幕末と明治の阿波徳島藩。事件勃発前夜

国生み神話が残り

たまねぎが美味しい淡路島。
1615年に淡路国が阿波徳島藩領となって以降、
蜂須賀家筆頭家老の稲田氏が明治維新まで、洲本城代。

山の上の洲本城の石積は

いないいないば・・・残念石、こら。

とっても見事な山の上の洲本城がありますが、

洲本城代・稲田氏の時代は、ふもとに政庁を設置。

初代・稲田植元の供養塔。
植元は、徳島藩の祖、蜂須賀小六正勝の盟友といわれます。
父・貞祐が讒言により切腹した後、9歳で父の友人である蜂須賀正勝に預けられ、後に義兄弟の契りを交わします。
豊臣秀吉の四国征伐の際は、正勝と共に功を立てますが、
秀吉によるおなじみ「大名として取り立てる話」を辞退。
蜂須賀家の阿波入部に追従しました。

この関係が後々まで響きます。

稲田家の家紋は「丸に矢筈」。
二代・稲田示植の時に、淡路島由良城代。
手狭な由良から4年がかりで洲本へ引越し(由良引け)、洲本城代に。
以降、稲田家は代々、仕置職(警察、裁判、公事訴訟を司る)や洲本城代を務め、菩提寺は洲本の江国寺に。
蜂須賀家臣団5千余名のうち、約2千名(3千名とも)が稲田家家臣といわれるほどの勢力。

ここでポイント。
稲田家臣は、蜂須賀家と直接の主従関係にはありません。
藩主・蜂須賀家←家老・稲田家←稲田家家臣。

徳島市丈六寺。
例え初代が盟友であろうとも、稲田家家臣は、徳島藩士から「陪臣」「また者」などと呼ばれて差別され、両者の間には、常に感情的な対立があったといいます。
初代の頃はお互いにわかりあっていても、時の経過と共に「稲田家は他とは違う」意識だけが独り歩きしていったのでしょうか。

淡路島の賀集八幡神社の狛犬さんが笑っているうちに

時は流れ。
幕末。

第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の時代。(徳島市/興源寺。蜂須賀家墓所)
斉裕(なりひろ)は、将軍・徳川家斉の子(22男!)で、最後の将軍・慶喜の叔父。
幕府の陸海軍総裁に任じられ、且つ、天皇からの信任も厚かったとか。

徳島市/諏訪神社の狛犬ず。
藩主・斉裕の生い立ち等から、阿波徳島藩内は公武合体に統一。
一方、洲本の稲田家は、早くから主従ともに勤皇に努め、尊皇攘夷。
特に、稲田稙誠は行動的な尊皇派として知られ、
文久3(1863)年、積年の勤皇を賞され天杯を賜ります。
慶応4(1868)年。甥の稲田邦植は、錦旗護衛を命ぜられ、
有栖川宮総督東征下向に供奉。賞与を賜りました。
(同年、第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕は死去。享年48)

ただ、本藩(阿波徳島藩)の許可無し。よって、厳しく非難されます。
明治2(1869)年6月。版籍奉還。続いて秩禄処分。

《秩禄処分とは》
旧藩主は
華族となり、禄高は藩高のおよそ十分の一。
旧藩主は知藩事(天皇が任命する官吏)として、引き続き旧領の統治を行う。
家臣達は
家老級が一等士族で、1000石
中老級が二等士族で、200石
物頭は三等士族で、100石
平士は四等士族で、50石
《稲田さんちの場合》
14500石を領していた稲田家は、家老なので一等士族、1000石。
稲田家家臣は、家老の家臣、つまり「陪臣」なので、四等士族より低い郷付銃卒。
士族にも入ることが出来なかったのです。

これ、端から見れば、そりゃそうでしょ、なのですが。
思い出してごーらん~♪
幕末の稲田家主従が討幕運動で大活躍した事を。
これによって、佐幕派であった阿波徳島藩と藩主・蜂須賀家は明治維新後も無事生き延びたようなもの。

稲田家家臣の心の内は、こうかしら。
稲田家家臣、徳島藩からの分藩・独立運動を展開します。

明治3(1870)年。「庚午事変」の勃発です。

つづく。
参考文献
徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm
洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」
いつも応援いただきありがとうございます。どこの藩にも何らかの確執はあったことでしょうが、淡路島の洲本城代の稲田家と家臣、本藩である阿波徳島藩主蜂須賀家と家臣との間の確執は、どえらい事態に陥ります。この事件をきっかけとして、淡路島は阿波徳島から、本州の兵庫県の所属になります。幕末明治は音痴のためぼちぼちとしか進みませんが、何卒お付き合いくださいませ。



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。とても励みになります。