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「後鳥羽院熊野御幸記」藤原定家へろへろ日記

こんにちは。



後鳥羽院の熊野御幸のご案内。

「熊野御幸記」

1201(建仁元)年10月。
22歳の後鳥羽院の3回目の熊野御幸に供奉した藤原定家、40歳。

定家の日記『名月記(明月記)』から後鳥羽院の熊野御幸に従った時のものを抄出したもので、定家の直筆本のため、国宝。

「後鳥羽院熊野御幸記」 「熊野幸庫記」「熊野御幸道之間記」「熊野詣記」などの別名があります。

22歳の後鳥羽院。インドア派の定家が何故同行したのか。

院政実力者の内大臣・源通親が熊野に随従するため、なんとか取り入って権少将から中将に官位をあげてもらおうと切望したわけで。



定家の任務は、後鳥羽院一行に先駆けて船や昼食、宿所を設営する役。



暁暗に起き出し、輿に乗り馬を馳せ、御幸の先触れや途中の王子社での御経供養や奉幣と走りまわります。

既に歌での名声はあった定家。

それ故の悲惨な事態に陥ります。
必死に供奉のお仕事を終えた夜。今度は後鳥羽院のお召しで歌会の講師。

定家、四苦八苦。あげくに失神。

へれへれになって詠んだ歌に「霜の心すでにもって髣髴(おぼろおぼろ)たり、卒爾の間、力及ばず」と傍書するほど。


【熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月】

五日 天気晴れ


白河・後白河・後鳥羽院の出発地は城南宮。

御供の人
内府(源通親)・春宮権太夫(藤原宗頼※私的なお供)・右衛門督(坊門信清)・宰相中将(西園寺公経)・三位仲経(藤原仲経)・大弐(藤原範光)・三位中将(久我通光※源通親の3男)

殿上人
保家(藤原保家)

その他
藤原保家・土御門定通(源通親の4男)・藤原忠経・源有雅・中院通方(源通親の5男)

上北面(殿上人)はほぼ全員。下北面(武士)は精撰した者。

面目は身に過ぎて恐れ多い。人はきっと毛を吹く(あらさがしする)心があるんだろな。はーあ。

今日は天王寺まで。

夜に入って、左中弁が題三首をお書きになる。明日住江殿において披講(和歌会などで作品を読み上げること)せよとのこと。

疲労している間は沈思することができないよ。寝よ寝よ。


九日 天気晴れ



朝の出立がすこぶる遅れたため、皆様は既に王子(藤代王子)の御前にて御経供養などを行なっているそうだ。

営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人が多く立っていてそこへ行けない。しもたー。


これから先の宿所をまた文儀の従者の男(定家個人の先達)の手配で取る。

件の宅は憚りがあるとのことを聞き付ける。


なんと、父の喪70日ほどで、忌中だった。


よって小宅を騒ぎ出て宿所に入った。

先達はこのようなことは憚からないとのことを言われる。

そうだといっても臨時の「潮垢離」をして、景義に祓わせた。
これは臨時の事である。



精進潔斎して生臭も絶って熊野三山に向かう旅。
喪中の家に泊まることは許されるはずがなく。

定家は穢れを取り去るため、初冬の冷たい海水で「潮垢離」をせざるを得ず、このため風邪気味になります。



この湯浅の入江の辺りは松原の景色が素敵だ。

家長が歌題2首を送る。詠吟は疲労していて、甚だ術がない。

灯りをともして以後、また立烏帽子を着けて一夜のように参上。
しばらくして蔀の内に召し入れられる。
また講師の事を仰ぐためである。終わってすぐに退出する。

題 深山紅葉 海辺冬月 愚詠。今日もまた2首当座

こゑたてぬあらしもふかき心あれや みやまのもみぢみゆき待けり

声を立てない嵐にも深い心があるのだろうか。御山の紅葉が御幸を待っていたことだ。

くもりなきはまのまさこにきみのよの かずさへ見ゆる冬の月かげ

曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢の数までもが見えるようです。
(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)

毎夜毎夜の後鳥羽院からのお呼び出し。
日記の前半では、詠まれた歌をきっちりと書き留めています。



十日

仮屋が少ないので、無縁の者は入らない。

縁のある者で小宅を占め、簡札を立っているところに、内府(内大臣。源通親)の家人が押入って宿した。


(源通親の家臣に追い出された定家)

