補陀洛渡海の補陀洛山寺。補陀洛浄土へいざ出航
こんにちは。

補陀洛山寺。
山号は白華山。本尊は十一面千手観音。
本尊は国の重要文化財に指定され、伝・平安後期の作。
天台宗。
仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。

「補陀洛山寺」の初見は京都の青蓮院の12世紀から15世紀にかけての記録を集大成した『門葉記』。
この中の『妙香院荘園目録』(961年/応和元年6月5日付)に「補陀落寺領」とあります。
那智権現の末寺のひとつで、明治の神仏分離の際は、那智山の仏像仏具類は、この補陀洛山寺に移されました。
今はかなり内陸になっていますが、昔は渚がすぐそば。

お寺の前にある、浜の宮跡。

復元ながら、ぞわーんっとする、補陀洛渡海に用いたお船。
【ふだらくとかいって、何だー?】

観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。
那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。
平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。

妙法山阿弥陀寺の

火生三昧もまた、捨身行。
こちらは上照上人が衆生の為に身を犠牲にしたお話でした。
【ふだらくって、どこだー?】
こんなとこ。

滋賀県彦根市の龍澤寺「ふだらくの庭」
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住む浄土のこと。(wikipediaより)
『華厳経』では、インドの南端。日本では、南の海の果て。

確かに、南の海の果ては、那智勝浦から行くのが近いですな。

(龍澤寺「ふだらくの庭」)
「中央の島が補陀落山、一番中央の石が観音様の立姿、その右横の船の形をした石が僧侶慧萼が渡った船(現実世界と仏の世界の渡し船)、白砂は大海、砂紋はさざ波、奥の杉垣が水平線、さらに奥の生垣が雲海を表す石庭」(龍澤寺「ふだらくの庭」パンフより抜粋・引用)
この南海の彼方の補陀落を目指して船出するのが「補陀落渡海」。
那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などもまた、補陀洛渡海の霊場。
【補陀落山寺の補陀落渡海】
補陀落山寺における補陀落渡海の始まりは、「熊野年代記」によれば「清和(天皇) 貞観十(年) 戊子 十一月三日、慶龍上人補陀落に入」とあり、868年/貞観10年以降。
補陀洛山寺は補陀洛渡海へ向かう僧達の拠点となっていました。

「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に、補陀洛山寺と熊野三柱大神社と補陀洛渡海へ出航する光景が描かれています。

補陀洛渡海のお船。出航の時は白帆を立てます。
渡海僧は、小さな屋形の中へ、30日分の食料と灯火のための油と共に乗りこみます。

遊覧船ではないので、窓もなし。

そして、出て来られないように扉には外から釘を打ち込みます。
4つの鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門。

『修験道無常用集』(1745/延享2年)
墓地における葬場の見取り図ですが、葬場の四方にそれぞれ鳥居門が設置され、それぞれ、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)。
つまり、補陀落渡海は船自身が渡海する者の葬場であった、と。

渡海船は、白綱で繋いだ伴船が曳航し、沖の綱切島辺りで綱を切られます。
あとは広い広い海を漂い、風に流され、波に揺られ、そして・・・。

これが、平安から鎌倉までのお話。
続く。
参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
『仏教民俗辞典』(仏教民俗学会(編)/新人物往来社)
いつも応援いただきありがとうございます。あっけらかーんっとした、浜の宮跡から補陀洛山寺に入り、真っ先に向かったのがこの補陀洛渡海に用いた再現のお船。見たかったのー。波浪注意報で横倒しになって沈没してしまいそうな小さなお船。途中で恐怖にかられ、開けてー、出してー!っと泣き叫んだ人もきっといるはず。焚身とは異なり、じわーじわーっと押し寄せる恐怖。想像するだけで怖いです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

補陀洛山寺。
山号は白華山。本尊は十一面千手観音。
本尊は国の重要文化財に指定され、伝・平安後期の作。
天台宗。
仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。

「補陀洛山寺」の初見は京都の青蓮院の12世紀から15世紀にかけての記録を集大成した『門葉記』。
この中の『妙香院荘園目録』(961年/応和元年6月5日付)に「補陀落寺領」とあります。
那智権現の末寺のひとつで、明治の神仏分離の際は、那智山の仏像仏具類は、この補陀洛山寺に移されました。
今はかなり内陸になっていますが、昔は渚がすぐそば。

お寺の前にある、浜の宮跡。

復元ながら、ぞわーんっとする、補陀洛渡海に用いたお船。
【ふだらくとかいって、何だー?】

観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。
那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。
平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。

妙法山阿弥陀寺の

火生三昧もまた、捨身行。
こちらは上照上人が衆生の為に身を犠牲にしたお話でした。
【ふだらくって、どこだー?】
こんなとこ。

滋賀県彦根市の龍澤寺「ふだらくの庭」
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住む浄土のこと。(wikipediaより)
『華厳経』では、インドの南端。日本では、南の海の果て。

確かに、南の海の果ては、那智勝浦から行くのが近いですな。

(龍澤寺「ふだらくの庭」)
「中央の島が補陀落山、一番中央の石が観音様の立姿、その右横の船の形をした石が僧侶慧萼が渡った船(現実世界と仏の世界の渡し船)、白砂は大海、砂紋はさざ波、奥の杉垣が水平線、さらに奥の生垣が雲海を表す石庭」(龍澤寺「ふだらくの庭」パンフより抜粋・引用)
この南海の彼方の補陀落を目指して船出するのが「補陀落渡海」。
那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などもまた、補陀洛渡海の霊場。
【補陀落山寺の補陀落渡海】
補陀落山寺における補陀落渡海の始まりは、「熊野年代記」によれば「清和(天皇) 貞観十(年) 戊子 十一月三日、慶龍上人補陀落に入」とあり、868年/貞観10年以降。
補陀洛山寺は補陀洛渡海へ向かう僧達の拠点となっていました。

「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に、補陀洛山寺と熊野三柱大神社と補陀洛渡海へ出航する光景が描かれています。

補陀洛渡海のお船。出航の時は白帆を立てます。
渡海僧は、小さな屋形の中へ、30日分の食料と灯火のための油と共に乗りこみます。

遊覧船ではないので、窓もなし。

そして、出て来られないように扉には外から釘を打ち込みます。
4つの鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門。

『修験道無常用集』(1745/延享2年)
墓地における葬場の見取り図ですが、葬場の四方にそれぞれ鳥居門が設置され、それぞれ、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)。
つまり、補陀落渡海は船自身が渡海する者の葬場であった、と。

渡海船は、白綱で繋いだ伴船が曳航し、沖の綱切島辺りで綱を切られます。
あとは広い広い海を漂い、風に流され、波に揺られ、そして・・・。

これが、平安から鎌倉までのお話。
続く。
参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
『仏教民俗辞典』(仏教民俗学会(編)/新人物往来社)
いつも応援いただきありがとうございます。あっけらかーんっとした、浜の宮跡から補陀洛山寺に入り、真っ先に向かったのがこの補陀洛渡海に用いた再現のお船。見たかったのー。波浪注意報で横倒しになって沈没してしまいそうな小さなお船。途中で恐怖にかられ、開けてー、出してー!っと泣き叫んだ人もきっといるはず。焚身とは異なり、じわーじわーっと押し寄せる恐怖。想像するだけで怖いです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。