南帝陵、国王神社、黒木御所跡。十津川の精神を示す史跡の数々

こんにちは。


青い空青い海。那智勝浦の海。


そこに一羽のやたがらす。


焼き鳥寸前。

このやたがらすを祖先とするのが、


そう、十津川警部なのよー!

ではなく・・・十津川村、ね。




壬申の乱(672)では、天武天皇(大海人皇子)の吉野御軍に参加した十津川の人々。

この折の戦功により、三光の御旗と

「とをつ川吉野の国栖いつしかと仕へぞまつる君がはじめに」

という御製を賜り、さらに租税を免じられます。
(これは明治まで継続します。)

このような歴史的背景から、十津川では勤皇の思いが育ちました。

数ある史跡や伝承には、ぶれることなく一途にそれを貫いた十津川の特徴を示すものが溢れています。



十津川村、上野地の「谷瀬の吊り橋」。

ここには、十津川村の特徴を示す二つの史跡。


【黒木御所跡】

谷瀬の吊り橋を渡った先から程近く。


南朝の大塔宮護良親王の仮のお住まい跡。



南北朝時代。十津川の郷は一貫して南朝方に属し忠誠を尽くします。


後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕の中心的な役割を果たした大塔宮護良親王。

十津川に落ちた大塔宮護良親王はここで守護され、雌伏の時を過ごしたのでした。



谷瀬の吊り橋は大にぎわいなのに、ここを訪れる人は皆無な寂しさ。


【天誅組上野地本陣跡】


谷瀬の吊り橋の駐車場の隅にある天誅組上野地本陣跡の石碑。


「明治の維新の魁」と言われる天誅組。

彼等が頼り、戦いに引き込んだのが、


十津川郷士。

幕末に俄かに流行った「尊王攘夷」による勤皇志士達よりも、
遥かに長く生粋の勤皇であった十津川の人々。

十津川の郷には迷惑この上なく。
天誅組への参加に反対した者が斬られたり、
反対に積極的に参加した者が責任を取って自害したり。


【国王神社・南帝陵】


谷瀬の吊り橋から車を走らせ、国道の狭い道がぎゅーっと曲がる頂点に


もうひとつ、十津川村の特殊性を示すものがあります。

鳥居をくぐって、石段と坂道を下りると


川原の河川敷に、プラント工場。

明治22年の大水害前には、現在の河川敷には耕作地と民家がありました。



川が異常増水しなければ、現在もここに建物を建てることが出来る、と。


何とも賑やかな場所でございます。

ここから矢印方向へ上がると


国王神社。


国王神社の扁額の文字は、大久保利通の手によるもので、
村の指定文化財です。

大久保利通に頼んだのは、天誅組に参加し生き延びたメンバー。
(名前を失念しましたが、資料館にその旨の記述あり)


あまりに巨大な覆屋で、びっくり。


社殿が並びます。



祭神は長慶天皇。


《長慶天皇とは?》

南北朝期の南朝側の天皇。

在位期間は、
1368/正平23年3月 - 1383/弘和3年冬。

在位したのかすら不明とされていましたが、宮内省による調査を経て、
大正15年(1926年)10月21日皇統加列の詔書が発布され、
長慶天皇は正式に第98代天皇として公認されました。

長慶天皇は北朝に対して強硬派でした。
そのせいか、天皇の晩年の動向を伝える史料がない。

そのため、宮内省(皇統加列の詔書の発布当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行ったが、陵墓関係の資料は発見に至らず。

陵は、昭和19年(1944年)2月11日(旧紀元節)、
京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定。公式形式は円丘。


長慶天皇は、弟の後亀山天皇に譲位後も南朝に味方する武将を訪ね回って南朝の勢力回復を図ったようで、全国各地に潜幸伝説が残され、墓所の伝承地も各地に点在。

十津川村の北東に隣接する野迫川村弓手原地区にも、


長慶天皇陵があります。

「長慶天皇陵。なぜ奈良県野迫川村に?」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-513.html


