高野山熊谷寺。平敦盛を討った熊谷次郎直実の寺
こんにちは。

高野山の奥社、立里荒神社。

22kmほど離れた、かつて一の鳥居があったという場所は

熊谷寺の横。
ということで、今日は熊谷寺。
【由緒】(熊谷寺HPより引用)
「当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。
圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。」

お寺の名前の由来は、蓮生法師こと熊谷次郎直実。
1184年/寿永3年2月7日、一の谷における源平の合戦。
敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた敦盛を呼び返した熊谷次郎直実。

『せん方波に駒を控へ。呆れ果てたる。有様なり。かかりける處に。』
後ろより。熊谷の次郎直実。のがさじと。追っかけたり敦盛も。
馬引き返し。波の打物抜いて。
二打三打(ふたうちみうち)は打つぞと見えしが馬の上にて。
引っ組んで。波打ち際に。落ち重なって。」(謡曲『敦盛』キリ)

馬上で組み合うも、波打ち際に落馬。熊谷次郎直実に組み伏せられた敦盛。

直実には敦盛と同じ程の年齢の息子の小次郎直家がいました。
奇しくもこの日の未明。
敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にしながらも、敵中の事だ、と、直家の傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入したのでした。
その時の親心の切なさを思い起こし、暫し躊躇したものの、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。

熊谷寺・圓光堂前の直実像。
直実。世の無常を感じ、出家。
当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられます。
そして、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年。
蓮生法師(直実)は、敦盛の追福の法要を思い立ち、法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった熊谷寺(当時は智識院)に寄寓。
敦盛の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛の菩提を祈ったのでした。

高野山奥の院。敦盛と直実五輪塔。
蓮生法師(直実)は関東へ向かう時にも西方極楽浄土にいる人々に、「お尻を向ける失礼があってはならない」と馬上で後ろ前に座り礼拝しながら向かったエピソードがあるそうで。 (熊谷寺HPより)
・・・まっすぐな人なんですねぇ。

左が敦盛、右が直実。
蓮生法師(直実)は、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年に熊谷寺(当時は智識院)へ登って以来、高野山に留まり念仏に専心。

玄関にこうやくん。
1201年/建仁元年。鎌倉将軍実朝が、源平両氏の戦死者大追悼会を高野山で営みます。
1208年/承元2年9月14日。蓮生法師(直実)、往生。

その後、直家(一の谷の合戦時「父よ、この矢を抜いてたべ」と言った息子。生存してました…)は亡父の遺命により登山。
堂宇を改造修築し、追孝の法要を営みました。
これを知った将軍実朝は、蓮生法師の詠んだ「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進。
約束の念仏は申すまでにそうろうよ
やろうやらじは弥陀のはからい(蓮生法師)
この因縁により「熊谷寺」と改称し現在に至ります。

法然上人姿見の井戸。
ある日。
法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生の三人は、庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写し、自らその像を彫りました。
その像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」。

直実の像がお出迎え。

(クリックで拡大)
圓光堂の本尊は法然上人。不動明王も祀るため熊谷寺の護摩堂も兼ねるそうです。

おはよ。

ほんとねー。

雨、降らせてください。
そんな歴史を積み重ねた熊谷寺ですが、明治21年3月の高野山大火により、堂舎悉く消失。
よって、現在目にする建物は再建のものです。

触れると頭痛が治まるらしい兜、あります。
熊谷寺の場所は、奥の院の一の橋から徒歩数分。

(クリックで拡大)

前面道路。

滝口入道が一時滞在した清浄心院の前を通ると

奥の院・一の橋口です。
ここから入ってすぐ左に

立花宗茂墓所とか、最上家とか伊達家とか。
・・・敦盛の供養塔が近いです。
高野山熊谷寺
《住所》和歌山県伊都郡高野町高野山501番地
参考文献
『高野山』(総本山金剛峯寺/編集・㈲高野/発行)
『熊谷寺HP』http://www.kumagaiji.jp/jp/
いつも応援いただきありがとうございます。今回改めて敦盛と直実の墓所にお参りしましたが、やはり、お隣同士ってのは複雑な感じ。熊谷寺には宿坊がありますので、精進料理、特に高野山名物の白ゴマと吉野葛だけで作った胡麻豆腐も堪能出来ますよー。わさび醤油でいただくと、般若湯がすすみます。うふふ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

