あい、それは武器。徳島からの移住と開拓
こんにちは。

淡路島洲本から北海道静内へ、明治4年5月に上陸した稲田家主従。

必死に原野を耕し、道を作り、畑作に着手します。
上陸の翌月から試作したのが、

本藩・徳島藩の名産、阿波藍でした。
明治12年より本格的に藍の製造に乗り出した稲田家家臣団に対し、
北海道の開拓に力を注ぐ開拓使は、
殖産興業策の一環として藍業にも注目し補助金などにより支援。

藍作・製藍事業は北海道の開拓において、
稲作が普及する以前の有力な畑作物となります。
また、北海道は、藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の生産地。

北前船で、北海道から徳島まで運ぶため、価格が時に高騰。
現地調達すれば安価で「鯨〆粕」を用いることが出来る目算もあり、
阿波藍の生産を得意とする徳島の人々が続々と移住し始めます。

◆仁木竹吉
藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の現地調達にいち早く着目。
(開拓使に提出した『殖民ノ儀ニ付願』)
明治12年。徳島県の麻植・美馬・三好の農民117戸360余人を
余市原野に入植させ、翌13年、この地において藍作を開始。
竹吉はこの後も徳島県人の移住の手引きを行い、
移住民は仁木村が手狭になると各地に転住していきました。
◆阿部興人
明治3年、庚午事変に連座(終身禁固)。後に許され県の役人に。
明治14年、実兄・滝本五郎と徳島興産社を設立。
明治18年。札幌郡篠路村の興産社農場に製造所を設置。製藍事業を拡大。
明治23年、北海道セメントを設立して社長に就任。
以降、政財界で大活躍。
彼等をはじめ様々な人物の尽力により、特に、静内・余市・有珠・札幌などでは盛んに藍作が行われました。
明治28年頃には、北海道の藍は、阿波藍を圧迫するほどの生産量に達します。
しかし、やがて伝統的な製藍業は、化学染料の合成藍に押されて衰退。

これは北海道の藍作ばかりではなく、
徳島の主要産業である藍作にも、大打撃。

県内の景気低迷は著しく、徳島県内の有力者による積極的な移住組織の創設や農場設置により一層、北海道への移住人口が増加。
徳島県から北海道への移住人口は、
明治34年以降、全国の府県の中で常に10位前後を占め、
戦前までの移住人口は、7万人にも達したのでした。
【稲田家家臣団の果たした役割】

阿波徳島藩内の確執から生じた庚午事変により

朝廷により、稲田家家臣達は士族となるかわりに、北海道への移住と開拓を命じられ

住み慣れた温暖な淡路島の洲本から

原野の北海道静内へ向かいました。
これはぱっと見、酷いわねぇ~なのですが、
明治新政府の中で士族の存在を重視していた岩倉具視達の士族支援政策でもありました。
稲田家家臣団は、もはや帰る場所がない中で必死に開拓に励み、

現在の静内の礎を築いたのです。
これは結果として、後に続く徳島からの移住者達の先例となり、お手本となったのでした。
《私見》
しかし彼等は、朝廷の命により必死に開拓を行ったのであって、
後の藍の栽培と製造に着目してからの入植とは異なる気がします。

狛犬さんが喋ったらいいのになー。
参考文献
徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm
『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)
『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)
洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」
いつも応援いただきありがとうございます。北海道を開拓するということ、とても筆舌に尽くしがたい苦労があったことと拝察します。徳島からの戦前までの移住人口が7万人にも達したとは驚きました。その徳島のお殿様、蜂須賀家もまた、新天地を求めて北海道の開拓に着手します。さぁて、どうなることやら。



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。心底励みになります。

淡路島洲本から北海道静内へ、明治4年5月に上陸した稲田家主従。

必死に原野を耕し、道を作り、畑作に着手します。
上陸の翌月から試作したのが、

本藩・徳島藩の名産、阿波藍でした。
明治12年より本格的に藍の製造に乗り出した稲田家家臣団に対し、
北海道の開拓に力を注ぐ開拓使は、
殖産興業策の一環として藍業にも注目し補助金などにより支援。

藍作・製藍事業は北海道の開拓において、
稲作が普及する以前の有力な畑作物となります。
また、北海道は、藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の生産地。

北前船で、北海道から徳島まで運ぶため、価格が時に高騰。
現地調達すれば安価で「鯨〆粕」を用いることが出来る目算もあり、
阿波藍の生産を得意とする徳島の人々が続々と移住し始めます。

◆仁木竹吉
藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の現地調達にいち早く着目。
(開拓使に提出した『殖民ノ儀ニ付願』)
明治12年。徳島県の麻植・美馬・三好の農民117戸360余人を
余市原野に入植させ、翌13年、この地において藍作を開始。
竹吉はこの後も徳島県人の移住の手引きを行い、
移住民は仁木村が手狭になると各地に転住していきました。
◆阿部興人
明治3年、庚午事変に連座(終身禁固)。後に許され県の役人に。
明治14年、実兄・滝本五郎と徳島興産社を設立。
明治18年。札幌郡篠路村の興産社農場に製造所を設置。製藍事業を拡大。
明治23年、北海道セメントを設立して社長に就任。
以降、政財界で大活躍。
彼等をはじめ様々な人物の尽力により、特に、静内・余市・有珠・札幌などでは盛んに藍作が行われました。
明治28年頃には、北海道の藍は、阿波藍を圧迫するほどの生産量に達します。
しかし、やがて伝統的な製藍業は、化学染料の合成藍に押されて衰退。

これは北海道の藍作ばかりではなく、
徳島の主要産業である藍作にも、大打撃。

県内の景気低迷は著しく、徳島県内の有力者による積極的な移住組織の創設や農場設置により一層、北海道への移住人口が増加。
徳島県から北海道への移住人口は、
明治34年以降、全国の府県の中で常に10位前後を占め、
戦前までの移住人口は、7万人にも達したのでした。
【稲田家家臣団の果たした役割】

阿波徳島藩内の確執から生じた庚午事変により

朝廷により、稲田家家臣達は士族となるかわりに、北海道への移住と開拓を命じられ

住み慣れた温暖な淡路島の洲本から

原野の北海道静内へ向かいました。
これはぱっと見、酷いわねぇ~なのですが、
明治新政府の中で士族の存在を重視していた岩倉具視達の士族支援政策でもありました。
稲田家家臣団は、もはや帰る場所がない中で必死に開拓に励み、

現在の静内の礎を築いたのです。
これは結果として、後に続く徳島からの移住者達の先例となり、お手本となったのでした。
《私見》
しかし彼等は、朝廷の命により必死に開拓を行ったのであって、
後の藍の栽培と製造に着目してからの入植とは異なる気がします。

狛犬さんが喋ったらいいのになー。
参考文献
徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm
『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)
『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)
洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」
いつも応援いただきありがとうございます。北海道を開拓するということ、とても筆舌に尽くしがたい苦労があったことと拝察します。徳島からの戦前までの移住人口が7万人にも達したとは驚きました。その徳島のお殿様、蜂須賀家もまた、新天地を求めて北海道の開拓に着手します。さぁて、どうなることやら。



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。心底励みになります。