さて舞台を国王神社へ戻して。



境内に、細く急な石段。


鳥居の奥に南帝陵。



「(南帝陵は)ここ国王神社の境内にある。
長慶天皇は、文中2年(1373年)8月、御位を弟の御亀山天皇に譲られ、同年10月まで紀伊国玉川のお宮におられたが賊徒の襲来を受け、大和の天の川村、五色谷行在所へお移りになったところが、ここでも送徒に襲われたのでもはや運命もこれまでと同所の『廻り岩』でご自害なされた。

このとき近侍の者がご遺体を水葬に付したところ、
数日を経て御首が下流の十津川村上野地字河津の渕(現在地付近)へ流れ着き、毎夜水底より不思議な一条の光を発した。

これを見つけた村人が丁重にこのところへ葬り玉石を安置してお首塚と呼んだ、

以上が南帝陵の十津川村における伝説の概略である。」



「南帝陵」には、しっかり埋まった玉石。


(境内から見た川の景色)


「しかし歴史上、天皇は弘和2年(1382年)まで在位されていたことになっており大和誌によると、神社が長慶天皇の勅願宮になっていることなどから日時が神社創建のときと混同されて伝えられたと思われる。

いずれにしろ村民が600年来、長慶天皇の在位を確信しこれを奉祀してきたことに、十津川村の特殊性がある。」(現地説明書より引用)




国道が開通したことで、
道から見下ろす形になってしまった国王神社と南帝陵ですが、
前述したように河川敷に集落や耕作地があった昔は、
小高い場所に存在したのでしょうね。


青い水が印象的なこの川は、谷瀬の吊り橋下流で


風屋ダムを経て


十津川村を縦断し、


和歌山県へ。


大斉原とは、かつての熊野本宮大社の鎮座地。

十津川村に甚大な被害を与えた明治22年の大洪水は、
熊野本宮大社の社殿を破壊。

川とは、長く長く続くもの。
流域の広さは、大水害が及んだ地域の大きさ。


今は、社殿を高台に移動。

石の祠が残るここは、熊野本宮大社の中の一番神聖な場所。


熊野本宮大社から、熊野速玉大社への参詣道となる熊野川は


やがて熊野灘へたどり着くのでした。


川の流れと同じように長くなってしまいました。
おほほ。すみません。


いつも応援いただきありがとうございます。深い深い山の中の十津川村ですが、人々の精神は一貫して勤皇であり、歴史の流れの中に現れる時には、鮮やかとも潔いとも受け取る事が出来る動きを示します。十津川村の史跡を訪れる時に感じる清々しさは、他の場所にはないものだなぁと思います。十津川村のおじいちゃんやおばあちゃん達は、人懐こい笑顔で昔話や名所を教えて下さいました。不快な思いをしたことがないのも、十津川村へ何度も訪れたくなる要因なのかもしれません。
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No title

吊り橋は無理!高所恐怖症で(笑)
長慶天皇伝説はほんと各地にあるようで、今は治定されたため廃止となりましたが、青森にも長慶天皇御陵墓や長慶天皇妃菊代妃之墓があります。

No title

つねまるさん、有難うございました。

十津川村の物語、一幅の絵を見るよう、じゃなく一話の物語を読むようでした。
大海人皇子の時代なんて、十津川は山の果てみたいな所だったでしょうに。
黒木御所、行く人は少ないんですか。
護良親王、遠い昔は(もりながしんのう)と呼んでいた気がするんだけど、いまは(もりよししんのう)みたいですね。
非業の最期を遂げた親王さま。
訪ねることがあったら、ぜひとも行ってみなければ。その前に、あの吊り橋から墜落しなければね。
おまけに長慶天皇ですか!
北山村といい、あの辺りは別世界みたいな感じを覚えます。

