B29墜落地。71年間続く慰霊祭。龍神村殿原
こんにちは。
龍神温泉から南東へ。

和歌山県田辺市龍神村殿原の惣大明神。

黄色の鳥居。国道371号線の拡張に伴い、ここへ移動。

お社の前はこんな感じ。静かな静かなところ。
横には

「B29慰霊碑」
1945年5月5日午前10時過ぎ。
龍神村殿原上空。
日本の「紫電改」の攻撃により、轟音と共に米軍爆撃機「B29」が空中分解し、3つに分かれて墜落。
この「B29」は広島の呉を攻撃した帰途、日本の高射砲により被弾、大阪上空で積んでいた爆弾は全部破棄していたという。
分解した機体の一部は、殿原小学校の下の谷と右斜め向かい山、西の谷に落下。
「B29」には11人が搭乗し、うち7人が死亡。
(引用)「墜落現場は、辺り一面に山が焼け機体も焼けただれバラバラに飛び散っていた。また、もみじの木に引っ掛かって死んでいる米兵、小さな肉片になっている米兵など、ひどい状態でした。
あとで憲兵隊が来て、村人たちも手伝って遺体の始末をしたのですが、五体満足の遺体は3体しかなく、後の4体は形をとどめない有様で、皆で肉片を集めて穴に埋めたのです。」
(引用終り。『語り継ごう 日高の空襲』/御坊商工高等学校 社会研究部 地理歴史部編)
生存者のうち2名は墜落地点の龍神村で捕虜となり、龍神村役場に一晩留置。翌日、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵隊を経て、大阪の中部憲兵隊司令部に送られ、中部第22部隊に収容。
(引用)「この米兵は別々につながれ、私は1人の米兵の見張りをさせられました。その時、宮代の人が『わしの子も戦死した! 一回でいいからわしに突かせろ!』と興奮して揉み合いになりましたが、当時の在郷軍人会の寒川さんがやって来て、その人を制止しました。
寒川氏は『捕虜は大切に扱わねばならん。それは、敵の秘密を聞き出し、日本軍のお役に立てねばならんからである。一切は軍に任せよ』と言いました。」(引用終り。出典は同上)
捕虜に対しては、町中を連れて歩く時、石を投げる人、殴りかかる人もいたが、戦争に行った自分の息子を思い出し、白米のおにぎりを差し入れる人もいたという。
また、生存者の残り2名は山中を逃げ、9日に中辺路の小松原の麦畑で土地の主婦に発見され、捕虜となり、中部憲兵隊司令部へ送られた。

龍神村殿原の「B29慰霊碑」
地元住民たちは、「鬼畜米兵」の世相の中で、敵兵であったにも関わらず墜落時に死亡した米兵の遺体を埋葬し、木製の十字架を建て、彼等を弔った。
終戦前の6月9日のことである。

後に、殿原地区や一部の有志の寄付で石碑が建立された。
昭和28年の水害で地盤が崩れ、石碑も50センチほど滑り落ちて埋まってしまう。場所を変え再建されたのがこの慰霊碑。

戦後70年もの間、地元住民は毎年欠かすことなく、5月5日には石碑の前で仏式とキリスト教式による慰霊祭を営んでいる。
終戦前の6月9日に一回目の慰霊祭を行ったというから、今年は71回目の慰霊祭。

墜落した米軍爆撃機「B29」の破片。
昨年(2014/平成26年)、この慰霊碑の前で、命を落としたB29搭乗員のために米空軍の太平洋音楽隊が追悼演奏を捧げた。
殿原地区の住民達が毎年慰霊祭を行っていることを、和歌山市の元航空自衛官から聞いた米軍が、龍神村殿原地区の人々に「感謝の気持ちを伝えたい」と訪問したもの。
追悼式には音楽隊、県内の自衛隊関係者や地区住民ら約100人が集まり、日米両国の国歌を斉唱。
トランペットが鳴り響くなか、黙祷。
(引用)「殿原地区の安達俊夫区長(72)は『地域で細々と続けてきたことが米国に伝わってよかった。今日のこの音色は米兵たちの御霊にも届いたと思う』。音楽隊隊長のヘイリー・アームストロング大尉は『地域の皆さんには、感謝しきれないくらいの気持ち。殿原で続く慰霊祭の話を米国の多くの人に広めたい』と話した。」
(引用終り。『産経WEST』http://www.sankei.com/west/news/141020/wst1410200059-n1.html)

・・・と、ここまでは美談であるが、私は何とも居心地の悪さを感じるのである。

龍神村の米軍爆撃機「B29」墜落の話には、後日談がある。
捕虜となった4人のその後である。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。山々に囲まれた殿原の惣大明神。お社周囲を流れる川の音とセミの声だけが耳に届きました。終戦から70年。地元住民によりささやかながら絶やすことなく続けてこられた慰霊祭。続きます。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
龍神温泉から南東へ。

