『平家物語』平維盛。水鳥の意地悪、富士川の戦い
こんにちは。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(『平家物語』)

見目麗しく、「桜梅少将」と讃えられた平維盛。1158/保元3年生。

平維盛は、清盛の嫡孫。
父・重盛は清盛と先妻の間に生まれました。
時子(二位尼)に比べ身分が低く、出自不明。
父・重盛と同様に、「桜梅少将」維盛の母もまた、官女とはされるものの出自不明。
正妻の子である弟の資盛の方が初めは昇進が早く。
13歳でようやく嫡男として認められます。(『玉葉』)

1177/安元3年の鹿ケ谷の陰謀(平家打倒の陰謀事件)で、重盛の妻の兄であり、維盛の妻の父である藤原成親(後白河法皇の側近)が殺害され、平家一門の中で親子共々立場は微妙に。
1179/治承3年7月、父・重盛が清盛に先立ち病死。
有力な後ろ楯のない維盛と兄弟達は、平家一門の嫡流でありながら、次第に孤立。
そんな中。
1180/治承4年4月9日。以仁王が諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下し、

8月。令旨をを受け取った源頼朝が伊豆で挙兵。

9月。北陸で木曽義仲が挙兵。
武田信義・一条忠頼(信義の嫡男)・安田義定等、甲斐源氏も挙兵。
この年は、極端に降水量が少なく、旱魃により農産物の収穫量が激減した年でもありました。
【富士川の戦い】
9月5日、源氏の挙兵に対して、清盛は東国追討軍の派遣を決定。
総大将は維盛。副将、忠度。先鋒は侍大将の伊藤忠清。
が。

実は出発前から、維盛の足を引っ張る奴あり。
侍大将の伊藤忠清。
出発日の日が悪いと言い出し、出立したのは約一ヶ月後。ぎゃー。
大将軍権亮少将維盛は生年二十三。容儀帯佩絵に画くとも筆も及び難し 。
重代の着背長唐皮といふ鎧をば、唐櫃に入れて舁かせらる。
路中は、赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗り給へり。
副将軍薩摩守忠度は紺地錦の直垂に黒糸威の鎧着て、黒き馬の太う逞しきに沃懸地の鞍を置いて乗り給へり。
馬鞍鎧甲弓矢太刀刀に至るまで、光輝くほどに出で立たれたればめでたかりし見物なり。(『平家物語』巻第五「富士川」)
麗しい出立の姿です。
しかし。

旱魃により、近畿地方は大変な飢饉。
兵糧どころかまともに訓練もできないほどでした。
東進する道中で、各地の武士を参戦させ、人数こそ増えていった平家軍ですが当然その士気は低く、「寄せ集め」の大軍。
10月18日。平家軍、富士川の西岸に布陣。
出立が遅れる間に甲斐源氏側は軍勢を増やし、やる気満々。
それを知って逃亡する者が平家の軍勢から多数。
結果「水鳥の羽音に驚いて戦わずして平家は逃げた」事態に。
その夜の夜半ばかり。
富士の沼に幾らもありける水鳥共が、何にかは驚きたりけん、一度にはつと立ちける 。
羽音の雷大風などのやうに聞えければ(略)
あまりに周章て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。
我が馬は人に乗られ、人の馬には我れ乗り、或いは繋いだる馬に乗つて馳すれば杭を繞る事腹踏折限りなし。
その辺近き宿々より、遊君遊女共召し集め遊び酒盛りけるが、或いは頭蹴破られ或いは腰踏み折られて喚き叫ぶ事夥し。(『平家物語』巻第五「富士川」)
甲斐源氏の動きや周囲の状況を見れば、平家軍は、あえて合戦をしなかったとも言われますが、とにかく、維盛達は敗戦。

福原に帰り、清盛じーちゃんに叱られる、の巻。
1181/養和元年閏2月。清盛が病没。
3月。維盛は、墨俣川の戦いで叔父の重衡らと共に大将軍となり、勝利。
祖父・清盛他界後は、清盛三男の宗盛(維盛の叔父)が一門の主導権を握り、維盛と兄弟達は前にも増して、孤立。
実際、公卿昇進は宗盛の長男・平清宗に1年遅れています。
さぁ、次は木曽義仲との戦です。どうなる、平維盛!?
いつも応援いただきありがとうございます。絶妙に不運な平維盛物語。清盛の嫡孫にあたるものの、既に子供の頃から異母弟に負けつつ人生のスタートです。桜梅の少将と絶賛された頃が人生のピークだったのかしら。がんばれ、平維盛!



