遭難者へ寄付したい、と伝えています。

この手紙を見てどう思いますか。



エルトゥールル号遭難事件その後、つづく。


参考文献

『原点のまち串本 トルコ日本友好』・『南紀串本』(串本町役場製作・発行)

串本町トルコ記念館/展示説明・配布パンフレット

参考サイト

リンク→→→和歌山社会経済研究所【編集後記】串本町・エルトゥールル号遭難者救助――心打たれる3医師の手紙
http://www.wsk.or.jp/book/57/ps.html

「エルトゥールル号遭難事件」wikipedia

「yahoo!ニュース」2015.9.25記事


いつも応援いただきありがとうございます。エルトゥールル号遭難事件。海岸に近くても生存者が十分の1であったことは、水蒸気爆発を起こしたことが致命的。しかし、暴風雨の中で、自分の命すら危うい中での救助活動は、ひとえに島民の無私の想いに尽きると思います。私、見ず知らずの人を体で温めるなんて、無理っ。しかも見たこともない異国の人ですもの。自分のご飯すら出さないと思いますの。もし、3人の医師がトルコ側の請求通りに金銭を要求していたら、何の後日談も残らない話で終わっていた事でしょう。
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No title

こんにちは~♪
トルコの人々が一番親日的だというのはこの遭難事故の感謝の念を今も持ち続けているからですねー。
明治までの日本人は尊敬される日本人だったのに、いまはそれを台無しにしようとしてますね(--〆)

まり姫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

お?どうされました、まり姫様?
皮肉なコメントが来るかとドキドキしておりましたが、やはり優しいコメントの方が嬉しいです。

明治までの尊敬される日本人ってのは、どこへ行ったんでしょうね。
首相からして心配ですが、せめて自分達は昔の日本人気質ってものを忘れたくはありませんね。

それと同時に、感謝する心ってのも、保ち続けたいものですわ。

No title

読んでいるだけで、胸が迫るというか。
これで映画を観たら、上を向いて涙を堪えるのに必死になるのは絶対だわ。
まり姫さまの仰る通り、このころの日本人は高潔だったんだと感じました。
現地の人の素晴らしさはもちろん、当時の政府も立派な態度だわ。
本当に・・・・今とは大違い。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

はい~。涙腺が崩壊して涙が出てきて鼻水ずるずるでしたの。

見ながら、なんで今の日本はこんなんになっちゃったのかしら、と悔しくもあり。

現代ならSNSにアップしようとパシャパシャと撮影する無神経な野次馬が大勢いそうで、嫌ですわ。

杉原千畝しかり、この頃の日本人は格別高潔な精神を持っていたのですよね。どこへ行っちゃったのかなぁ。

エルトゥールル号は国賓だったので、対応が早かったと思います。
それを差し引いても現在の政府とは違いますね。

海軍はトルコからの支払いの申し出を受けるより前に、紀伊大島の医師達に費用を請求するよう促しており、現場との温度差が少なからずあるように感じました。

医師達は内心、お前何言ってんねん、と思ったのではなかろうかと。

こんばんは

エルトゥールル号遭難事件について、学校で習った覚えがないです。
今はどうなのかな?
これは詳しく歴史の時間に取り上げて欲しい事件ですよね。

No title

おはようございます、kotodayoriです。

エルトゥールル号遭難事件については、おぼろげに知ってはいましたが、時代背景や、後日談までは全く知りませんでした。

紀伊大島・樫野の村の方々は、目の前の座礁した船の乗組員を一人でも救おうと必死だったのですね、何か今の我々日本人が失ったものを持っておられたのですね。

考えさせられました。

また、よろしくお願いいたします。

しずか様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

私もノルマントン号は習ってもエルトゥールル号遭難事件は習った覚えがないです。
検索していたら、最近は小学校高学年の読書感想文コンクールの課題図書になったり、一部の教科書に記載されているようです。

自国に誇りを持てるような授業になるといいですね。

kotodayori様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

エルトゥールル号遭難事件、串本町へ行くまでは私もただ単に沈没した船を助けた美談程度にしか存じませんでした。

前フリのように起きていたノルマントン号事件の方が学校で習うので有名ですが、エルトゥールル号遭難事件にももっと着目すべきかと思いました。

紀伊大島・樫野の人々がノルマントン号事件を知っていたかはわかりませんが、目の前に繰り広げられる悲惨な状況に必死で救助し誠意を尽くしたことは、やはり今の日本人とは根本的に何かが違う気がします。

どうしちゃったのかなぁ、私たち。

kotodayori様のような人生の大先輩を前に拙い記事でお恥ずかしいですが、旅先で知る様々な事実はいろいろと考えさせられることも多いですね。

こちらこそ、またいろいろとお話させていただければ幸甚に存じます。
ありがとうございました。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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