スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

フヴォストフ事件(文化露寇 )と津軽藩の蝦夷地警備

こんにちは。


1801年頃の蝦夷地。

頻繁に姿を現すロシアに対する防衛のため、

幕府は寛政11年(1799)、東蝦夷地を幕府の直轄地とします。


《津軽藩と蝦夷地》

蝦夷地に近い津軽藩は、幕府より度々出兵の命が出され、
海岸線を守るための台場(砲台)を設営するなど、
北方警備における重要な役割を担っていました。



寛政5年(1793)。

幕府より津軽藩に蝦夷地への出兵命令。310余名が出兵。 (盛岡藩は420名)


寛政8年(1796)。 

イギリス船が松前・蝦夷地沖へ渡来。 

津軽領内にも、沿岸に異国船が出現。
沿岸防備に力を入れ、砲台場を増設。
藩の財政を圧迫し、領民には税・労役の負担増。


寛政10年(1798)。

津軽藩は幕命により、箱館警固へ。 
将兵およそ300名を派遣。(一年交代で二年間) 




寛政11年(1799)。

東蝦夷地は幕府の直轄地に。

津軽藩は、浦河以西の東蝦夷地の警衛を命じられます。
箱館・サワラ・アブタ・モロラン・シラオイ・択捉島に兵を配置(一カ所に50人程)。


文化元年(1804)。

ロシアの使節ニコライ・レザノフが幕府に通商を求め長崎来航。

半年待たせた後、幕府は拒否。

危機感を抱いた幕府は、津軽・南部藩に東蝦夷地の通年警備を命じます。

択捉島へ着任した津軽藩兵は30名。
冬から春にかけて、浮腫により11名死亡、9名重傷。


文化2年(1805)。

津軽藩四万六千石から七万石に加増。 
北方警備の功で藩祖為信以来二百年ぶりの加増・昇格でした。


一方のロシアのニコライ・レザノフ。


(wikipediaより借用)

こけにされた形で、ぷんぷん。

報復。

部下のフヴォストフが率いる武装商船2隻がやって来ます。

文化3年(1806)。

10月。樺太の松前藩出張所を襲撃・略奪・日本人4人を拉致しカムチャッカにて抑留(~翌年6月)。


文化4年(1807)。

3月。危機感を抱いた幕府は、蝦夷地全域を幕府直轄とします。


4月。丁卯(でいぼう)事件。

択捉島へ上陸したフヴォストフ等は会所を襲撃・略奪。
一時撤退するも夜襲で南部藩・津軽藩を敗走させ、6人が捕虜に。



5~6月。礼文利尻周辺の船を襲撃。利尻島にも上陸。
それぞれで略奪・拉致。

一連の襲撃は「フヴォストフ事件」「文化露寇」といわれます。
各地で拉致された日本人は10人。
利尻で8人が釈放。ロシアから幕府への書簡を松前藩に届けます。


幕府、さらに北方警備を強化。


5月。東北地方の諸藩に北方警備を命じます。
会津藩・秋田藩・仙台藩・弘前藩など、合計3000人が出兵。

南部藩は692名、秋田藩591名、庄内藩319名、会津藩・秋田藩・仙台藩・弘前藩など、合計3000人が出兵。

津軽藩は当初の箱館警備から配置替えとなり、
宗谷・オホーツクの警備強化のために330名を増員。計750名。

7月9日に宗谷到着。宗谷で陣屋を建設した直後。

105名が斜里警備の為に宗谷から移動します。


《津軽藩士、斜里へ行く》


「着替荷物をそれぞれ包みにし、各自の名前を書いた木札をつけ、藩船八幡丸に御武器のほか米、味噌や酒も少々積め入れて廻送した。」(『松前詰合日記』より)


斜里に到着したのは、

7月29日。田中才八郎率いる一番隊35名
8月1日。笹森寛蔵率いる二番隊31名。
8月11日。クナシリ警備にあたっていた三番隊25名。

その他14名を含む105名。


「斜里には、公儀御役人調役下役最上徳内殿、金井泉蔵殿の両人が在勤」(『松前詰合日記』より)

