『松前詰合日記』の発見と津軽藩士殉難事件の発端
こんにちは。

宗谷より斜里場所の警護のために移動した津軽藩士105名。
文化4年(1807)7月より翌6月まで駐留。
その間の死者、実に72名。
幕命により斜里場所警備に就いた津軽藩。
この多数の死者を出した件は、藩にとって「恥ずかしい事」だったのか、長くこの案件は秘されておりました。
ところが、昭和29年(1954)。
北大教授の高倉新一郎が偶然、東京の古本屋で一冊の日記を発見します。
その名前は、『松前詰合日記』。
記したのは、斉藤勝利。
当時22歳、禄高16石の諸手足軽(鉄砲隊隊員)の津軽藩の下級武士。
斜里場所へ赴任した津軽藩士の生き残りです。
※現・北大図書館蔵。
日記の原本を見ることが出来ます。
北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0A030250000000000
『松前詰合日記』の表紙。
「此一冊は 他見無用
松前詰合日記
永く子孫江と伝」
日記には、弘前から斜里までの往復と現地での詰合(警備)活動が詳細に記されています。
《業務的な記録》
管理職名での武芸稽古の通知、薪作りの指示、蝦夷人家屋の戸数、村落間の距離など。
《現地で起きたこと》
厳寒の地での苦労と悲惨な浮腫病の状況。
特に、死亡した隊員(武士だけでなく町大工、鳶、郷夫など全員)の個人名と死亡日を一人ずつ記録。
これは、論功行賞や死亡者家族への対応等事後に予想される様々な事態に備えるのに必要な事項。
個人的な日記というより「派遣中の公式記録」ですね。
昭和29年(1954)の発見までこの日記の存在すら知られていなかった原因は、詳細過ぎる内容によるもののようです。
表紙の「此一冊は 他見無用 永く子孫江と伝」の文字の意味。
重いものだと思います。
この日記の発見によりもうひとつ明らかとなったものがあります。
日記発見の前年である昭和28年(1953)。
斜里町内の曹洞宗禅龍寺で「シャリ場所死亡人控」が発見されました。
照合すると、『松前詰合日記』と人名が一致。
事件の直後に作成された「津軽藩士死没者過去帳」だと判明します。
この過去帳は、和紙二つ折り7枚綴。
内容は、戒名・俗名併記の津軽藩士70人、同松前藩士1人、同シャリ場所従事者4人、俗名のみの藤野家2人。

※斜里町立知床博物館で複製を展示。
【『松前詰合日記』より】
《おうちを建てた》(『松前詰合日記』より抜粋)
7月29日に斜里へ一番隊が到着。
警備兵は漁場にあった三間、九間の魚小屋を仮の宿舎にして番屋を設置。
8月11日までに二番隊、三番隊も到着。
仮陣屋を建てる為、8月7日から準備。
上長屋は、三間に十二間。用材は松前で切組んだものを運び建てた。
屋根も松前から柾を持ってきて葺いた。
中長屋は、三間に十間。上長屋と同じように松前から持ってきた柾屋根であるが、用材は斜里で伐り出したトドマツ材(生木)を用い、土台石は朱円付近から持ってきた。
下長屋は、三間に十間。用材は山から伐り出した生木。
屋根は萱葺き。
他にも武器や食糧など、国元から送られてきた運送品を入れる倉庫。
更に剣道の稽古場一ヶ所。
これらは下長屋と同じ構造。
11月中頃までには引越しも終わり越冬の用意は出来た。
上中下の長屋は身分別ではなく、一番隊、二番隊、三番隊の別に入居。
松前で用意した上長屋以外は現地で調達した生木を利用。
初めての僻地での越冬ということもあり、津軽藩の医者も同行。
それがなぜ、74名もの死者を出したのか。
原因のひとつに、宿舎とした長屋の場所と構造。
①斜里陣屋を建てた場所
斜里の陣屋(長屋)はオホーツク海に面した海辺の砂地に建設。
ロシア船監視のためには適した位置ですが、流氷を運ぶ北東風を直接受ける場所です。
田沼意次時代に蝦夷地を探検し冬の厳しさを熟知していたであろう「公儀御役人調役下役最上徳内殿」が斜里にいながら、ロシア船監視の任務の為には致し方なかった事なのか、とても残念な事です。
②構造材に生木を利用
木材が乾燥していくと縮み、すきま風が入ります。
また、薪を斜里で調達しています。
乾燥していない生木を燃やすと、大量の煙が発生。
津軽藩士の多くがまず、目を病みました。
《お薬がきた》(『松前詰合日記』より抜粋)
10月26日。松前表から御飛脚が参着。
公儀から医学館製の「加味平胃散」という薬を一人につき5袋ずつ下し置かれ、そのほか詰合御人数一同に重い御口達書をもって、御酒一升・御肴料37文、計167文を、一人ずつに下賜された。
1.山嵐不正の気を除く
1.脾胃を調ふ
1.水土を伏せずして泄吐するによし
(新しい環境で水が合わず嘔吐した時に効く)
お薬上包みの効能書きにはこのように書かれていた。
よって上役のところへ参りお礼を申し上げた。
この加味平胃散。
ネットで調べると今でも漢方薬として販売されています。
松浦漢方株式会社「加味平胃散」
http://www.matsuura-kp.co.jp/product/67_12h.html

