「故郷へは錦を着て帰る」実盛のお洒落決意
追手の迫る幼い義仲を、木曽まで逃がした斎藤別当実盛。
彼は平家軍が散り散りになる中、一騎残り、義仲軍の手塚太郎光盛と対峙。

実盛は、敢えて名乗らず、手塚光盛と組み合います。
「さては汝が為によい敵ぞ。但し和殿下ぐるにはあらず。
存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ。寄れ組まう手塚。」
「あつぱれ己は日本一の剛の者に組んでうずなうれ」
手塚太郎光盛は、実盛に対し「鎧の草摺引き上げて二刀刺し弱る処に組んで落」します。
気持ちは勇ましいものの、年を老い、戦い疲れ手負いであった実盛は手塚太郎光盛の郎等により、首を落とされたのでした。
手塚光盛は、実盛の首を義仲の前へ持参します。
義仲には、この首は、斎藤別当実盛だとはわかったものの、自分が幼い頃に既に白髪混じりだったのだから、お髭や髪がこんな真っ黒なはずはない、おかしいなー?と、乳兄弟の樋口兼光を呼び出し確認させました。
樋口次郎ただ一目見て『あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり』とて涙をはらはらと流す。
「あな無残。長井斎藤別当にて候ひけり」・・・実盛に間違いありません。

義仲の恩人である実盛を自分の手勢が討ち果たしてしまったのです。

なんてこったー!!義仲、号泣!!
・・・となるはずが、この点は『平家物語』は実にあっさりと流しています。
木曾殿「それならば今は、七十にも余り白髪にもならんずるに、鬢鬚の黒いはいかに」と宣へば、樋口次郎涙を押さへて
「さ候へばこそ、そのやうを申し上げんと仕り候ふが、あまりにあまりに哀れに覚えて、不覚の涙のまづこぼれ候ひけるぞや。
されば、弓矢取る身は予てより、思ひ出の詞をば聊かの所にても遣ひ置くべき事にて候ふなり。
実盛常は兼光に逢うて物語りにし候ひしは
『六十に余つて軍の陣へ赴かば、鬢鬚を黒う染めて若やがうと思ふなり 。
その故は若殿原に争ひて先を駆けんも大人げなし。
また老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし。』と申候ひしか。」
実盛ならば、年は七十にはなっているだろうに、なぜお髭や髪が真っ黒なの?と、義仲。
それを言おうとしたけれど、実盛の事があまりに、あまりに、哀れに思えて不覚にも涙がこぼれた兼光。
弓矢取る身は、常日頃より誰かに自分の考えを言い残しておくべきなのだなぁ、と言う兼光。
かつて実盛が兼光に語った言葉。
「六十過ぎて軍勢に加わる時は、髭も髪も黒く染めて若くしようと思う。
何故なら、若者達と争って先を駆けるのも大人げないし。
また、老武者だわ、くす、もうけたー、と、人が侮るのも口惜しいからなぁ」

「まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ。」と申しければ木曾殿「さもあるらん」とて洗はせて見給へば
白髪にこそなりにけれ。

本当に染めているのだろうか、と、実盛の首を池で洗ったところ、白髪の姿が現れたのでした。
(義仲主従と実盛の話はここで終わります)
さて。この戦いの時の実盛の装束。
「赤地の錦の直垂に、萌黄威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが(略)」
対峙した手塚太郎光盛は、この「錦の直垂」から大将かと思ったと、義仲の前へ実盛の首を持参した時に述べています。
「光盛こそ奇異の曲者組んで討つて参つて候へ。大将かと見候へば、続く勢も候はず。侍かと見候へば、錦の直垂を着て候ひつるが『名乗れ名乗れ』と責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。」
この日、実盛は大将が着用する錦の直垂を身に付けていました。
なぜ?
出陣前に実盛は、大臣の宗盛に申し出ます。
「実盛が身一つの事では候はねども、
先年坂東へ罷り向かつて候ひし時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだに射ずして駿河国の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老いの後の恥辱ただこの事候ふ。」
「実盛一人に限った事ではないが、先年、坂東へ出征(富士川の戦い)の時は

平家軍は、水鳥の羽音に驚いて敗退した。
この事は、実盛にとって老いの後の恥辱、これに尽きる」と。

この度の北陸への出陣は、討死する覚悟の実盛。
実盛は、近年は領地を武蔵国長井に与えられ、居住していましたが、元は越前国の者。

そこで、彼は宗盛に願い出ます。
「事の譬への候ふぞかし『故郷へは錦を着せて直ぐ帰る』と申せば、あはれ錦の直垂を御免候ひかし」と申しければ、
大臣殿「優しうも申したるものかな」とて錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし。
「『故郷へは錦を着て帰る』とも言うので、ぜひ錦の直垂の着用をお許しください」と実盛が言うと、宗盛は『殊勝な事を申した』と、錦の直垂の着用を許可したのでした。

昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当はその名を北国の巷に揚ぐとかや。
朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ
昔、漢の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当実盛はその名を北国の地に上げたという。
朽ちもせぬ空しい名前だけをそこに留めおいて、骸は越路の果ての塵となってしまったことは、哀れなことである。
実盛・・・( ノД`)…
去んぬる四月十七日、十万余騎にて都を出だし事柄は何面を向かふべしとも見えざりしに、今五月下旬に都へ帰り上るには、その勢僅かに二万余騎。
流れを尽くして漁る時は、多くの魚を得るといへども明年に魚なし。
林を焼いて狩る時は、多くの獣を得るといへども明年に獣なし。
後を存じて少々は残さるべかりけるものを、と申す人々もありけるとかや。

四月十七日、北陸へ出陣した十万余騎は。
五月下旬に都へ帰って来た時には、僅か二万騎。
控えの軍勢を都へ残さなかった平家軍は、この残存兵力で源氏と立ち向かわなくてはならなくなったのでした。

義仲、頑張りました。

総大将、維盛。ハリノムシロ。
『平家物語』「実盛最期」おしまい。
実盛を討った、諏訪神氏出身の手塚太郎光盛(金刺光盛)の居館跡は、諏訪では「霞ヶ城(かすみがじょう)」として伝わっているとか。
らんまる様が訪問し、記事にされていますので、ぜひ。
◆篠原の戦いで義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取ったという義仲の忠臣手塚太郎光盛の居館跡
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「手塚館 (木曾義仲史跡関連 上田市手塚)」
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-713.html
◆桜城に残る諏訪一族と義仲に関する伝説
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「桜城2 (木曾義仲史跡関連 下諏訪町)」
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-719.html
参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
いつも応援いただきありがとうございます。『平家物語』では、実盛と義仲のお涙頂戴物語ではなく、坂東武者の実盛を描きたかったのかな。富士川の戦いと北陸方面の戦い(倶利伽羅峠の戦い等)において、総大将の維盛を補佐した実盛は、昔救った義仲の手勢によって討死。大敗を喫した維盛、これからどうするのでしょうねぇ。義仲、いよいよ上洛します。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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