この「最上徳内」
老中の田沼意次による天明5年(1785)の蝦夷地の調査団に下人として加わり、蝦夷地の専門家として貧農の出ながら幕府に取り立てられて武士になった人物です。


冬のオホーツク。

斜里のアイヌ達でさえ、内陸部へ移動し越冬する気候です。

網走ではマイナス25度になるほどの極寒の地。
津軽の弘前においてさえ経験したことのない世界でした。

そして。

流氷。

海一面を覆う流氷は、新鮮な魚等を得ることを阻みます。

彼等は藩船八幡丸に米、味噌や酒を積載して持参しており、飢餓に喘いだ訳ではありませんでした。

しかし、結論から言うと。


帰還命令が出される文化5年(1808)8月までに72人が病死。
帰国の途に着いたのは、わずか17人。


文化元年(1804)に択捉島へ着任した津軽藩兵は30名。
冬から春にかけて、11名死亡、9名重傷。

この時と同じ「浮腫の病」が彼等を襲ったのです。


つづく。


参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/

サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html


いつも応援いただきありがとうございます。私にしては珍しく文字ばかりで失礼しております。雪景色の画像がございませぬ~(T_T)。「ロシアの南下」の中に「文化露寇」という名称があることは今回調べていて初めて知りました。幕府の対応にニコライ・レザノフ、怒ったんですねぇ。でもねぇ、ロシアってねぇ。・・・イラッとするのですわ。
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。とても励みになります。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

No title

こんばんは、kotodayoriです。

いつもお世話になっています。

「フヴォストフ事件」(文化露寇)なろ事件も言葉も初めて知りました。
幕末に北方でこんなことが起きていたとは、歴史は教科書で語られるだけではないのですね。勉強になります、もっといろいろと教えてもらえそうで、楽しみに読んでいます。

これからもよろしくお願いいたします。

kotodayori様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

あたたかい励ましのお言葉、心より御礼申し上げます。
よし!今日も頑張るぞー!っと、励みになります。

試験勉強ではロシア南下、北方警備の充実、ぎゃー、あちこちに外国船が来たー、条約締結だー!等、箇条書きで覚えただけなので、私も細かくは存じませんでした。

ご存じの通り、根室や羅臼へ行くとロシアが目の前。
こちらで地図を見るよりも、距離の近さに驚きますよねー。

kotodayori様の優しい画像を拝見すると、観光地ではない京都探しへ行きたくなります。

大阪はうすぼんやりとした紅葉で、おでかけする気にはならなかったのですが、そろそろいいかなぁ。

京都は、きーーんっと冷える冬に訪れるのが好きです。
寒い寒いと言いながらあぶり餅を食べるのです~(*^^*)

No title

こんばんは。

こんなことがあったなんて、全然知りませんでした。
この続きを楽しみにしています。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

はじめは斜里場所請負人の奉納した斜里神社の社殿や絵馬が展示されている斜里町立知床博物館をうきうきしながら訪れまして。

そこで、ねぷたが飾られていて。

はてなー?はてなー?

史跡を探す中で津軽藩の名前はあったのですが、
はじめは、弘前と北海道は近いから、大勢入植したのかなー?
と思ってました。

ら。

こんな歴史があったと。

幕府や松前藩からの請負の斜里場所を追っている限りでは、
大勢の死者を出したこの件は隠したい歴史なので記録が出てこないんです。

ただいまうにゃうにゃにうねる当時の記録の文字と格闘中です。

読めないですー(T_T)

老○なんて言っちゃだめー。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

◎リンク戴く際はご一報下さい。御礼させて戴きたく。
◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

宜しくお願いいたします。

参加してます♪
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
最新記事
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
月別アーカイブ
リンク
最新コメント
最新トラックバック
ブログ村さんに参加中
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ご来場御礼
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。