「製品の紹介」(松浦漢方株式会社HPより)
O-67 加味平胃散エキス〔細粒〕 12包
本方は、平胃散に神麹、麦芽、山査子を加えたもので、胃がもたれるタイプの人の食欲不振、消化不良などに奏効する胃の薬です。
「効能・効果」
体力中等度で、胃がもたれて食欲がなく、ときに胸やけがあるものの次の諸症。
急・慢性胃炎、食欲不振、消化不良、胃腸虚弱、腹部膨満感
《海に氷の山が出来たー(T_T)》

9月のオホーツク海は、のほほん。
が。

日記でいう11月中旬は現在の12月中旬。
オホーツク海に流氷が到達。
流氷見学を観光化した現在では、オホーツク海にいつ流氷が着岸するかどうかで毎年やきもきしています。
早くて12月下旬。
1807年の頃は、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間(小氷河時代、ミニ氷河期ともいう)にあり、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述しているそうです。(wikipedia「小氷期」より)
日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制の崩壊の一因となりました。
斜里での津軽藩士の事態は悪化の一途を辿ります。
つづく。
参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)
斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/
サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html
いつも応援いただきありがとうございます。厳寒のオホーツク海の海辺に住むなんて、まるで自殺行為のような気がします。お役目に忠実であった結果なのでしょうか。公儀から届いたお薬、微妙です。結果を知る身から見ると、ありがたいけどそこじゃない、感じ。ひそひそ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

宗谷より斜里場所の警護のために移動した津軽藩士105名。
文化4年(1807)7月より翌6月まで駐留。
その間の死者、実に72名。
幕命により斜里場所警備に就いた津軽藩。
この多数の死者を出した件は、藩にとって「恥ずかしい事」だったのか、長くこの案件は秘されておりました。
ところが、昭和29年(1954)。
北大教授の高倉新一郎が偶然、東京の古本屋で一冊の日記を発見します。
その名前は、『松前詰合日記』。
記したのは、斉藤勝利。
当時22歳、禄高16石の諸手足軽(鉄砲隊隊員)の津軽藩の下級武士。
斜里場所へ赴任した津軽藩士の生き残りです。
※現・北大図書館蔵。
日記の原本を見ることが出来ます。
北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0A030250000000000
『松前詰合日記』の表紙。
「此一冊は 他見無用
松前詰合日記
永く子孫江と伝」
日記には、弘前から斜里までの往復と現地での詰合(警備)活動が詳細に記されています。
《業務的な記録》
管理職名での武芸稽古の通知、薪作りの指示、蝦夷人家屋の戸数、村落間の距離など。
《現地で起きたこと》
厳寒の地での苦労と悲惨な浮腫病の状況。
特に、死亡した隊員(武士だけでなく町大工、鳶、郷夫など全員)の個人名と死亡日を一人ずつ記録。
これは、論功行賞や死亡者家族への対応等事後に予想される様々な事態に備えるのに必要な事項。
個人的な日記というより「派遣中の公式記録」ですね。
昭和29年(1954)の発見までこの日記の存在すら知られていなかった原因は、詳細過ぎる内容によるもののようです。
表紙の「此一冊は 他見無用 永く子孫江と伝」の文字の意味。
重いものだと思います。
この日記の発見によりもうひとつ明らかとなったものがあります。
日記発見の前年である昭和28年(1953)。
斜里町内の曹洞宗禅龍寺で「シャリ場所死亡人控」が発見されました。
照合すると、『松前詰合日記』と人名が一致。
事件の直後に作成された「津軽藩士死没者過去帳」だと判明します。
この過去帳は、和紙二つ折り7枚綴。
内容は、戒名・俗名併記の津軽藩士70人、同松前藩士1人、同シャリ場所従事者4人、俗名のみの藤野家2人。

