『平家物語』と補陀落渡海。平維盛

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
ご存じ、『平家物語』冒頭。

補陀落渡海を果たした僧侶達の中に、平清盛の嫡孫である平維盛(これもり)の名前が残ります。

後白河法皇50歳の祝賀の際に、四位少将であった維盛が、桜の花を烏帽子に差し「青海波」を舞ったその姿は
「露に媚びたる花の御姿、風に翻る舞の袖地を照らし、天も輝くばかりなり」
「深山木の中の楊梅(※山桃)とこそ覚ゆれ 」(『平家物語』巻七「熊野参詣」)
皆うっとり。維盛を、「桜梅少将」と讃えます。
或は、「光源氏の再来」。
青海波は『源氏物語』第七帖「紅葉賀」で、光源氏が頭中将と共に舞った曲。

父・重盛は、時子(二位尼)の子ではなく、先妻の子。この先妻、あまり身分の高い人ではなかったようです。
重盛が清盛よりも先に他界し、有力な後ろ楯のない維盛と兄弟達は、平家一門の嫡流でありながら、次第に孤立。
祖父・清盛他界後は、清盛三男の宗盛(維盛の叔父)が一門の主導権を握り、維盛と兄弟達は更に孤立。
こんな背景から、後半の『平家物語』では、維盛の
結末から言えば、彼は源氏との合戦にて落命したのではなく、所謂、入水自殺。
補陀落渡海を果たした僧侶達の中に、平維盛の名前が含まれる由縁。
彼の死の間際は、熊野と深く関わります。

一の谷の敗戦前後。
維盛は、わずか3人の供のみを連れて、屋島の戦線を離脱。
知り合いの滝口入道を頼り、高野山で出家。

熊野三山を参詣。
そして、1184/寿永3年3月28日。

小舟で漕ぎだし、補陀落渡海を果たしたのでした。享年27。
平安の世であれば、優雅な公達として日々を楽しく過ごしたことでしょうに。
『平家物語・維盛くんの苦悩』はじまりはじまりです。
いつも応援いただきありがとうございます。補陀落渡海の赤いお舟での船出ではなく、維盛は小舟から海へ身を投じますが、補陀落を目指し渡海したことには変わりはないということでしょうか。絶妙に不運な彼のお話にしばらくお付き合いくださいませ。



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