『吾妻鏡』の補陀洛渡海。鎌倉武士というもの

那智権現の末寺のひとつ、補陀洛山寺。本尊は十一面千手観音。

観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。

「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に描かれた補陀洛山寺と熊野三柱大神社と補陀洛渡海へ出航する光景。
那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。
平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。
この、「鎌倉時代の1人」である智定房(ちじょうぼう)のお話が『吾妻鏡』に記されています。

※『吾妻鏡 5』 (岩波文庫 )より引用
【 『吾妻鏡』天福元(1233)年5月27日条】
「武州(※執権・北条泰時)御所に参り給う。一封の状を帯し御前に披覧せらる。
申せしめ給いて曰く、去る三月七日、熊野那智浦より、補陀落山に渡る者有り。智定房と号す。これ下河辺六郎行秀法師なり。
故右大将家下野の国那須野の御狩の時、大鹿一頭勢子の内に臥す。幕下殊なる射手を撰び、行秀を召出して射る可きの由仰せらる。仍って厳命に従ふと雖も、其の箭中(あた)らず、鹿勢子の外に走り出づ。小山四郎左衛門尉朝政射取り畢んぬ。
仍って狩場に於いて出家を遂げて逐電し、行方を知らず。近年熊野山に在りて、日夜法華経を読誦するの由、伝へ聞くの処、結句此の企てに及ぶ。憐れむ可き事なりと云々。
而るに今、披覧せしめ給ふの状は、智定、同法に託して、武州に送り進ず可きの旨申し置く。紀伊の国糸我庄より之を執り進じて、今日到来す。
在俗の時より出家遁世以後の事、悉く之を載す。周防前司親實之を読み申す。
折節祇候の男女、之を聞きて感涙を降す。
武州は昔弓馬の友たるの由、語り申さると云々。
彼の乗船は、屋形に入るの後、外より釘を以て皆打ち付け、一扉も無く、日月の光を観るも能わず。只だ燈に憑る可し。三十箇日の程の食物並びに油等、僅かに用意すと云々。」(引用終わり)

意訳します。
天福元(1233)年5月27日。(承久の乱の2年後)
執権・北条泰時(1183~1242)のもとに紀伊国糸我荘より一通の書状が届く。
泰時は将軍・藤原頼経(1218~1256)の前で周防前司親実に読み上げさせた。

3月7日、熊野那智の浜より補陀落山に向け渡海した智定房は、元は下河辺六郎行秀という御家人であった。

かつて、下野国・那須野での狩りの際、勢子に取り囲まれた一頭の大きな鹿がいた。
源頼朝は特に上手な射手である行秀を呼び、大鹿を射るように厳命。

ところが、行秀が放った矢は命中せず、大鹿は勢子の外に走り出してしまった。
行秀に代わり、小山四郎左衛門尉朝政が討ち取った。

頼朝の前で失態を演じた行秀はその場で出家し、行方不明に。

近年、行秀は智定坊と名乗り、熊野山で日夜、法華経を読誦していることは噂で聞いていた。
その彼が、最終的に補陀落山への渡海に及んだというのだ。

まことに憐れむべきことである。

この書状は渡海前の智定坊が、泰時に送り届けるよう規則に従って言い置いたもので、紀伊の国糸我庄より今日、届いたものである。
そこには在俗の時より出家遁世以後のことが、事細かく記されていた。
周防前司親実が読み上げると、周囲の人々は感涙し、泰時は昔、行秀とは弓馬の友であったと語り憐れんだという。

智定坊の乗った船は屋形に入った後、外から釘を打ちつけられて一つの扉も無いものだった。

そこには日月の光が入ることもなく、燈火だけを頼りとした。
三十日程の食料とわずかばかりの油を積んでいたそうである。

以上、『吾妻鏡』による、元御家人・下河辺六郎行秀の補陀落渡海のお話でした。
参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
『仏教民俗辞典』(仏教民俗学会(編)/新人物往来社)
『吾妻鏡』 (岩波文庫 )
いつも応援いただきありがとうございます。みなさーん、鎌倉幕府の良心、北条泰時ですよー♪・・・すみません。とーちゃんの義時は永井路子さんの小説『炎環』の台詞「私じゃ駄目ですか」の一言で心臓を鷲掴みにされたのですが、地味に頑張る金剛くん=泰時も好物です。深謀遠慮の彼がわざわざ傀儡の将軍・藤原頼経の前でこのお手紙を披露したのは、鎌倉武士というものを教えようとしたのかな、と思ったり。鹿を射損ねた恥ずかしさで出家して、補陀落渡海。極端な例ではあるような。



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