天誅組の河内勢。辞世は血で書きましょう

こんにちは。

天誅組第5回。


十津川郷士と別れ、十津川から退去し、遂に解散した天誅組の本隊。


十津川から南下した天誅組。
中山忠光達京都組と河内組との内部対立が起こります。

河内組は、本隊と別れ、十津川から南西に進みました(地図の白線)。


【河内組と水郡善之祐】

河内組を率いるのは、小荷駄奉行の水郡(にごり)善之祐。

河内国錦部郡甲田村(大阪府富田林市)の庄家水郡岩五郎の長子。


大阪の河内の人といっても、こうじゃない。


水郡家(本姓は紀)は、紀有常を遠い祖先とする家。

伊勢神部藩(水郡家の甲田村は伊勢本多伊予守の知行地)の代官または大庄屋を務めており、近世、通称姓を喜田及び水郡と称します。


水郡善之祐は、嘉永6年(1853)家を継ぎ、神戸藩(甲田村は伊勢本多伊予守の知行地)の士籍に列します。

20歳で柔術初伝の免許を受け、軍学を好み、近隣の者にも文武を学ばせており、その多くが彼に従って天誅組に参加。



善之祐は諸国の同志と交わり、河内でも同志を作っておりました。

文久3年(1863年)。
中山忠光等、京都方広寺に結集。


淀川を下り、堺に上陸。

菊の紋章の旗、幟、武具を用意して待つ水郡邸に合流。


(五條市HPより)

