fc2ブログ

父・大友皇子の菩提を弔った三井寺。比叡山延暦寺との抗争

こんにちは。


来年は、うっきぃ。

大津市歴史博物館でへとへとになったけれど、ついでに隣の三井寺へ。


今年もあと一ヶ月半。来年のお猿をゲットして、


鬼瓦に笑われる。

境内の・・・何かの建物の屋根。


南東角は、龍がいた。


そんな三井寺は、園城(おんじょう)寺の別名。

古くは天智天皇が造営した近江宮(大津宮)があった場所に程近く。


天智天皇亡き後、壬申の乱で子の大友皇子が没し、弟の天武天皇が即位。

朱鳥元年(686年)。

大友皇子の子・大友与多王は、父の菩提を弔うため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願。

天武天皇はこの寺の建立を許可。

大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする心意気を買い、「園城寺」の寺号を与えました。

元は壬申の乱で大津宮が滅んだ頃に大友村主家によって建立(672年頃)されていた寺院が「園城寺」となり、大友氏氏寺となったと寺伝。

出来すぎたお話じゃなくて?


伝・左甚五郎作の龍。

下手くそか?という疑問を抱く龍がいるのは、


国宝・金堂横の閼伽井屋。

ここに湧く水が天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来。

この付近から奈良時代の古い瓦が出土していること、大友氏との関連を示す史料の存在から、寺伝はまったくの創作ではないとされています。


今も現役。

三井寺は時勢の変遷により一時衰退しますが、円珍により再興。

この円珍、比叡山で修行後、大峯山や熊野三山、さらに唐へ渡り修行を重ねます。


熊野那智大社の奥の阿弥陀寺にある道標。

めっちゃ遠い~のに、何で園城寺(三井寺)がー?って思ってまして。
円珍の修行繋がり?


貞観元年(859年)。
円珍が大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」を設置。

貞観10年(868年)。
第五代天台座主となった円珍が三井寺を賜り、唐より請来の経籍を唐坊に収納。

円珍死後、比叡山延暦寺(山門)と三井寺(寺門)は、対立。

長久2年(1041)年。
三井寺戒壇設立の可否を朝廷が諸宗に尋ねた際は、延暦寺のみ反対。
この「戒壇問題」が以降の激しい紛争の原因となります。



文永元年(1264)年。
「三井寺、創建以来、堂塔の焼亡、今に至るまで十度」(『吾妻鏡』)

小競り合いは数十回。僧兵による武力対決。

・・・何やってんだ。

平安時代には藤原道長・白河上皇達朝廷や貴族が、中世以降は源氏など武家が深く崇敬したとか、公暁は園城寺育ちだとか、そんなものがぶっ飛ぶ程、ふぁいやー&ふぁいやー。

記録を見ても「燃やされた、建てた、燃やされた、(たまに出張)」。

やがて、三井寺最大のピンチがやって来ます。



人のものなら何でも好物の秀吉登場。

つづく。


三井寺
《住所》滋賀県大津市園城寺町




参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。今年はまだ冷え込まないからなのか、紅葉がばっちい色で。このまま落葉したら寂しいぞ。延暦寺というと強訴じゃ強訴じゃー!っと山から僧兵が駆け降りてくるイメージが強くて。地図を見ればわかりますが、比叡山を西へ下山すれば、そこは都。南下すると園城寺。武力充実の国がひとつ山上にあるようなもんですねぇ。前記事で比叡山の仏様に感動しておきながら、何を言っているのだ、私。
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

No title

三井寺。
ああ、行った行った。
行ったけど、井戸とかあったっけ?(;^ω^)

三井寺行った目的が、麓の神社二社と、大津絵だったから、
お寺自体の印象が薄い。
写経とかしてきたのに(笑)

No title

耳がチャームポイントだと思ってた・・・

めいめぃさんにサルが勝てるはずないと思ってた・・・

こんな「ぷりっけつ」の「チャームぽち尾」だなんて・・・(; ・`д・´)


まだまだ甘いのは「坊や」だからさ( ゚Д゚)y─┛~~

萌える敗北感~~~村クリ(*´∀`)ノ+゜*。゜ナイス+゜。*゜+

No title

こんばんは。

大友皇子、子供がいたんですね。
大友与多王、「よたおう」って何という名前でしょうと思ったけど、これは今の私たちの考えなのよね。
お母さんは十市皇女なのかな。
天智天皇、天武天皇、間人皇女、大友皇子、十市皇女
子の方達の人間関係って興味を持ってしまいます。
単純に、男女関係はどうなっていたのかなって。
私の見るところ、天智天皇と間人皇女は。。。。じゃないかと思うんだけど。
余りに女性週刊誌的?(笑)
関係ないコメントで失礼しました <(_ _)>

追記

ごめん・・・ぷりっけつのインパクトで他が脳から吹き飛んでた^^;

さらに「大友」とあったので豊後?と、あらぬ方向に検索してたアホですil||li _| ̄|○ il||l
ちなみに海外版ウィキ的なものでは、大伴も豊後大友も混ざりまくって違うオオトモが創造されてるそうな(※数年前情報):゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

で、つねまる様萌えの大友から離れるかもだけど怪談・・もとい戒壇の話。

福岡にも戒壇院(臨済宗)があるんだけど、
戒壇があるかないかで、その宗派の権威が全然違う。

そこを通過しないと「受戒認定=僧侶デヴュー(武家の元服みたいなもん)」されないから、僧侶社会で戒壇は超特別なものなんだ。
それで、時代に関係なく各宗派で戒壇問題を騒ぐ人たちが時々出るの。

