三井寺で大内文化を堪能。一切経蔵。
こんにちは。

秀吉が三井寺に「闕所」の命を下した後、死去前日に撤回した三井寺は、再建ラッシュ。

金堂は、ねねさん。
うはうはしながら次に訪れたのは、一切経蔵。

「一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。
この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形(ほうぎょう)造、檜皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、裳階(もこし)を付けているため柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。
内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。
全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。
なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長7年(1602)に移されたものといわれています。
明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。」(現地説明板より)
毛利輝元が山口県の国清寺より移築。
毛利といえば日頃お世話になっている「安芸の夜長の暇語り」のトロロヅキ様。
トロロヅキ様の国清寺の記事、みーつけた♪
国清寺のあらましと、現地に残る一切経蔵の基礎など詳細に、
わかりやすく書かれています。
山口・洞春寺~足利義満が最も恐れた人物~
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-500.html#comment1174
トロロヅキ様、ありがとうございました。
「山口県の国清寺」とは、現・山口市の洞春寺の場所にあったお寺。
移築したのは輝元ですが国清寺は毛利氏以前には大内氏に縁のお寺。
大内義弘、という人物がいます。
足利義満に応永の変で敗れますが、大内家を飛躍的に大きくしました。
義弘の弟、大内盛見(もりみ・もりはる)。
義弘亡き後、盛見は他の弟二人を殺して家督相続。
周防・長門・豊前・石見守護に任じられます。
盛見は、両親と兄・義弘の菩提を弔うために、国清寺を建立。
盛見が筑前で討死した後は、盛見の菩提寺として葬られました。
大陸文化をふんだんに取り入れた「大内さんちの美」。
ご堪能ください。

屋根の先がきゅっとなっていて優美な曲線です@トロロヅキ様
天台宗の三井寺のなかで、禅宗様の一切経蔵は異彩を放っています。
さぁて、内部です。

どうだー!
八角形の輪蔵(回転書架)。
これをくるくるさせると、経を読んだのと同じご利益があるとされます。

内部には往時の装飾が残ります。
大内氏が輸入したと推測される大蔵経(だいぞうきょう)の全巻を安置。
大蔵経は、仏典の集大成で、約7000巻の量。
当時の日本には版木がなく、全てが朝鮮からの輸入品。
それが、この中に、ある。

移築した毛利輝元は、関ヶ原の合戦の敗戦直後。
どうやって費用を捻出したのやら。
彼は関ヶ原前より金堂の再建にも援助しており、
負けたからという理由だけで移築させられた訳ではなさそうですが、
「どんどん使えお前の金(by家康)」で追加になったかもしれないし、
詳細は推測に過ぎません。

山口の大内文化を三井寺で堪能することができました。
輝元さん、ありがとう。
参考文献
「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)
三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm
いつも応援いただきありがとうございます。弊社は皆様のコメントや記事に支えられて成り立っております。ありがとうございます。三井寺は各地から移築された建物を一度に見ることが出来る点で、とても興味深いです。大内氏について述べると長くなるので割愛しますが、今も現地には素晴らしいものが残っています。まー、行きたくなっちゃうわ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

秀吉が三井寺に「闕所」の命を下した後、死去前日に撤回した三井寺は、再建ラッシュ。

金堂は、ねねさん。
うはうはしながら次に訪れたのは、一切経蔵。

「一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。
この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形(ほうぎょう)造、檜皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、裳階(もこし)を付けているため柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。
内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。
全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。
なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長7年(1602)に移されたものといわれています。
明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。」(現地説明板より)
毛利輝元が山口県の国清寺より移築。
毛利といえば日頃お世話になっている「安芸の夜長の暇語り」のトロロヅキ様。
トロロヅキ様の国清寺の記事、みーつけた♪
国清寺のあらましと、現地に残る一切経蔵の基礎など詳細に、
わかりやすく書かれています。
山口・洞春寺~足利義満が最も恐れた人物~
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-500.html#comment1174
トロロヅキ様、ありがとうございました。
「山口県の国清寺」とは、現・山口市の洞春寺の場所にあったお寺。
移築したのは輝元ですが国清寺は毛利氏以前には大内氏に縁のお寺。
大内義弘、という人物がいます。
足利義満に応永の変で敗れますが、大内家を飛躍的に大きくしました。
義弘の弟、大内盛見(もりみ・もりはる)。
義弘亡き後、盛見は他の弟二人を殺して家督相続。
周防・長門・豊前・石見守護に任じられます。
盛見は、両親と兄・義弘の菩提を弔うために、国清寺を建立。
盛見が筑前で討死した後は、盛見の菩提寺として葬られました。
大陸文化をふんだんに取り入れた「大内さんちの美」。
ご堪能ください。

屋根の先がきゅっとなっていて優美な曲線です@トロロヅキ様
天台宗の三井寺のなかで、禅宗様の一切経蔵は異彩を放っています。
さぁて、内部です。

どうだー!
八角形の輪蔵(回転書架)。
これをくるくるさせると、経を読んだのと同じご利益があるとされます。

内部には往時の装飾が残ります。
大内氏が輸入したと推測される大蔵経(だいぞうきょう)の全巻を安置。
大蔵経は、仏典の集大成で、約7000巻の量。
当時の日本には版木がなく、全てが朝鮮からの輸入品。
それが、この中に、ある。

移築した毛利輝元は、関ヶ原の合戦の敗戦直後。
どうやって費用を捻出したのやら。
彼は関ヶ原前より金堂の再建にも援助しており、
負けたからという理由だけで移築させられた訳ではなさそうですが、
「どんどん使えお前の金(by家康)」で追加になったかもしれないし、
詳細は推測に過ぎません。

山口の大内文化を三井寺で堪能することができました。
輝元さん、ありがとう。
参考文献
「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)
三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm
いつも応援いただきありがとうございます。弊社は皆様のコメントや記事に支えられて成り立っております。ありがとうございます。三井寺は各地から移築された建物を一度に見ることが出来る点で、とても興味深いです。大内氏について述べると長くなるので割愛しますが、今も現地には素晴らしいものが残っています。まー、行きたくなっちゃうわ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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