高野山奥の院。墓所の鳥居と霊屋。

こんにちは。


こうやくん。おされバージョン。


高野山の入口、大門。ただし、裏側・・・(T_T)

高野山の町から唯一遠くを見渡すことができる場所。


そして、奥の院。ちょっと見えるのが一の橋。


一の橋付近。


奥に進んで中の橋。


奥へ進むほど巨木の森になります。


高野山町石。

九度山の慈尊院から奥の院・弘法大師御廟まで1町(約109m)毎に立てられた町石。216基。
小さいように見えますが、高さ3m強。


大岡越前が先祖供養のために建てた供養塔。


巨大な木の板塔婆は僧侶のもの。

奥の院には各大名家の墓所が立ち並びますが、目立つのは鳥居。


(左から)最上家、仙台伊達家、宇和島伊達家墓所。


昨年の主役、黒田家墓所。

大名の墓所は正面に鳥居を置くものが多いです。
これは修験道の墓所の考え方で、鳥居は俗界と霊界を分ける結界とか。



『修験道無常用集』(1745/延享2年)(①)

墓地における葬場の見取り図ですが、葬場の四方にそれぞれ鳥居門が設置され、それぞれ、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)。

この四方の鳥居といえば。


補陀洛渡海に用いたお船。
つまり補陀落渡海は船自身が渡海する者の葬場であった、と。



「四十九院」(『仏教民俗辞典』新人物往来社刊)より。(②)

画像①の左側は、修験道に定める「四十九院」という葬送施設の形態。
塔婆の数と配置が画像②。

(角塔婆)6本+(板塔婆)3本×2+14本×2+15本=49本。



いかがでしょう。

※無論、全国では多種多様。奥の院でも統一しておりません。


【霊屋(たまや)・廟所】


秋田・佐竹家墓所。

佐竹氏は河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
武田氏に代表される甲斐源氏と同族。

この奥に


佐竹義重霊屋。国重文。

これ、私の目線。石に埋もれてます。


矢印が二つの境目。

お隣にあった、私の背より高い場所から撮影。少しは五輪塔の大きさが伝わるといいのですが。


一間四方、切妻(きりづま)造、檜皮(ひわだ)葺。


正面の扉、向かって右の柱。

「常陸国佐竹為義重逆修造立之」

つまり、佐竹義重の生前に造られた霊屋、ということ。

左の柱には「慶長四己亥十月十五日(※1599年)」の銘。

造立の年代がはっきりしている点で貴重。


佐竹義重霊屋、側面。

周りを47本の塔婆形の角材で囲んでいる珍しい形の霊屋という点で貴重。


佐竹義重霊屋ではさらにその外を五輪塔が囲みます。


次に。


「上杉謙信霊屋」。上杉謙信と景勝の廟墓です。国重文。

『謙信』の名は、1574(天正2)年45歳で上洛した時、高野山にも訪れて、その時に贈られた法名といわれており、位牌刻名には、下記のように記されています。

(右)『為権大僧都法印謙信』(謙信)
(左)『為権大僧都法印宗心』(景勝)


建物は江戸時代初期のものと推測され、小規模ながら霊屋としては古い時代に属するとか。


外壁は黒色。


上杉謙信供養所であり佐竹家菩提寺である寺院は


清浄心院。

天長年間(824-834)に弘法大師空海が草創。
初め喜多坊と称し、後、勅命で現「清浄心院」に改めたと伝わります。

清浄心院といえば、


世俗の名前は斎藤時頼。出家して滝口入道。

横笛への思いを断ち切るために高野に登り、身を寄せた寺院です。



結城秀康(向かって右)と母・於万の方(同、左)の石廟。

この二つの石廟は、木をほとんど使用せず、瓦や壁、柱や棟木、扉まで全て石造。

1601年。秀康自身が母の生前に石廟を建立。
1607年。秀康は父・家康と母・於万の方に先立ち他界。
秀康の石廟は彼の長男・松平(復姓した)忠直により建立。

母・於万の方は秀康死後、出家して長勝院。1619年72歳で他界。


以上、高野山奥の院でした。

※以前訪問した際の画像も使用してます。


参考文献
各霊屋の解説は現地説明書による。
『仏教民俗辞典』(新人物往来社刊)
『高野山』(総本山金剛峯寺/編集・㈲高野/発行)