いわば、天誅組の河内の衣装係パトロン的な存在でもありました。



水郡善之祐は天誅組に長男の栄太郎、森本伝兵衛ら郷党10数名と百姓数十名を率いて参加。

河内組は天誅組の中でもよく戦いましたが、次第に中山忠光の指揮に疑問を抱き、再起を図るために離脱したのでした。


【河内組の戦い】


幕府軍の包囲網は14000人規模。


9月16日。

河内組は十津川郷の西南端、上湯川村の田中主馬蔵宅に到着。

あいにく主馬蔵は不在。

弟の勇三郎の案内で一行は、十津川から果無(はてなし)山脈を越えて紀州に入り、日置川を下り野中村(近露村、田辺市中辺路町)手前まで進みました。

しかし。

紀州藩兵に発見され、河内組2名が行方不明に。

仕方なく、再び上湯川村の田中主馬蔵宅へ引き返します。


野中村で別れた弟の勇三郎、びっくり。

翌日。

勇三郎が「猪肉をご馳走するよー」と、紀州との国境・引牛越えの峠近く(河俣)にある番小屋に案内。

猪肉と濁酒が運び込まれました。



久しぶりに痛飲した一行。

しかし。

熟睡中、囲炉裏に火薬を投げ込まれ爆発。


水郡善之祐の長男・栄太郎は、吉田重蔵、辻幾之助と共に重傷。

更に銃撃を受け行方不明者も出る始末。


実は既に、天誅組追討の回状が届いていたのです。

小屋を爆破した犯人は、上湯川村からの懸賞金二分で請け負った者。


河内組一行は峠を越え、小又川村(田辺市龍神村小又川)へ。



9月22日。

水郡善之祐、小又川村紀州藩守備隊へ自ら出向き、投降。

天誅組挙兵の理由を天下に明らかにするため、決意。



一行は9名。護送されるまでの2日間を農家の米倉で過ごします。



紀州藩小又川駐屯隊長は、吉本任。

吉本はこの心意気に感心。


内部は2階建。

農家の米倉に幽閉された一行に、酒を運ばせ負傷者の治療を受けさせるなど、護送されるまでの2日間、手厚い待遇をしました。



残念ながら、倉は昭和39年の大雨で倒壊したため復元されたもの。
「天誅倉」と呼ばれ和歌山県の指定文化財になっています。


中には天誅組が歩んだ軌跡の展示やビデオ上映、模型等。

このビデオが名作で。
天誅組の概要とこの辺りの地理がよくわかる作品。


紀州藩小又川駐屯隊長・吉本任の配慮により、思わぬ厚遇を受けた河内組。


彼らも倉から同じ光景を見たのでしょうか。



水郡善之祐。

その後10月に京都の六角獄へ。
翌年夏、禁門の変の混乱の中で斬られました。享年39歳。

墓所は甲田の養楽寺。


辞世

「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」

血文字の辞世。

天誅倉に残ります(現在は別場所に保管)。



水郡善之祐の長男・英太郎。
年少の為、放免され故郷・富田林市に帰りますが、勤王の志厚く父の遺志を継ぎます。

慶応3年12月鷲尾侍従の軍に従い、北越に奮戦。
明治3年東京府小属に任ぜられたが辞し、5年4月米国で勉学。
同7年11月宮内省属官、在職6年。
明治15年4月熊本始審裁判所検事補。のち浦和裁判所、20年7月検事に任官。以降大阪、和歌山、姫路、金沢等の地方裁判所検事。従五位勲五等に叙せられ、明治37年12月退官、奈良市で公証人。

著書に「水郡長雄の履歴」や「長義自叙伝」。

明治41年7月、死去。享年59歳。



参考文献

五條市
http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1198563238818/

東吉野村
http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tentyuguminohen.html


いつも応援いただきありがとうございます。お公家さんの中山忠光が指揮する本隊の不甲斐なさ。日頃より鍛練していた水郡善之祐達河内組にはさぞかし歯痒かったことでしょね。彼の辞世の複製が天誅倉に展示されています。龍神村の天誅倉は、再建ながら往時の面影を残し、ここの前から眺める山々は、きっと水郡達が見上げた景色と同じ。史跡の現地を訪ねる醍醐味は、これですね。
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ぽちぽちぽち、ありがとうございます。
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非公開コメント

No title

こんばんは♪
今日は雨ですが、少し涼しいですね。

「ジビエっていうんでしょ」で笑ってしまいました。
猪肉は美味しいですね(*´ω`*)
鹿肉は少し苦手でした…

ちゃんと復元され、残してくれているんですね。
ここのことは知りませんでしたが、行く機会があれば、是非訪れてみたいです。

No title

だめだな・・・自分。
子狛の「ぷぃ」ってしてるところの頬っぺをツンツンしたいwww

・・・ゲフゴホ・・失礼。
天誅組に派閥?分派?があるって知らなかったです。

文武両道の方からみれば、経験未熟で土地不案内で何やら教養だけはある名門公家の若僧の指揮は得心できないことばかりかと^^;
担ぐ神輿は無口がいい。

血文字の時世・・色んな言葉が詰まってそうです。
ぽちぽちぽちーーー☆

( ゚∀゚)・∵.

暫く読む方も軽めにしてたんですが、なんか血生臭い話になっていて浦島さん状態。
日本の歴史は元々血生臭いものですが、幕末は特に血生臭いですね。
血生臭いばかり打ち込んでなんかアレ。

天誅組かぁ。
知らなかったです。
歴ヲタでもなんでもないので知らないことの方が圧倒的に多いんですけども。
知ることは大事だなぁと。

No title

こんばんは。

天誅倉は再建だったんですか。
ビデオ、観たいですね。
天誅組っていま一つ分かりにくい所があるから、纏めてもらえると助かるものね。
京都組、最初からダメなのが分からなかったの??と言いたいけど、無理よね~
今だから言えることだものね。
『京都』という御旗があったからこど、天誅組が結成されたわけでしょうし。
『ここの前から眺める山々は、きっと水郡達が見上げた景色と同じ』
これ、本当に醍醐味でしょうね。
昔とほとんど変わってない、と思わせる所のようだし。

宙海様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうなんですよねー♪少し涼しくて幸せ( 〃▽〃)
でもやはり、お彼岸までは気が抜けませんねー。

ジビエ~。習いたての言葉、ジビエ~。
猪も鹿も、お料理屋さんで食べないと、ですね。

下手すると、こう、ライオンの檻の前でおにぎりを食べてるような。
こほん。

豚肉で充分。ごほごほ。

龍神村の大切な文化財ですから、必死に復元されたことかと。

ここねー、ここねー。
宙海様ならご存じだと思うのですが、あの酷道425号線の入口なんですよー。
この辺りはまだ楽々なんで、訪問したらUターンで。

行くなー、引き返せー!って、曲がり角でものすごく看板が叫んでいました。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

ごめんなさい、幕末音痴が極まっていてー。

この子狛ちゃん、ツンツン、つねつねっとしたくなりますね。
とーちゃんの足には乗ってない、ちょっとだけ優しい子です。

天誅組は、京都組の慣れない右往左往な指揮で、十津川郷士と河内組とが分裂したのも、活動期間を短くした原因かもしれませんね。

ここで攻めればいいものを、引いてしまったり。

また、脱藩浪士にしても、微妙じゃないかと。

>担ぐ神輿は無口がいい。

そうそう。無口で、ぜひ。

それにしても、幕末ってのは、ほんとに苦手なのだわ。

さかした様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
お疲れではありませんか?