出ずべ可ざる之由念怒すとのこと。
ただ人の身分によって不公平になるのか。

灯りをともして以後甚しく雨が降る。今夜は甚だ熱い。最も暑い時期と同じだ。帷を着る。



南国の気か。蠅が多く、また夏のようだ。


 十二日 天気晴れ

明け方に御所に参る。出御前に先陣する。
また山を越え、切部中山王子に参り、次に浜に出て磐代王子に参る。
ここは御小養のための御所であったが、入御はなし。

この拝殿の板は毎度御幸の人数を書き記される(先例とのこと)。
右中弁が番匠(大工)を召して、板を外してカンナをかける。
人数を書いて元のように打ち付けさせる。

建仁元年十月十二日
            陰陽博士晴光はいまだ参らず
            上北面はこの人数中之
            中其着無術之由
            もって左中弁が申し入れる
            可被聴上北面之由被仰下了
  御幸4度
  御先達権大僧都法印和尚位覚実
  御導師権大僧都法印和尚位公胤
  内大臣正二位兼行右近衛大将皇太弟傳源朝臣通親
  

昨夜、寒風が枕を吹き、咳病が忽ちに発し、心神甚だ苦しむ。
この宿所はまたもって荒々しい。



「潮垢離」を昨日今日の間に一度しろ、と先達が命じていたので、今日やはりこの事を遂げる。

 
十四日 天気晴れ

近露宿所に入る。


滝尻からここに至るまでゴツゴツ・デコボコの険しい山道で、目が眩み、魂が転んで恍々とした。



昨日、川を渡って、足をいささか痛める。
よってもっぱら輿に乗る。

午の時の終りころに御幸終わる。すぐに題をくださる。
また二首。


十六日 天気晴れ
(熊野本宮大社へ到着する)

明け方にまた発心門を出て、王子2(内水飲、祓殿)、祓殿から歩いて目指し、御前に参る。


(画像:熊野本宮大社の狛犬)

山川千里を過ぎ、ついに宝前に拝み奉る。

感涙が禁じがたい。

それから宿所に入り、明け方、更に祓殿に戻って参る。


この間に舞・相撲(御加持、引き出物)などが行なわれたとのこと。
その儀式は見ない。

咳病がことさら起こり、なす方なし。


心神無きがごとし。殆んど前途を遂げ難し。腹病、あげくだしなどが競い合う(T_T)

灯りがともって以後また「水垢離」。

病のせいでなす術無し。

また昼の装束(ひのしょうぞく。束帯)を着る。

先達と共に御前に参り奉幣する(私奉幣)。
その儀式は昼の御拝のようだ(公私で変わらない。幣の先は左に向けて)。

衆人の狼藉はあさましい(※経供養の事)。
次に経供養所に入る。(人が多いので西経所とのこと)。
導師が来て説法して、布施を置いた(被物1・裏物)。

次に火に滅す(炉に火がある)。
加持僧12人が来て加持し、布施を置き(貧乏により綿各7両)、退き出る。

この経所の路より宿所に入る。



病で倒れそうになるのを支えて、また御所に参る。

数刻、寒風にさらされ、病身にはなす方なし。

夜中に召し入れられる。


    
歌はおよそ尋常でなかった。希有の不思議である。

予は疲労し、病の苦しみにはなす方なし。読み上げ終わって退出。

心中なきが如し。まったくなす方なし。

満身創痍の定家に対し、後鳥羽院は元気もりもり。夜中に呼び出されるものの、もはや歌を書き留める気力も体力もない定家。
ただひたすら、しんどかった様で・・・。



十八日 天気晴れ
(熊野本宮大社から熊野新宮大社には、船で下ります)

(乗船の間の事)
明け方に宝前を拝む。川原に出て船に乗る。
宛てがいくださった船が1艘、私が個人的に雇った船が3艘、併せて4艘。

川の途中に種々の石などがある(あるものは権現の御雑物と称する)。
未の一点ころに新宮に着き奉拝。


十九日 天気晴れ

明け方に宿所を出て、また道に赴く。



輿を持って来たのでやはりこれに乗る。

未の時(午後2時頃)、那智に参着する。

(那智に御参りの事)
先ず滝殿に拝す。(輿から下りる)



険しく遠い路で、明け方から食べていないので力がない。
極めて術なし。次に御前を拝して宿所に入る。

しばらくして御幸とのこと。
日が入ったころ、宝前に参ると、御拝奉幣なさっている。

また祝師(神職)の禄を取って、次に神供を供えさせる。
別当がこれを設けて取る。

(伝供の事)
公卿が順番に取り継ぐ。一万十万等の御前。殿上人がやはり順番にこれを取り継ぐ。予も同じくこれを取る。

次に御経供養所に入御。例の布施を取り、次に験比べとのこと。
この間に私的に奉幣し、宿所に退き下がる。

夜中に御所に参り、例の和歌が終わって退き下がる(二座である、一は明日香(阿須賀神社)とのこと)。


疲労病気の間は、毎時夢のようだ。

 
二十日 明け方より雨が降る

いよいよ大雲取越えの難所。

松明がなく、夜明けを待つ間、雨が急に降る。
晴れるのを待ったが、ますます雨は強くなる。

よって営を出て(雨が強いので蓑笠で)1里ばかり行くと夜が明ける。
風雨の間、路が狭く、笠を取ることができない。

蓑笠を着、輿の中は海のようで、林宗のようだ。

1日中かけて険しい道を越える。



心中は夢のようだ。いまだこのような事に遇ったことはない。

雲トリ紫金峯は手を立てたようだ。
(手を立てたように、急峻な山だー)