※斜里町立知床博物館で複製を展示。
【『松前詰合日記』より】
《おうちを建てた》(『松前詰合日記』より抜粋)
7月29日に斜里へ一番隊が到着。
警備兵は漁場にあった三間、九間の魚小屋を仮の宿舎にして番屋を設置。
8月11日までに二番隊、三番隊も到着。
仮陣屋を建てる為、8月7日から準備。
上長屋は、三間に十二間。用材は松前で切組んだものを運び建てた。
屋根も松前から柾を持ってきて葺いた。
中長屋は、三間に十間。上長屋と同じように松前から持ってきた柾屋根であるが、用材は斜里で伐り出したトドマツ材(生木)を用い、土台石は朱円付近から持ってきた。
下長屋は、三間に十間。用材は山から伐り出した生木。
屋根は萱葺き。
他にも武器や食糧など、国元から送られてきた運送品を入れる倉庫。
更に剣道の稽古場一ヶ所。
これらは下長屋と同じ構造。
11月中頃までには引越しも終わり越冬の用意は出来た。
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上中下の長屋は身分別ではなく、一番隊、二番隊、三番隊の別に入居。
松前で用意した上長屋以外は現地で調達した生木を利用。
初めての僻地での越冬ということもあり、津軽藩の医者も同行。
それがなぜ、74名もの死者を出したのか。
原因のひとつに、宿舎とした長屋の場所と構造。
①斜里陣屋を建てた場所
斜里の陣屋(長屋)はオホーツク海に面した海辺の砂地に建設。
ロシア船監視のためには適した位置ですが、流氷を運ぶ北東風を直接受ける場所です。
田沼意次時代に蝦夷地を探検し冬の厳しさを熟知していたであろう「公儀御役人調役下役最上徳内殿」が斜里にいながら、ロシア船監視の任務の為には致し方なかった事なのか、とても残念な事です。
②構造材に生木を利用
木材が乾燥していくと縮み、すきま風が入ります。
また、薪を斜里で調達しています。
乾燥していない生木を燃やすと、大量の煙が発生。
津軽藩士の多くがまず、目を病みました。
《お薬がきた》(『松前詰合日記』より抜粋)
10月26日。松前表から御飛脚が参着。
公儀から医学館製の「加味平胃散」という薬を一人につき5袋ずつ下し置かれ、そのほか詰合御人数一同に重い御口達書をもって、御酒一升・御肴料37文、計167文を、一人ずつに下賜された。
1.山嵐不正の気を除く
1.脾胃を調ふ
1.水土を伏せずして泄吐するによし
(新しい環境で水が合わず嘔吐した時に効く)
お薬上包みの効能書きにはこのように書かれていた。
よって上役のところへ参りお礼を申し上げた。
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この加味平胃散。
ネットで調べると今でも漢方薬として販売されています。
松浦漢方株式会社「加味平胃散」
http://www.matsuura-kp.co.jp/product/67_12h.html

「製品の紹介」(松浦漢方株式会社HPより)
O-67 加味平胃散エキス〔細粒〕 12包
本方は、平胃散に神麹、麦芽、山査子を加えたもので、胃がもたれるタイプの人の食欲不振、消化不良などに奏効する胃の薬です。
「効能・効果」
体力中等度で、胃がもたれて食欲がなく、ときに胸やけがあるものの次の諸症。
急・慢性胃炎、食欲不振、消化不良、胃腸虚弱、腹部膨満感
《海に氷の山が出来たー(T_T)》

9月のオホーツク海は、のほほん。
が。

日記でいう11月中旬は現在の12月中旬。
オホーツク海に流氷が到達。
流氷見学を観光化した現在では、オホーツク海にいつ流氷が着岸するかどうかで毎年やきもきしています。
早くて12月下旬。
1807年の頃は、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間(小氷河時代、ミニ氷河期ともいう)にあり、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述しているそうです。(wikipedia「小氷期」より)
日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制の崩壊の一因となりました。
斜里での津軽藩士の事態は悪化の一途を辿ります。
つづく。
参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)
斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/
サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html
いつも応援いただきありがとうございます。厳寒のオホーツク海の海辺に住むなんて、まるで自殺行為のような気がします。お役目に忠実であった結果なのでしょうか。公儀から届いたお薬、微妙です。結果を知る身から見ると、ありがたいけどそこじゃない、感じ。ひそひそ。



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