高野山の奥社、立里荒神社。

22kmほど離れた、かつて一の鳥居があったという場所は

熊谷寺の横。
ということで、今日は熊谷寺。
【由緒】(熊谷寺HPより引用)
「当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。
圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。」

お寺の名前の由来は、蓮生法師こと熊谷次郎直実。
1184年/寿永3年2月7日、一の谷における源平の合戦。
敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた敦盛を呼び返した熊谷次郎直実。

『せん方波に駒を控へ。呆れ果てたる。有様なり。かかりける處に。』
後ろより。熊谷の次郎直実。のがさじと。追っかけたり敦盛も。
馬引き返し。波の打物抜いて。
二打三打(ふたうちみうち)は打つぞと見えしが馬の上にて。
引っ組んで。波打ち際に。落ち重なって。」(謡曲『敦盛』キリ)

馬上で組み合うも、波打ち際に落馬。熊谷次郎直実に組み伏せられた敦盛。

直実には敦盛と同じ程の年齢の息子の小次郎直家がいました。
奇しくもこの日の未明。
敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にしながらも、敵中の事だ、と、直家の傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入したのでした。
その時の親心の切なさを思い起こし、暫し躊躇したものの、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。

熊谷寺・圓光堂前の直実像。
直実。世の無常を感じ、出家。
当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられます。
そして、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年。
蓮生法師(直実)は、敦盛の追福の法要を思い立ち、法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった熊谷寺(当時は智識院)に寄寓。
敦盛の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛の菩提を祈ったのでした。

高野山奥の院。敦盛と直実五輪塔。
蓮生法師(直実)は関東へ向かう時にも西方極楽浄土にいる人々に、「お尻を向ける失礼があってはならない」と馬上で後ろ前に座り礼拝しながら向かったエピソードがあるそうで。 (熊谷寺HPより)
・・・まっすぐな人なんですねぇ。

左が敦盛、右が直実。
蓮生法師(直実)は、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年に熊谷寺(当時は智識院)へ登って以来、高野山に留まり念仏に専心。

玄関にこうやくん。
1201年/建仁元年。鎌倉将軍実朝が、源平両氏の戦死者大追悼会を高野山で営みます。
1208年/承元2年9月14日。蓮生法師(直実)、往生。

その後、直家(一の谷の合戦時「父よ、この矢を抜いてたべ」と言った息子。生存してました…)は亡父の遺命により登山。
堂宇を改造修築し、追孝の法要を営みました。
これを知った将軍実朝は、蓮生法師の詠んだ「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進。
約束の念仏は申すまでにそうろうよ
やろうやらじは弥陀のはからい(蓮生法師)
この因縁により「熊谷寺」と改称し現在に至ります。

法然上人姿見の井戸。
ある日。
法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生の三人は、庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写し、自らその像を彫りました。
その像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」。

直実の像がお出迎え。

(クリックで拡大)
圓光堂の本尊は法然上人。不動明王も祀るため熊谷寺の護摩堂も兼ねるそうです。

おはよ。

ほんとねー。

雨、降らせてください。
そんな歴史を積み重ねた熊谷寺ですが、明治21年3月の高野山大火により、堂舎悉く消失。
よって、現在目にする建物は再建のものです。

触れると頭痛が治まるらしい兜、あります。
熊谷寺の場所は、奥の院の一の橋から徒歩数分。

(クリックで拡大)

前面道路。

滝口入道が一時滞在した清浄心院の前を通ると

奥の院・一の橋口です。
ここから入ってすぐ左に

立花宗茂墓所とか、最上家とか伊達家とか。
・・・敦盛の供養塔が近いです。
高野山熊谷寺
《住所》和歌山県伊都郡高野町高野山501番地
参考文献
『高野山』(総本山金剛峯寺/編集・㈲高野/発行)
『熊谷寺HP』http://www.kumagaiji.jp/jp/
いつも応援いただきありがとうございます。今回改めて敦盛と直実の墓所にお参りしましたが、やはり、お隣同士ってのは複雑な感じ。熊谷寺には宿坊がありますので、精進料理、特に高野山名物の白ゴマと吉野葛だけで作った胡麻豆腐も堪能出来ますよー。わさび醤油でいただくと、般若湯がすすみます。うふふ。



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