観世流の名家「梅若家」旧跡。京都府南丹市。
今日は、能のおうちのお話。

観世流の名家に、梅若家、というおうちがあります。

京都府南丹市日吉町殿田の曹源寺。丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺。
梅若家は織田信長や徳川家康に仕えた日吉の領主であり、また、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、観世流に合流して観世流梅若家となった能楽の名家です。
当代の梅若玄祥先生は、今、絶対に舞台を見てほしい素晴らしい先生です。
その梅若家の旧跡のある南丹市を訪ねました。

橘諸兄の子孫の梅若家ですが、当初は山城国梅津村(京都市右京区梅津)にあり、10世「従五位下梅津兵庫頭友時」より梅津氏を名乗りました。
「梅若」の名乗りは後の事。

目の前の殿田川に架かる橋には、能のレリーフ。
若い女性の姿ですが、装束を片方脱いでいるのは「狂女」を表します。
流れる水を指しているので、能「蝉丸」の、蝉丸の姉の逆髪(さかがみ)かな?

見た通りの、じいさま。
漁翁の姿です。この髪型が、尉髪。

毎回、せっせと結うのです。
梅若家37世(梅津友時より数えて28世)の「梅若太夫波多景久」が、16歳の折に「芦刈」を御土御門天皇の御前で奉じた折に「若齢にしてその技に通ず」と右少弁藤原俊名を介し「若」の字を賜り、一門も梅津から「梅若」に改姓。

「梅若」の姓となった頃は、既に丹波国大志麻(綾部市大志麻)に本拠を移し、綾部から和知・周山・美山・殿田など丹波地域に一門が広く居住していた梅津(梅若)家。
丹波猿楽「梅若」座となった後。
上林(現在の美山町宮脇)に居住していた広長(「若」を賜った景久の子か孫かは不明)は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。
彼が信長より500石を与えられた土地「世木庄」が、現在、曹源寺がある場所。
ところで。中世丹波地域は、言わずと知れた山城密集地域。

曹源寺の背後の山には殿田城があります。屋根が見えるのが曹源寺。
安土で家康を饗応した際の能楽お披露目では、梅若家は共に舞台に立った幸若大夫と比べて不出来である!っと叱られました(『信長公記』)。
とにかく、舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。
本能寺の変。

(高野山奥の院。豊臣家墓所)

(高野山奥の院。明智光秀墓所)
梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めた光秀方に付いて山崎の合戦を戦いますが、負傷し、ご他界。
亡骸は曹源寺に葬られます。
光秀が秀吉に敗れた後、光秀に付いたため、梅若家は一時没落。
梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。

(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)
そんな激動の中世を生きた梅若家。

(曹源寺から見た梅若家屋敷跡方面)
今も南丹市日吉町殿田には屋敷跡と墓所が残ります。

この上に

「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。
梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)以後、梅若家は代々上稗生を領していましたが、維新後は東京に移住しました。

明治20年、梅若実(55世梅若六郎)が、梅若の始祖「梅津兵庫頭友時」の千年祭を行ない、梅若屋敷跡の旧墓所に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立。

昭和50年10月には「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を55世梅若六郎が建立しています。

とにかく舞台が素晴らしい梅若玄祥先生ですが、とても面白い方で、
漫画「ガラスの仮面」の劇中劇『紅天女』を能にしたり、様々な舞台に挑戦しておいでです。
テレビであれ、公演であれ、どんな形でもいいので、ぜひ一度。
いつも応援いただきありがとうございます。自慢ひとつ。学生時代に、能楽堂の虫干しのお手伝いをしていたら、梅若玄祥先生がケーキを差し入れてくれましたの~(≧∇≦)ウハウハ♪優しい先生なのですー。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。