受戒・戒壇の「日本初めて物語」は鑑真in大宰府。
日本人としては最澄になるはず(唐から諸々一式持ち帰ったので)。
戒壇は受戒の作法を指すときと、その儀式が出来る国家(政権)認定寺院を指すこともある。

後代・・・鎌倉期以降いわゆる新宗教が出ると崩れ始める。
戒壇寺院でなくても、弟子入りした師匠から戒を授かるようになるから。


現代は戒名と受戒の意味がゴッチャになってる人の方が多いかもだなぁ。
宗教史は一時期ハマってたけど、ちゃんと文献で確認してないから知識に自信ない~~
しばやん様なら、このあたりバッチリだと思う(^ -)---☆Wink

猫舌=・ω・=様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

やたー♪

さすが猫舌=・ω・=お姉さま~(≧∇≦)

私も私もー!

前に来たときは、麓のあの神社二社と大津絵で、うはうは~♪

観光客の多さに戸惑ったことと、歴史博物館の疲れで朦朧としてたので今回は割愛しましたが、あそこ、行きたくなりましたー。

んふふふ。ぷりちーぴょんぴょん。

三井寺、きっと写経でお疲れになったのでは?

最近は机に構えて文字を書くことがなくなりましたので、お手紙書くときは、よっこらしょ、です。

時乃★栞様そのⅠ

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

めぇめぇさんが至宝の域だったんで、お猿さんはな~って諦めてたら、おった。

ぽち尾に、どきゅん。

起き上がりこぼしなので、何度倒してもけなげに立ち上がります。

迎春準備は完了です。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

大友皇子の最期と、近江宮のあった場所であることから、大津市は関連史跡(伝承地)が多いです。

与多王(よたのおおきみ)は園城寺を開いた伝承の人物のようではありますが、大友皇子(弘文天皇)と与多王の葬り塚とか、与多王は法伝寺の住職を園城寺住職と兼ねたとか。

いずれも口碑なので、真偽のほどは定かではありませんが、この時代は、スクープ!なお話があって楽しいですね。

奈良県郊外や近江をうろうろすると、飛鳥時代に夢中になった頃に書いた「秘密のかっぷる系統図」を思い出してしまいます。

うわっ、実のきょうだいだよー!とか。

腹違いはアリ、ですものね。んふ。

時乃★栞様Ⅱ

追記ありがとうございます(≧∇≦)

弊社は皆様のお支えあって成り立っております~。

さすがに戒名と受戒がごっちゃにはならんと思いますが、ほら、麻痺してるから。

あー、そうか。
鑑真、福岡に上陸したから東大寺や唐招提寺より先なんだー。
ってか、いいのか?いいんだな、偉いから。

昔からわからないのは、聖武天皇がわざわざ迎えに行かせた鑑真ですが、彼が既に数万人に受戒させてたこと。

鑑真教授のゼミは単位が簡単にもらえるよー、的な。

納税免除になるんだから、誰もがなりたい僧侶。

だから我も我もと現れる僧侶に辟易して聖武天皇(上皇)は権威ある鑑真を迎えたはずなのに、奈良で行われた最初の受戒は待ちわびていたわけだからいざ知らず、なんやら腑に落ちないです。

後付けで難しいことを難しくして権威付け。
和洋問わず、いろいろあるもんなんですね。

紫式部

こんばんは。すこし遅くなりました。

三井寺は、行かう、行かうと思つてゐるうちに、つひにはお参りできず仕舞ひで残念です。

太平記卷十五の冒頭で山門と園城寺の事が書かれてゐますね。
白河天皇に第一皇子がお生まれになられた時、叡感の余りに「園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申し給ひける。山門、またこれを聞いて、款狀を捧げて禁庭に訴ふ。前例を引き、停廢せられんと奏しけれども、綸言再び復らずとて、敕裁なかりければ、三塔、嗷儀を以て、谷々の講演を打ち止め、社々の門戸を閉ぢて、御願を打ち留めける間、朝議、黙し難うして、力なく三摩耶戒壇の敕裁を召し返さる」
あれやこれやで、後醍醐天皇を奉じる山門に対して、足利に肩入れする園城寺と言ふ図式になつたのでせうね。

僕の記憶では、三井寺は紫式部となんか関聯があつたやうな気がしたのですが、良く考へたら、それは石山寺でしたね。失礼しました。

橘右近大夫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

今回自分が行かなかったので割愛しましたが、三井寺は源氏と縁故が深いようで。

源頼義が前九年の役出陣の際に、三井寺と新羅明神に参拝。
三男義光は新羅明神で元服。新羅三郎義光ですね。

頼義も義光も息子を僧侶にして三井寺へ入れ、これに倣い源氏から何人もの僧侶が入っています。

伝・新羅三郎義光の墓も、近くにあります。

比叡山と園城寺の争いは、まー、南都も絡んでめんどくさ・・・ごほ。
じっくり考証するつもりもないので、さらっとさらっと。

太平記の該当箇所がすらっと出てくるとは、さすがでございます。

私は平家物語ばかりで。
以仁王ぐらいしか浮かびませんでした。

ありがとうございます(*^^*)

紫式部は、そうです、石山寺ねー。

でも私も境内の記憶が石山寺と混ざっていたのは、ないしょです。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

◎リンク戴く際はご一報下さい。御礼させて戴きたく。
◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

宜しくお願いいたします。

参加してます♪
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
最新記事
カテゴリ
カレンダー
08 | 2023/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
リンク
最新コメント
最新トラックバック
ブログ村さんに参加中
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ご来場御礼