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三井寺のクラッシュ&ビルド。秀吉の尻拭い

こんにちは。


三井寺。

・・・いや、これを見て「三井寺だよ」ってのはおかしいんですが。


お寺にお邪魔するときもやはり身を清めましょね、って思って。

神社と違って、ほぼ全員がスルーしてたの。


では、三井寺のつづき。


もんきー・秀吉、登場。


文禄4年(1595)年11月。

秀吉は突如として、三井寺に「闕所」の命を下す。
秀吉五十八歳、第一次朝鮮出兵(文禄の役)のあとで、戦線が膠着状態を呈していた時でもあった。

「闕所(けっしょ)」とは境内堂舎さらには所有する所領を没収する処罰のことで、三井寺の堂塔はまたたく間に解体される。現在の比叡山延暦寺の西塔・釈迦堂はこの時解体された三井寺の金堂を移築したものである。 
(三井寺HPより引用)


この「闕所」の命の原因は「?」で、秀次事件に連座した明石某を三井寺の某が泊めた(『園城寺古記』)とか、伏見へ移植予定の桜を伐採しちゃったー(『駒井日記』)とか。


あらびつくり。

この「闕所」の命が三井寺側にとって「?」なのは、
秀吉が三井寺を根絶やしにしようとしたわけではないこと。


「本尊の弥勒菩薩像、不動明王像(黄不動尊)、御骨大師、中尊大師など、三井寺の信仰の根幹に関わる尊像がすべて道澄(1544~1608)のもとに遷されている」(三井寺HPより引用)

道澄(1544~1608)は、かつて聖護院門主として三井寺の長吏職(トップof三井寺)を勤めた人。

仏像と共に三井寺の僧侶達も道澄に預けられ、咎めなし。



慶長3年(1598)年。秀吉の死の前日。


「闕所」解除。


「為政者なるものの為すことは実に理解に苦しむことが多い。三井寺も時の権力者の思惑によって翻弄されるが、多くの人々の篤い信仰に守られて、今も生き続けている。『不死鳥の寺』といわれる所以である。」(三井寺HPより引用)




さー、れっつ再建!


では、仁王門からてくてく。


慶長6(1601)年、徳川家康により甲賀の常楽寺から移築・寄進。

元は宝徳4年(1452)建立。重文。


門を入って右側に、釈迦堂。


釈迦堂は、室町初期建築。重文。(伝・清涼殿を移築)

「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、 この堂も食堂として移築されたものと思われますが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。(三井寺HPより引用)


室町建築らしい質実剛健な感じの建物。

まー、釈迦如来像も素敵でしたのよー。

口を開けて見上げていたらしく、「そんなに好きなら帰りに歴史博物館に行ったらええよ~♪」と見知らぬおっちゃんに笑われる始末。

でへ。


鐘楼。重文。

慶長7年(1602年)建築。


梵鐘。鐘楼と同年作。県指定文化財。

近江八景「三井寺の晩鐘」で知られる音色が美しい梵鐘。

ぽちん、っと付いている玉は「乳」といい、
25個×4面+上部8個=108個。

百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に当たります。

三井寺には「弁慶の引き摺り鐘(重文)」の名の奈良時代の梵鐘が残りますが、これはその形を模しているとか。

(弁慶の~は、すごい数の見学者で撮影忘れた)



「どえらいあらけねぇ事をしてまったがね。」by北政所。

真っ先に北政所によって再建されたのが、金堂。

内部は外陣・中陣・後陣に別れ、内陣以外の床は全て板敷とするのに対して、 内陣は土間のまま。

伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えているとか。

ここの仏像が、もう、奥さん。

素晴らすぃ~(≧∇≦)

大津市歴史博物館の展示も素晴らしかったのですが、やはり仏様はあるべき場所で「こんにちは」するのが一番だと思い知る次第。

本尊弥勒菩薩は、絶対本尊。
目にした人はいません。

百済から用明天皇の時に日本に渡来し、 天智天皇が崇拝したという弥勒様です。

三井寺の創建は、天智天皇の孫でしたね。


金堂正面の「園城寺金堂無名指灯籠」。

大化の改新で蘇我入鹿と一族を誅した天智天皇(中大兄皇子)。

「蘇我一族を滅した罪障消滅のため、天智天皇は自らの左薬指を切り落とし、この灯籠の台座下に埋め納めたと伝わります。」(現地説明板)

