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『方丈記』養和の飢饉。経正は秘曲を奏す平家の出陣


富士川の戦いで、ボロ負けした平家軍。総大将は維盛。

この1180/治承4年と、翌1181/治承5年(※治承5年7月14日、養和へ改元)。

未曾有の飢饉が西日本を襲います。

養和の飢饉です。


【『方丈記』養和の飢饉】

「また養和のころとか、久しくなりて覚えず。
二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。
(略)
さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。
京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。」


養和元年及び翌年の気象異常により、西日本は凶作、そして大飢饉。
都では全ての物資を他国に頼っており、他国での不作は都に即影響。


朝廷では飢饉を鎮めようと、様々な祈祷と特別な修法が行われるも、そんなもん効きません。


「築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。
いはんや、河原などには、馬・車の行きかふ道だになし。」


道端の餓死者の骸は数知れず、馬や車の通る道を塞ぎ、都には腐臭が充満。


阿弥陀寺の「亡者のひとつ鐘」は大渋滞。


「あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。
濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。」


薪の中に、朱や金のついた木があった。


これは、薪もなくなり、古寺の仏像・仏具を盗み薪としたのだった。


「またいとあはれなることも侍りき。
去りがたき妻・夫持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。
その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも彼に譲るによりてなり。

されば、親子あるものは定まれることにて、親ぞ先立ちける。
また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ、臥せるなどもありけり。」


互いを大切に思う者達というものは、その愛情が強くて深い者の方が、必ず先に死ぬ。
何故なら、我が身は二の次。ようやく手に入れた食料は、大切な相手に譲るからである。

それ故に、親子ならば親が先に死ぬ。

母親は既に死んでいるのに、あどけない子供が母のお乳を吸いながら、横になっている姿もあった。




・・・このような状況ですから、都に溢れる骸を埋葬することも追い付かず、仁和寺の隆暁法院は、死体の額に「阿」の文字を書くことで何とか成仏させようと腐心します。

4月、5月だけでも、都の中心部だけで、42300以上もの骸を数えます。
都でさえこの有り様。まして、諸国ではどれ程の数になることか。


この飢饉の初年である1180/治承4年4月9日。
以仁王が諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下し、


8月。令旨をを受け取った源頼朝が伊豆で挙兵。


9月。北陸で木曽義仲が挙兵。

武田信義・一条忠頼(信義の嫡男)・安田義定等、甲斐源氏も挙兵。

9月5日、源氏の挙兵に対して、清盛は東国追討軍の派遣を決定。
総大将は維盛。副将、忠度。先鋒は侍大将の伊藤忠清。

甲斐源氏等と、富士川で合戦・・・・前に、敗退した維盛達。


木曽義仲は、翌1181/治承5年に平家方の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げます。

反平氏の活動が活発化した北陸在地豪族の鎮圧のため、平家は平通盛・平経盛らが率いる軍を派遣しますが、鎮圧に至らず帰京。

養和の大飢饉の影響が深刻化し、鎮西以外への出兵が出来なかったのです。


【『平家物語』平維盛のリベンジ】

1183/寿永2年。飢饉の影響が薄れてきたこともあり、平家、立つ。

この時の追討の宣旨は「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣に仰せ追討せしむべし」(『玉葉』)。

現地で構えているのは木曽義仲ですが、彼のことなどまだ頭になかったようです。


4月17日。平維盛を総大将として北陸に出陣。



大将軍には、小松三位中将・平維盛、越前三位・平通盛。
副将軍には、薩摩守・平忠度、皇后宮亮・平経正、淡路守・平清房、三河守・平知度。
侍大将には、越中前司・平盛俊、上総大夫判官・伊藤忠綱、飛騨大夫判官・伊藤景高、河内判官秀国、高橋判官・平長綱、武蔵三郎左衛門有国(先鋒)。以上大将軍六人、総勢十万余騎。

4月26日。越前国に入ります。(9日もかかるんだー)


とにかく、ごはん!ごはん!

兵糧の供給地である北陸道の回復です。



「片道を給はつてければ、逢坂関より始めて路次に以て逢ふ権門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪ひ取る。

志賀唐崎三川尻真野高島塩津貝津の道の辺を次第に追捕して通りければ、人民堪へずして山野に皆逃散す。」(『平家物語』巻七「北国下向」)


往路の費用として税の徴収権を与えられており、逢坂関を越えてからは、道中で会った権力者や裕福な家の納税物資さえも恐れずすべて奪取。
志賀、唐崎、三川尻、真野、高島、塩津、貝津の道に沿って略奪しながら行軍したので、人々はたまらず山野に逃亡。


ところが。さすが平家の公達。

伏兵、あらわるるるる。

4月18日。
総大将の維盛と通盛が進軍する一方、副将軍の忠度、経正、清房、知教は琵琶湖湖北の近江国塩津貝津に控えていました。

維盛の従兄弟である経正は、詩歌管絃の道に長じた人物。



「経正 『さる事あり 。いざや参らん』 とて藤兵衛有教安衛門守教以下侍五六人召し具して、小舟に乗り竹生島へぞ参られける。」(『平家物語』巻七「竹生島詣」)

こらー。竹生島クルーズすなー!