はーい。珍しく血生臭いお話になってまして。
幕末の血生臭い時代の魁でございます。

天誅組。

最初、「天誅!」って上様が言うと、お庭番が血生臭いことする時代劇があったなーっと思っていたら。

あれは「成敗!」でした。おほほ。

危うく書いてしまうとこでした。

熊野へ向けて走り回っていた場所が舞台だったのかーっと、改めて知りました。
知ることは大事で、楽しいですね。

南へ向けてドライブしたい病が発症中です。

さかした様。季節の変わり目、ご自愛くださいませ。

No title

こんばんは
史跡に立って思うのは、やっぱり同じ景色を見ていたのだろうと・・・
同じ目線で見られるだけも胸がキュンと来ます。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

すみません、再建なんです。
龍神村教育委員会の見解では、倒壊したものの忠実に再建したので、和歌山県の指定文化財になっている、とのこと。

登録文化財は自己申告ですが、指定文化財なので、歴史的な価値はあるのかなーと思います。

このビデオ、ほんとに名作でした。
見ごたえがあったので、自分の勉強用に録画してくればよかったです。

訪問したのが、大阪市内で38度になった日で。
龍神村でも蒸し暑く、中でゆでダコになってました。
上から巨大な蜘蛛が落下してくるしー。もー。
無人の倉の中で、だんしーんぐ♪してました。

天誅組にしてみれば、よもや八月十八日の政変で根底からひっくり返るなんて思いもよらぬ事だったと思います。

そこで引き返せばまだ代官殺害程度で済んだものの、これだけ騒動が大きくなっては、救うに救えず、同じ勤皇の志を持つ面々も歯痒かったかもしれませんね。

京都ブランド、強力そうです。
まして、社長さんが、公家。ひゃー。

久しぶりに、「おおー」っと思う場所でした。
ビル、ありませんし。ほほ。

龍神温泉からとても近いので、もしこちらにお越しの際はぜひお立ち寄りくださいまし。

河内組が往来した果無山脈から野中(現・近露/ちかつゆ)は熊野古道のルートでもあります。

十津川村、とても重要な場所なんですね。

ミント様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

ミント様みたいに、どこでも、ほいほーいって登れたら楽しいだろうなーっと憧れておりまする。

くぅー。神社へ行って筋肉痛。

そうなんですよねー。史跡は、同じ景色、同じ空気、体感するのが一番です。きゅん。

私も山城で物見台に立って仁王立ち!とか、したいですわ。

でもうっかりして、石碑の撮影を忘れ、「山の緑ばかりで謎」な画像が連続してしまうのですわ。おほほほほほ。

この天誅倉のような背景がある悲しい場所では、ほんとに胸がきゅんきゅんします。

No title

つねまるさーん、こんばんわ~♪

文久3年、吉村寅太郎ら38人が蜂起するも、挙兵の大義名分を失った
天誅組は「暴徒」となっていく過程に興味を持ち、調べあさった記憶
があります。

主将の中山忠光が如何なものだったのでしょうね。
結果的に十津川郷士は被害者だったような気もします。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

天誅組、十津川にとっては、はた迷惑な話ですね。

しかし、天誅組にしても、八月十八日の政変で根底からひっくり返ったわけで。
「うおーい」っと突っ込みたかったかもしれませんねー。

主将に持ち上げられた中山忠光はじめ周囲に先を見通す力が少し足りなかったのか、それとも政変が青天の霹靂だったのか。

幕末音痴なので、そこまでは調べられませんでしたー。

天誅組に興味を持ったきっかけは、走り回っていた場所なので。
お気楽に取っ掛かって、ドツボ、ちーん、です。

おほほほほ。疲れましたー。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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