左薬指=無名指


まぁ、伝承ですから。


金堂奥に閼伽井屋。重文。慶長5年(1600年)建築。

ここに湧く水が、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来。


正面上部に、伝・左甚五郎作の龍。

金堂に向かって左へ進むと。


池。

そして、


一切経蔵。重文。

三井寺には珍しく禅宗様の建物。
室町時代の建築で、元は山口県の国清寺の経蔵。

慶長7年(1602年)、毛利輝元により、移築。

国清寺は、山口市内にあった禅宗寺院。毛利氏との縁の深いお寺。


内部、すごいです。

つづく。


参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。焼かれて奪われて滅んで再建。無名指灯籠は伝説に過ぎないでしょうが、国宝の金堂に負けず劣らず、興味津々。体を傷付けるって、そんな意味もあったのかしらねぇ。こわー。ねねさんの建てた金堂だと思うと、ほっとするのはなぜかしら。淀殿と秀頼寄進のものは、切羽詰まった感じがするんです、私。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。


11月20日追記
コメントに、時乃★栞様より考察をいただきました。
感想はぜひ時乃★栞様のブログへ。
私はお返事できません~。
↓↓↓
九州戦国史~室町末期から江戸時代まで~
http://siori20120901.blog.fc2.com
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No title

学生時代に三井寺を訪れたことを思い出しました(by京阪電鉄?)。 仁王門と釣鐘が印象に残っています。

No title

こんにちは。お邪魔します。
いつも勉強させていただいております。
ねね様が金堂再建、、さすがって思ってしまいました。
ご本尊様 1000年以上も幾多の火災等乗り越え
誰の目に触れさせずに守られてきたってすごいですね。

No title

こんにちは。

手水、結構使って無い方多いですよね。
神社ってすぐわかるところにあるけど、お寺って、わかりにくにくい所にあったりすることありますよね。

まんまるお猿ちゃん、可愛い♪
後ろ姿がたまりませんね(*´ω`*)
ちょんっと押すとコロンって行きそうですね(笑)

そんなに好きなら~って言うのを読んで、どんな顔して見上げてたのかな?と思って、つねまるさん、可愛い~!って思って凄く和みました(・∀・)

No title

こんばんは。

あれまあ、三井寺は秀吉の命で解体されっちゃったの!?
全然知らなかったわ。
それに、ゴメンナサイ。
私もお寺さんの時、お手々を清めてませんでした。
『為政者なるものの為すことは実に理解に苦しむことが多い。三井寺も時の権力者の思惑によって翻弄されるが、多くの人々の篤い信仰に守られて、今も生き続けている』
三井寺様、さり気なく愚痴を言ってらっしゃるのね。
言いたくもなるわよねぇ。
それにしても、ポカンと口を開けて見惚れるつねまるさん。
声をかけてくれるオジサマ。
良い雰囲気が伝わってきます。

chorusan様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうですそうです。京阪の石山坂本線です。
お懐かしい景色でしょうか?

三井寺は、仁王門にまず驚きますねー。
釣鐘も、ひっそりとありますが、とてもいい音色で。

ばひーん、って音がする鐘もある中、ここは、ごぉーん、っと鳴ります。

余韻が優しい感じがしました。

あ、今回は謡曲「三井寺」は、こっそりスルーしますのでお許しを。
えへへ。

おきまちあき様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

あー、いや、勉強と言われますと、心苦しいですわ。
暑苦しい記事で失礼しております。

ねねさん、秀吉晩年の姿には、心を痛めていただろうなぁと思います。
設計施工したわけではないけど、何となくこう、あったかい感じがしました。

目立たないところに、こそっと手が込んでいたり。

絶対秘仏、ってすごいですよね。
あ、そうだー、千年にもなるんですねー。

とかく秘仏と聞くと、見せろ見せろと言う人がいますが、
秘密は秘密のまま、ってのがいいんだと思います。

これからも守っていかなくてはならない三井寺の方々は大変ですね。

宙海様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

手水、そうなんですよね。

お寺って、椿や紅葉が飾られてきれいにされている所と、鉢が転がっているとこと、極端なような気がします。

後ろの手拭い、三井寺オリジナルみたいで。

まんまるうっきー、一目見て突進して手に取りましたの。

ちょん、って押したら「うきっ」って起きますよー。
起き上がりこぼしなんです。うふふふ。

来年は七転八倒、いや、七転び八起きで。

か、かわいいだなんて~(≧∇≦)

ほら、上を見たら口が開くでしょ。
ぼはぁ~ってだらしない顔をしてたと思うんですわ。
ゆだんたいてき、なのです。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうなんですよね。秀吉がやりました。