「経正『それ大弁功徳天は往古の如来法身の大士なり。
弁才妙音二天の名は各別なりとは申せども、本地一体にして衆生を済度し給へり 。
一度参詣の輩は所願成就円満すと承る 。頼もしうこそ候へ』
とて静かに法施参らせて居給へば、漸う日暮れ居待の月指し出でて海上も照り渡り、社壇もいよいよ輝いて、まことに面白かりければ、常住の僧共 「これは聞ゆる御事なり」とて御琵琶を奉る。」(同)


経正は、「大弁功徳天は、遥か昔からの如来であり、法身の大菩薩である。弁財天・妙音天は各自別(本地仏)の名を持っているといえども、本源は一体で、衆生を救う。
一度参詣した者は所願成就円満であると聞く。なんとありがたいことか 」と静かに読経。

だんだん日が暮れ、居待の月が上がって湖上を照らす頃になると、社殿もますます輝いて、なんとも趣深かったので、常住の僧達が「これでしょ、これ」と言って琵琶を渡した。



「経正これを取つて弾き給ふに、上玄石上の秘曲には宮の内も澄み渡り、まことに面白かりければ、明神も感応に堪へずや思しけん。

経正の袖の上に白龍現じて見え給へり。」(同)


上玄・石上の二つの秘曲を奏すると、あまりの素晴らしさに明神も感動して経正の袖の上に白龍となって現れた。



「経正有難う忝く覚えて悦びの涙塞き敢へ給はず。
やや暫く御琵琶を差し置きかうぞ思ひ続け給ふ。

千はやぶる神にいのりのかなへば やしるべも色のあらはれにけり

目の前にて朝の怨敵を平らげ凶徒を滅ぼさん事疑ひなし 、と悦んでまた舟に乗り竹生島をぞ出でられける。」(同)


まもなく朝廷の怨敵を征伐し、凶徒を退治できることは間違いない!っと喜んで竹生島を後にした。



こらこらこらー。


こんな事がありつつ、4月26日、越前国に入った平維盛。

火打城を取り囲みます。


川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれた火打城。(※画像はイメージで・・・)

困っていたところへ、内通者。その名は平泉寺長吏斉明。


人工の湖の弱点を聞き、堰を取り去り、決壊。


火打城を落とし、平家は加賀国へ。

珍しく平家方の勝利です。ぱふー♪

ところが、5月9日明け方。

加賀国より軍を進め般若野で兵を休めていた平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人である今井兼平軍の奇襲を受けます。

平盛俊軍、退却。

ここで、平家軍は、平維盛を総大将とする10万騎の大軍を二手に分けます。

能登国志雄山に平通盛、平知度の3万余騎。
加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎。

さぁ、いよいよ倶利伽羅峠の戦いです。



いつも応援いただきありがとうございます。『方丈記』の飢饉の描写は非常に生々しいですが、「またいとあはれなることも侍りき」の部分は、ああ、そういうことなのかと気づかせてくれるものがあります。さて。リベンジに出た総大将の平維盛以下10万騎。木曽義仲と対峙して大丈夫なのでしょうか?琵琶湖で琵琶を奏してほっくほくぅ~♪な、のんきさんも一緒だとは、いささか不安な出立です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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始まりましたネ

悲運の維盛シリーズ、毎回楽しみにしております。
養和の飢饉は中部関東にも影響しており、義仲も二年間兵を動かす事が出来なかったようです。

「平家物語」については全くのトーシロなので、「語り本」とか「読み本」に分類されるなどとも知らず「盛衰記」は別の本かと思っており恥ずかしい限りでございます・・(汗)

ここは貴殿の玄人さばきにお任せしましょう。
確か燧城は山城だったような気が・・・気のせいか(笑)

らんまるせんせ

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

こっそり始まりましたー。今日はせんせの記事と重なったようでー。
へーえー、こういうとこなのねー、ほほー、っと、楽しんでおります。

しかし、改めて調べると、義仲はポッと出たのではなく、あちこちへ気をつかいながら、地道に頑張ってますねー。

>養和の飢饉は中部関東にも影響しており、義仲も二年間兵を動かす事が出来なかったようです。

なるほど。この時の義仲、一気に来れば済みそうなのに、足踏みしてますものね。ありがとうございます。

日本全国が飢饉だったのかなぁ。

現在も、畿内というものは物を産み出すよりも、物が集まるところのような気がしています。
実際に住んで驚いたのが、地産地消の少なさでした。

「盛衰記」は、あれだけオヒレハヒレが着けば、もはや別の本かと・・・(o^-^o)

事実を探求するより、「平家物語」の情緒を味わうのがこの時代の楽しみ方かと思っております。
そう思うと、平家は困ったちゃんばかりで、とても楽しいです(^^)


>確か燧城は山城だったような気が・・・気のせいか(笑)

山城ってなぁに?おいしいの?・・・おほほ。

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鍵コメ様

こんにちは。お心遣い、ありがとうございます。
言葉ってのは何かと難しいものですね。
でも、思わぬ所にお気付きになって、こちらも驚いて勉強になります。
気をつけてはいるのですが、すこんっと忘れていることもあり。
また、よろしゅう。です。

内緒ちゃん様

こんにちは。いつもあたたかいお気遣いありがとうございます。
にゃー。それはいかんっ。
プールでテクテク・・・しても、辛いときは辛いですものね。
お大事になさって下さいませ。
私はたんたんと好きなものへ迫りますわ。うふふふ。

No title

つねまるさん、こんばんわー♪

10万の兵を繰り出した平家軍との戦いが始まりましたね。

破竹の勢いで京都を目指して進軍する木曾義仲が楽しみです♪

まぐろ醤油なるものがあるのですか。 濃い口なのでしょうか。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
お返事が遅れまして、ごめんなさい。

木曽義仲はお気の毒な人ではありますが、それ故か人気者ですね。

あ、まぐろ醤に気付かれちゃったわ(≧∇≦)

那智勝浦で購入したんですが、九州の醤油のように、うっすら甘いんです。
まぐろ丼に付いていたおだしと似ていて、お刺身にすごーく合って美味しくてー。

海辺好き、お刺身好き、なので、旅にはワサビと共に常備してますの。
おほほほ。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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