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(『平家物語』)

見目麗しく、「桜梅少将」と讃えられた平維盛。1158/保元3年生。

平維盛は、清盛の嫡孫。
父・重盛は清盛と先妻の間に生まれました。
時子(二位尼)に比べ身分が低く、出自不明。
父・重盛と同様に、「桜梅少将」維盛の母もまた、官女とはされるものの出自不明。
正妻の子である弟の資盛の方が初めは昇進が早く。
13歳でようやく嫡男として認められます。(『玉葉』)

1177/安元3年の鹿ケ谷の陰謀(平家打倒の陰謀事件)で、重盛の妻の兄であり、維盛の妻の父である藤原成親(後白河法皇の側近)が殺害され、平家一門の中で親子共々立場は微妙に。
1179/治承3年7月、父・重盛が清盛に先立ち病死。
有力な後ろ楯のない維盛と兄弟達は、平家一門の嫡流でありながら、次第に孤立。
そんな中。
1180/治承4年4月9日。以仁王が諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下し、

8月。令旨をを受け取った源頼朝が伊豆で挙兵。

9月。北陸で木曽義仲が挙兵。
武田信義・一条忠頼(信義の嫡男)・安田義定等、甲斐源氏も挙兵。
この年は、極端に降水量が少なく、旱魃により農産物の収穫量が激減した年でもありました。
【富士川の戦い】
9月5日、源氏の挙兵に対して、清盛は東国追討軍の派遣を決定。
総大将は維盛。副将、忠度。先鋒は侍大将の伊藤忠清。
が。

実は出発前から、維盛の足を引っ張る奴あり。
侍大将の伊藤忠清。
出発日の日が悪いと言い出し、出立したのは約一ヶ月後。ぎゃー。
大将軍権亮少将維盛は生年二十三。容儀帯佩絵に画くとも筆も及び難し 。
重代の着背長唐皮といふ鎧をば、唐櫃に入れて舁かせらる。
路中は、赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗り給へり。
副将軍薩摩守忠度は紺地錦の直垂に黒糸威の鎧着て、黒き馬の太う逞しきに沃懸地の鞍を置いて乗り給へり。
馬鞍鎧甲弓矢太刀刀に至るまで、光輝くほどに出で立たれたればめでたかりし見物なり。(『平家物語』巻第五「富士川」)
麗しい出立の姿です。
しかし。

旱魃により、近畿地方は大変な飢饉。
兵糧どころかまともに訓練もできないほどでした。
東進する道中で、各地の武士を参戦させ、人数こそ増えていった平家軍ですが当然その士気は低く、「寄せ集め」の大軍。
10月18日。平家軍、富士川の西岸に布陣。
出立が遅れる間に甲斐源氏側は軍勢を増やし、やる気満々。
それを知って逃亡する者が平家の軍勢から多数。
結果「水鳥の羽音に驚いて戦わずして平家は逃げた」事態に。
その夜の夜半ばかり。
富士の沼に幾らもありける水鳥共が、何にかは驚きたりけん、一度にはつと立ちける 。
羽音の雷大風などのやうに聞えければ(略)
あまりに周章て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。
我が馬は人に乗られ、人の馬には我れ乗り、或いは繋いだる馬に乗つて馳すれば杭を繞る事腹踏折限りなし。
その辺近き宿々より、遊君遊女共召し集め遊び酒盛りけるが、或いは頭蹴破られ或いは腰踏み折られて喚き叫ぶ事夥し。(『平家物語』巻第五「富士川」)
甲斐源氏の動きや周囲の状況を見れば、平家軍は、あえて合戦をしなかったとも言われますが、とにかく、維盛達は敗戦。

福原に帰り、清盛じーちゃんに叱られる、の巻。
1181/養和元年閏2月。清盛が病没。
3月。維盛は、墨俣川の戦いで叔父の重衡らと共に大将軍となり、勝利。
祖父・清盛他界後は、清盛三男の宗盛(維盛の叔父)が一門の主導権を握り、維盛と兄弟達は前にも増して、孤立。
実際、公卿昇進は宗盛の長男・平清宗に1年遅れています。
さぁ、次は木曽義仲との戦です。どうなる、平維盛!?
いつも応援いただきありがとうございます。絶妙に不運な平維盛物語。清盛の嫡孫にあたるものの、既に子供の頃から異母弟に負けつつ人生のスタートです。桜梅の少将と絶賛された頃が人生のピークだったのかしら。がんばれ、平維盛!



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