歴史ある、あの、園城寺になんてことー!!って周りはさぞかし驚愕したと思うんですが、晩年ですから、もう諦めていたかもしれないです。

三井寺のポイントは、どこから、誰が移築したのか、なんですよ。

年代も見てわかる通り、関ヶ原の合戦の1600年前後なので、
移築した人物の当時の立場を考えるととても奥深いです。

次記事で、ありゃまーってのがあります。うふふ。

(只今作成中。脇道にそれてえらいことになってます)

お墓参りの前にお寺さんで手を洗わないと、祖母に「だちかん」(ダメでしょ)っと叱られたので、私、実は神社よりもお寺の時の方が神経質になってまして。

ま、気持ちのもんですからねー。

三井寺さんの愚痴、いいですよね。
「時の権力者」の中には、ちょっと言いにくい人もいるんだろうな、って思いましたの。

でも三井寺さんは、比較的、自分の意見や方針をはっきり示している方だと思います。

ぼへぇーっと口を開いて見上げるあほーに、笑いながらご親切に声をかけて下さるとは、奇特な方がいらしたものだと。

この方とは後の散策でも所々でお目にかかり、「ほら、ここ、すごいよ、面白いよ」って教えてもらいました。えへ。

No title

【ぷりっけつ】・ ̄)じぃーぃっ
三井寺さんちの仔だったのね ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

「けっしょ」が出ない・・・
システム自動更新で難読文字登録がドナドナされたウチのIMEちゃん ・・(゜-Å) ホロリ

やや(かなり)専門外だが頑張ってマジで行くじょ(`・ω・´)キリッ
闕所は【罪の罰で領地ボッシューと】の意味と、【闕所によって地主不在になった土地】と両方の意味がある。

三井さんとこの場合は前者で、誰か(別寺院or僧侶)に三井寺領を安堵しなかったところを見ると、秀吉にとってはハナから一時的な処置だったと推察。

秀吉は「俺様を神様化」にするための布石として新大仏殿を建立中で、三井さんとこの災難は、それがほぼ完成した年なのね。

三井寺では別当を「長吏」(ちょうり)って呼んでるのか。
比叡山へ色々移すのが目的だったのか。
伏見城へ三重塔パクったのが尾を引いたのか。

いずれにせよ。秀吉は気まぐれ朝令暮改でやったんじゃないと思う。
秀吉の宗教政策(俺様神さま化計画)と無関係じゃないはず。

やはりキーマンになるのが道澄になると思う。
何といっても「関白近衛稙家の三男」だから。
道澄の兄・前久に秀吉が猶子になってるからして。

んでんで、家康は関白二条昭実[/斜体]猶子・日惺(にっせい)を重用したけど、
[斜体]秀吉は道澄(関白近衛系統)を重用
したの。

秀吉は時期関白職争いを利用して近衛家に潜り込んで・・・・ゲフゴホ
えーーーと、どうも秀吉は「関白職はワシ一代だぎゃぁもんで、堪忍してちょ」と近衛を騙して?誤魔化してたみたいなのね( ̄ko ̄)

そういう背景もあって、新大仏殿関連で道澄に重職を与えているから、三井寺受難なぅでも、道澄は路頭に迷うどころか寧ろ僧侶としては大出世してる。

しばやん様が道澄開基の「照高院」を廃仏毀釈からみで記事にしてるけど、この開基の時期と新大仏殿建立と三井寺受難時期とバッチリ被ってる。
「照高院」に文書があれば~~~~(´;ω;`)ウッ
三井寺の文書と比べれば、秀吉の宗教政策の意図が更にわかったと思う~~(´;ω;`)ウッ

これ以上は史料がないので、専門家でも結論は出せないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ちょっと語り疲れた・・・お水お水・・・(; ・`д・´)

>神社と違って、ほぼ全員がスルー
>ヾ(*`Д´)ノ龍【ココハ手ヲ洗フ処ナリ。水呑み場デハアリマセン】

龍様・・・檻?に収監中って、まだ秀吉から寛恕されてなぃんですか?・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

指といえば「あなたが噛んだ小指が・・・~~~♪(* ̄O ̄)β~♪^♪」
の小指って何指だったのかしらん・・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)タワケ!!!