No title

こんばんは。
「その道の程三十余里が間には、絶えて人里もなければ、或いは高峰の雲に枕を欹て、苔の筵に袖を布き、或いは岩漏る水に渇を忍びて、朽ちたる橋に肝を消す。山路元より雨なくして、空翠常に衣を湿す。」
熊野から黒木御所への道のりが太平記に記されてをりますが、つねまるさんのお寫眞を拝見させて頂きまして、なんとなく風景がイメージ出来ました。ありがたうございました。
大塔宮殿下がいらした黒木御所は今は川の底なんですね、大変な水害だつたのですね。改めて自然の怖さを感じられ、身が縮む思ひがしました。

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yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

だいじょーぶです。
高すぎてなにがなんだかわからないからー♪ヽ(´▽`)/

へぇぇぇ。青森までおでかけだったんですねー。
まぁ、ほんとにエネルギッシュな方。
だから余計に、ないことにされたのかしら。

フェリーから青森を眺めながら、おいしそうな地形を見て行きたいなーっと思って。

yuki様の記事を拝見していると、知らない、見たことないものの連続で。

昔は、寝台車の日本海が走ってたのになー。
あれ、便利だったのになー。

ひこーき、苦手。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

い、いえいえ、とんでもございません。
ほんのお口よごしでございます。

現在の国道が通っている付近が昔から栄えていた場所とは限りませんので、現代人の感覚で考えるとえらい遠い不便な山中でも、当時はそうでもなかったこともありそうです。

大海人皇子は吉野へ移動しましたが、十津川はその南西。

泣きべそかきながら林道のような道で移動したことがありますが、
予想外に近かったんですよ。

大津から吉野への距離よりも。

なので、大海人皇子は吉野へたどり着いた時にこそ、遠くまで来た、と思ったかもしれません。

谷瀬の吊り橋がアトラクションみたいになっているので、
訪れる方が誰しも歴史に興味があるとは限らず、残念な事に。

でも、とてもきれいにお手入れされていて、地元の方々が大切にされていることがよくわかります。

>護良親王、遠い昔は(もりながしんのう)と呼んでいた気がするんだけど、いまは(もりよししんのう)みたいですね。

うおう。読み方、漢字のままに、もりよし、で読んでました。
受験のための覚えかたは駄目ですねぇ。漢字さえ書けたらいい、て。

つ、つ、つ、墜落しなければー?

遠回りになりますが、車でも行ける内緒の道がありますからっ。

でも、これを渡れば黒木御所!っとわくわくしながら吊り橋を渡るのもオツですよー。

吉野、天川、十津川、北山村、本当に浮世の諸々を忘れる別世界。
とても気持ちいいところです。

橘右近大夫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

ちょうど、十津川へ行きたいぞー、行くぞーっと思っていた頃(体は北海道)に貴記事を拝見していたので、こちらこそとても勉強になりました。

おおお。太平記の言葉、ありがとうございます。

朽ちたる橋ではないですが(汗)、肝は消えます。

山の高さはそれほどでもありませんが、
深い谷に立ちますので、四方八方をものすごく高い山に囲まれた感覚になります。

文章を拝読すると降雨に遭っていないようで何よりです。
急峻な山から落ちる雨水は、あちこちで滝になりますもの。

大洪水の運ぶ土砂は、もはや人力で撤去することは無理で。
数百年間も大切にお守りしてきた場所を流されたり、埋没された地元の方々の落胆はさぞかし、と思います。

先に熊野本宮大社を調べたので明治22年の大水害は頭にありましたが、
それが十津川村の大洪水と北海道への移住には繋がっていなくて。

今回はっきりと点と点が繋がりました。

熊野へおでかけになる方は、直接向かってしまうのでとても残念。
十津川村へ、立ち寄って~(T_T)

内緒様

私も布団に負け。おはよ、です。

十津川警部は色男で、信濃のコロンボはあまえんぼー。
渡瀬恒彦と中村梅雀。

ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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