和歌山県田辺市龍神村殿原の惣大明神。

黄色の鳥居。国道371号線の拡張に伴い、ここへ移動。

お社の前はこんな感じ。静かな静かなところ。
横には

「B29慰霊碑」
1945年5月5日午前10時過ぎ。
龍神村殿原上空。
日本の「紫電改」の攻撃により、轟音と共に米軍爆撃機「B29」が空中分解し、3つに分かれて墜落。
この「B29」は広島の呉を攻撃した帰途、日本の高射砲により被弾、大阪上空で積んでいた爆弾は全部破棄していたという。
分解した機体の一部は、殿原小学校の下の谷と右斜め向かい山、西の谷に落下。
「B29」には11人が搭乗し、うち7人が死亡。
(引用)「墜落現場は、辺り一面に山が焼け機体も焼けただれバラバラに飛び散っていた。また、もみじの木に引っ掛かって死んでいる米兵、小さな肉片になっている米兵など、ひどい状態でした。
あとで憲兵隊が来て、村人たちも手伝って遺体の始末をしたのですが、五体満足の遺体は3体しかなく、後の4体は形をとどめない有様で、皆で肉片を集めて穴に埋めたのです。」
(引用終り。『語り継ごう 日高の空襲』/御坊商工高等学校 社会研究部 地理歴史部編)
生存者のうち2名は墜落地点の龍神村で捕虜となり、龍神村役場に一晩留置。翌日、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵隊を経て、大阪の中部憲兵隊司令部に送られ、中部第22部隊に収容。
(引用)「この米兵は別々につながれ、私は1人の米兵の見張りをさせられました。その時、宮代の人が『わしの子も戦死した! 一回でいいからわしに突かせろ!』と興奮して揉み合いになりましたが、当時の在郷軍人会の寒川さんがやって来て、その人を制止しました。
寒川氏は『捕虜は大切に扱わねばならん。それは、敵の秘密を聞き出し、日本軍のお役に立てねばならんからである。一切は軍に任せよ』と言いました。」(引用終り。出典は同上)
捕虜に対しては、町中を連れて歩く時、石を投げる人、殴りかかる人もいたが、戦争に行った自分の息子を思い出し、白米のおにぎりを差し入れる人もいたという。
また、生存者の残り2名は山中を逃げ、9日に中辺路の小松原の麦畑で土地の主婦に発見され、捕虜となり、中部憲兵隊司令部へ送られた。

龍神村殿原の「B29慰霊碑」
地元住民たちは、「鬼畜米兵」の世相の中で、敵兵であったにも関わらず墜落時に死亡した米兵の遺体を埋葬し、木製の十字架を建て、彼等を弔った。
終戦前の6月9日のことである。

後に、殿原地区や一部の有志の寄付で石碑が建立された。
昭和28年の水害で地盤が崩れ、石碑も50センチほど滑り落ちて埋まってしまう。場所を変え再建されたのがこの慰霊碑。

戦後70年もの間、地元住民は毎年欠かすことなく、5月5日には石碑の前で仏式とキリスト教式による慰霊祭を営んでいる。
終戦前の6月9日に一回目の慰霊祭を行ったというから、今年は71回目の慰霊祭。

墜落した米軍爆撃機「B29」の破片。
昨年(2014/平成26年)、この慰霊碑の前で、命を落としたB29搭乗員のために米空軍の太平洋音楽隊が追悼演奏を捧げた。
殿原地区の住民達が毎年慰霊祭を行っていることを、和歌山市の元航空自衛官から聞いた米軍が、龍神村殿原地区の人々に「感謝の気持ちを伝えたい」と訪問したもの。
追悼式には音楽隊、県内の自衛隊関係者や地区住民ら約100人が集まり、日米両国の国歌を斉唱。
トランペットが鳴り響くなか、黙祷。
(引用)「殿原地区の安達俊夫区長(72)は『地域で細々と続けてきたことが米国に伝わってよかった。今日のこの音色は米兵たちの御霊にも届いたと思う』。音楽隊隊長のヘイリー・アームストロング大尉は『地域の皆さんには、感謝しきれないくらいの気持ち。殿原で続く慰霊祭の話を米国の多くの人に広めたい』と話した。」
(引用終り。『産経WEST』http://www.sankei.com/west/news/141020/wst1410200059-n1.html)

・・・と、ここまでは美談であるが、私は何とも居心地の悪さを感じるのである。

龍神村の米軍爆撃機「B29」墜落の話には、後日談がある。
捕虜となった4人のその後である。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。山々に囲まれた殿原の惣大明神。お社周囲を流れる川の音とセミの声だけが耳に届きました。終戦から70年。地元住民によりささやかながら絶やすことなく続けてこられた慰霊祭。続きます。



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