いつも応援いただきありがとうございます。高野山のお寺巡りはテーマを決めて3箇所程度に絞るようにしておりまして。何故なら帰宅後の写真整理がわけのわからん状態に・・・こほん。今回はもちろん、へたれ維盛君のお世話係滝口入道。平家と源氏で、金剛三昧院。奥の院では源氏と坂東繋がりで佐竹義重霊屋へ。何とも不思議な佇まいに圧倒されました。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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No title

補陀落渡海の知識がまた深まりました。

そして四十九院とかもまた初めて知りました。そういえばお墓の形式をじっくりと意識しながら見たことなかったなー。

それより何より塔婆で囲まれた佐竹家の霊屋が、私にはとても珍しく思いました。何ていうか…怖ささえ感じます。そんな時はこうやくんで癒されないとね♪

No title

こんばんは。

最後の結城秀康。
一体誰が、この御廟を建てたんだろう?と思ったれ、さすがつねまるさんですねぇ。
ちゃんと書いて下さって。
忠直って、あの「忠直卿行状記」の忠直ですよね?
家康は、何であんなに秀康に冷たかったんだろう。
何とも可哀想になるんですよ。
やっぱり、お万の方に対する愛情が薄かったんだろうか。

yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

補陀落渡海は、船の構造ひとつを見ても、釘で外から打ち付けられる扉など、少し怖い印象があります。

四方の鳥居は、お社の鳥居とは異なり何かを封じ込めているのかと思ったほど。

四十九院は、土葬の風習が残る地域ではごく最近まで見られた葬送の形式で、屋根のついた鳥かごのようなものもあります。
これは民俗学の方の分野になるかと思います。民俗の方では数多く事例があり、東西の違いなどが細かく分類されております。

奥の院の墓所から時代を下っている資料しか見当たらなかったのですが、概ね同じ考えのようです。

佐竹義重の霊屋は、踏み入れる場所がないほど五輪塔が密集していて、独特の空気に包まれていました。
伊達政宗の廟所や徳川家廟所とは、全然違いますね。

ほんと、こうやくんがいてくれてよかったですー。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

わからないことが多くて、せっせと調べたものは書いておかないと忘れるものでー。
えへー。ほめられちゃった~(≧∇≦)~嬉しいな。

結城秀康。

秀吉のもとへ人質として出され、可愛がられたものの、秀吉に実子が生まれ、結城家へ養子に入った秀康。

よその子になった以上、家康も迎え入れるわけにはいかなかったのでしょうか。
よくできた人物であったようですね。

秀康について、手前味噌ではございますが、こちらに。

「母への想い。結城秀康と徳川忠長。高野山奥の院。」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-247.html

忠直、「忠直卿行状記」の忠直君です。さすが万見仙千代様。

こちらのお話ではちょいとえらいことになってる忠直ですが、ひとつひとつ史実を追っていくと全く異なる人物像が見られるかもしれないですね。

忠直、大河で出るのかなー。出してやってほしいなー。

No title

おされバージョン、かわいい~^^/

大岡さま・・・・供養塔、先祖の由来とか書いてるのかな?
彫るから草書じゃなくて楷書のはず・・・
旧漢字が手ごわい程度の変体漢文なら、読めそうな気がする・・・ウズウズ・・・|供養塔|・ ̄)じぃー

>いかがでしょう。

わーい、水野勝成だ~好きよ~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

>四十九院

九九(7×7)じゃなかったんだ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

卒塔婆仕様の霊屋・・・・
現代っ子(←?)はホラーものに毒されてるんで妙に怖いですぅ・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

ん~~やっぱ比叡山より高野山がいいなぁ(←武家墓所目当て動機ALL煩悩)
数日泊まって温泉しながら、まったり見学したい。
(※修行したいじゃないところが・・・爆)

充実したテーマ取材にポチポチポチーーー☆
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