結論、何だか判んないけど【不死鳥なんだからぁ~~】~~~♪(* ̄O ̄)β~♪^♪
ぽちぽちぽちーーーーーーーー★

No title

つねまるさん、こんばんわ~♪

ちょっと最近、ブログの更新がやっとで停滞ぎみになっています><

三井寺は戦国時代が満載ですよね!
ここでも秀吉の尻拭いを政所さんがしている訳ですね。

毛利輝元さんも出て来るとは・・・。
また、見聞が広がりました♪ ありがとうございます!

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

大作コメントありがとうございます~。
大変だったでしょ?

多分時乃★栞様の事だから、何だかんだ言いながら、きちっと調べて下さってると思いますの。

三井寺記事は、ほーら、テーマパークみたぁい♪で済ませようと思ったんですが、まとめる力がなくて複数回になってしまいました。

コメント、じっくり拝見しましたー。

園城寺には南都も絡んできますので、私の手には負えませんが、
秀吉がどう思おうとなくしたものは戻りませんので、
この点で好きではないですねぇ。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

すーすーすー、すみません。私も同じく。
仕事の方もありがたいことに忙しくて、へろへろです。

秀吉とねねさんは、同じ名古屋の人なんで親しみがあるのですが、
毛利となると、ですな。

もーり?あ、飛行士さん?

若しくは、三本の人。

いやー、やっぱ、秀包くんでしょー!!きゃー!!

程度で。

三井寺の周りを皆が、わーわーきゃーきゃーと通って行った気がします。
あー、下りの大津SA、まだ行ったことがなくて。
まだすごく混雑してるので、なかなか入ることが出来ないでいます。

No title

時乃★栞 さんの指摘はなるほどと思いました。

方広寺の大仏の建立と三井寺の受難の時期が被っていたのですね。照高院を開基した道澄がそのキーパーソンだとは知りませんでした。勉強になります。

しばやん様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

考察力がゼロなので、お二人には今後ともよろしくご教授賜りますようお願い申し上げます。

続きは、こっちだった^^;推測その①

しばやん様のところか迷ったんだけど、やっぱ連続したほうが良いと思ったので。
UZA!かもですが、ちょっと?だけ(←ホント?)呟きます^^

えっと、まず回る経典は高麗版だった^^/
これは、しばやん様のところで知ったの。

で、それとは別にモンキーの話。
秀吉は死後神になるつもりだった。
日本人は野球選手ですら神様にする民族だし( *´艸`)

はじめ秀吉は八幡神(ALL武家にとっての守護神)になろうとしたんだけど、
と、同時に八幡神は【源氏の氏神】でもあったので、帝が許可しなかったのね。
それで秀吉は「豊国大明神」になったの。

そして忘れちゃならないのが、明治以前までは神仏習合だったってこと。

つまり祭祀:豊国大明神には、対であり影となる別当寺が必要です。
豊国大明神が新設明神である以上、既成の寺院を別当寺にするのは釣り合いがとれません。

そこで登場ヽ(*´∀`)つ【新大仏殿造営】
順番の前後は関係ない。神様になるのは死後の予定なんだから。
生前に墓や菩提寺を開基するのは、何も不思議じゃない時代よね(^ -)---☆Wink

長くなるから続く

推測その②(ちょっとじゃなくて御免ちゃい^^;)

仏法上にある考えで、法が広まるときに必要なものがある。
ちなみに自分の知識ベースは法華宗、秀吉と家康の宗教政策からみで一時、法華宗を調べてたから。
他の宗派での呼称は知らないから、そこはゴメン^^;

必要なもの「本門の本尊・本門の題目(経典)・本門の戒壇)
これに秀吉の行動があてはまります。

本尊=新大仏
経典=奉納する一切経
戒壇=これが未完で終わった別当寺に該当する

大明神になった秀吉の祭祀の別当寺を構想ウンヌン
これは、あくまで自分の推測。
でも日本宗教史&習俗の慣習上、絶対になくてはならないものなので、秀吉が考えてないと言う方が不自然。

本尊は大仏でクリア

さて一切経です。これは宋版限定で、史実でも奉納したのは宋版です。
中尊寺から泥・・・ゲフゴホ、持ち出したですのよ( ̄ko ̄)

これは宋版でなければならない理由がありました。
先例として【足利尊氏が一切経を奉納したときが宋版】だから。
足利尊氏は鎌倉幕府の良心:北条泰時の先例に倣ってます。
つまり全国規模の仏教行事の際に奉納する一切経が宋版である事には、歴史的正当性(先例)があるってことです。

で、ここから大事よ・・・( ̄ko ̄)

足利尊氏の奉納した一切経(宋版)は、三井寺に収められてたのだΣ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll) ガビーン

もしかして秀吉は三井寺の足利尊氏奉納・宋版一切経を狙ってたのじゃないかしらん。
でも三井寺年表で触れてないところを見ると、秀吉の没収を免れたみたいだ・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)

で、次は戒壇の話^^b

推測その③(戒壇の快談^^)

秀吉は自分が神になることで、秀吉版祭政一致を構想してたと思う
「祭祀:豊国大明神、政治:豊臣政権」

その豊国大明神の別当寺を、戒壇院にしようとしたんじゃないかってのが自分の推測。
(戒壇については、つねまる様記事へのコメントで書いてたから省略^^;)

戦国期はユルユルと師匠に受戒して貰ってたけど、
本来の僧侶デヴューは各宗派認定の戒壇寺院で行うものなの。
武家の元服みたいなもので、それを経なければ僧侶になれない、とても大事な大事な、だ~~~~~~~~いじな儀式なの( ̄ω ̄A;アセアセ

豊国大明神の対と成る別当寺を戒壇院とするなら、全宗派超越の国立戒壇院(帝の認可が必要)を目指すはず。

あらゆる宗派を超え、僧侶になるには秀吉創設の国立戒壇院を通過しなければならなくなる。
各地に分院を作れば全国規模のネットワーク完成。

秀吉=豊臣政権は、別当寺=国立戒壇院を通じて、仏教界全てを支配下に治めることが出来る。

家康とは違う方法で仏教会を統制しようとしてたんじゃないかって事です(。-`ω-)ンー

そこでキーパーソンが三井寺の道澄(`・ω・´)キリッ
ごめん・・・もうちょっとだけ・・・il||li _| ̄|○ il||l

推測ラスト~~

推測の推測で申し訳ないんだけど、史料が何も残ってないし学術論文じゃないから、そこはご容赦。

で、戒壇バナは保留としても、少なくとも豊国大明神・別当寺の住持に道澄を考えてたんじゃないかしらん~~
って推測なわけ。

ちと僧階の言葉が浮かばないけど、
紫のバラじゃなくて衣の方で、唐織の袈裟着用を帝からOKされるくらいの地位って感じで、察して~~~

これは道澄でないとならない。
くどいけど摂関家たる近衛家の御曹司だから。
近衛家猶子となった秀吉とは、強引ながら縁続き。
秀吉自身は係累が少ないし、係累の出自も低すぎて使えない。

門跡寺院クラスの権威をもたせるには、それに準ずる出自と学識のある僧侶でないと不味い。
道澄は、それにピッタリはまるし、現に三井寺が法難?に遭ってるのに彼個人は重用されてる。

ということで、三井寺の受難は秀吉の宗教政策の根幹部分と大きく関わっている・・・という自分の話の理由(推測)でした^^

すっかり長文にになって、本当に申し訳ないです。
濃すぎるので表示するだけで返信は無理しないでください~~~(=人=)ホントニホントニモウ!
人様の記事に本当にすいません~~~m(__)m

時乃★栞様

ありがとー。お言葉に甘えて、返事はむりぃ~(^_^;)

ありがとうございましたm(__)m

考察だなんて大それたものではなく、
単にマニアを拗らせただけな上に、
アホボケありの拙いコメントに高評価をいただきありがとうございます。

更に人様の記事で持論をダラダラ書き込む非礼をお許しいただけただけでなく、ご紹介にまで預かり本当に恐縮しきりです^^;

メモもとらずに一気に書き込んだのもあり、措辞・推敲が拙くお恥ずかしい^^;

そこでなのですが、バラバラなコメントですと自分でも見づらいので、改めて自分のブログで考察記事としてまとめたいと思います。

その際に、今度は自分のほうから つねまる様ブログを紹介したいのですが、ご了解頂けますでしょうか?

もっと我侭を言うと、寺院の画像も借りたい・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ゲフゴホ・・・我侭はさておき、リンクの了解もらってから記事にしますので、宜しくお願いいたしますm(__)m

時乃★栞様

こんにちは。

コメントが来たときはびっくりしましたよー。
秀吉関連の寺社記事は、激しく時乃★栞様を刺激するんだなーっと。

このままうちで意見交換会が始まっても困るので、ご紹介兼ねてリンクさせて頂きました。

うん。ご自身の記事にした方がいいと思います。
もったいないよー。

ご用件のお返事はそちらに致しました。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

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◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

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