(紫金を越える事)
山中にただ一宇の小さな家がある。右衛門督(藤原隆清)がこれに宿していたのだ。
予は入れ替わってそこに入り、形のような軽い食事をする。

その後、また衣裳を出し着る。ただ水中に入るようだ。この辺りで、雨が止んだ。


前後不覚。

戌の時(今の午後8時頃)頃に、本宮に着き、寝に付く。

この路の険難さは「大行路」以上だ。

記すいとまがない。

定家、とうとう日記を記すことも出来ず。

 
二十二日 天気晴れ

明け方に近露を出て、滝尻に下る。


明日三つの宿を越さなければならない。
遠路で人が多くしようがないから、今夜このように迷惑する。

峠を越えたこの辺りから、定家はスピードアップします。往きは十六日を要した道のりを帰りはわずか六日で京に戻っています。

 
二十三日  天気晴れ


今日はたまたま休息。終日寝た。


二十六日  天気晴れ

京都に帰着。様々な所へ立ち寄った後、定家は洗髪沐浴してから寝付きます。

最後のひとこと。




「今夜は魚を食す。」


 二十七日    

(道中の雑物を先達の許に送る事)
早朝、道中の雑物(日常用いる雑多なもの)をことごとく水で洗い、また雑物などを取り集めて先達の許に送る。

これは恒例のことであるとのこと。
文義がこれを指図する。


以上。定家の熊野御幸へろへろ日記でした。



定家にとっての熊野随行は、後鳥羽院と内大臣右近衛大将に接近を図り、追従をして中将への昇進を掴み取る旅であり、また熊野三山の神仏に大願成就を祈願する旅でもありました。

12月23日、除目(任官の儀式)の日。

定家のもとには何の音沙汰もなし。



熊野の神仏、無情。

ただ、この旅の後、定家は源道具ら5名とともに後鳥羽院に『新古今和歌集』の編纂を命じられ、その選者として名を残すこととなるのでした。


参考文献
『国宝 熊野御幸記』(三井記念美術館・明月記研究会共編、八木書店)


いつも応援いただきありがとうございます。藤原定家といえば、おすましさん、のイメージだったのですが、この熊野御幸随行の日記からは、ちょっとドジっ子で、お茶目さんな人物像を垣間見ることができました。それにしても、大変な熊野旅でしたよねぇ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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No title

こんにちわー!
今回の挿絵は凄いですね(笑)
熊野三山は一度は行きたいですねぇ…伊勢神宮もまだ行ったことないけど(涙)

ツアーコンダクター定家

笑っちゃ悪いんだけど、なんというか定家さんお疲れ様でした。
最後の昇進なしは傷心(はぁとぶれいく)
もう、あまりのヘロヘロぶりに、途中で死ぬんじゃないかと・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

定家直筆・・・すごいなぁ~国宝の旅日記だ^^
そして後鳥羽院がフリーダムを満喫しまくってるのが松田翔太で脳内再生してました^^

70日・・・北海道って冠婚葬祭全般的に端折るというか簡単というか。
昔はアクセスが悪くて各地に散らばっている親戚が集まるのが大変だったのもあるらしいけど、
結婚式は会費制だし
葬儀も百箇日法要まで、一日でまとめちゃうんです^^;

この時代の公家が道産子の葬祭を見たら、潔斎!方違い!Σ(´Д`;)ひぃっ
って大騒ぎすると思います^^

日記記事・お疲れ様でした^^
すっごい臨場感満点で面白かったです^^

ぽちぽちぽちーーーー☆

yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。ご無沙汰しててごめんなさい。

はーい。もう、なんのカテゴリなんだかわからなくなっておりまーす。
ほら、言うじゃありませんこと?

百聞は一見にしかず。

定家の日記の読み下し文、爆笑です。

伊勢神宮に行くなら、ついでに熊野三山。
自然信仰もあるし、狛犬さんはお茶目やし、いろんなお社の姿を堪能できます。

私はそちらへ行きたいですわよー。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

もう、思いっきり笑ってやってくださいなー。

現地の資料館でこの日記を知り、爆笑。
定家のイメージが、イメージが、イメージがががが。

院は大事にされるでしょうし、定家と違い、熊野御幸に向けて体力増強だって出来たでしょうけど。
ほんとにねぇ、定家の位でさえこれなんだから、他の皆様はもっとしんどかったのではないかと。

後鳥羽院、まさにその年代ですね。
普段から鍛えていたようなので、さぞかし楽しい旅行だったでしょね。

あ。北海道、そうなのですか。
親戚さんも遠方かぁ。そりゃまとめますねー。

んんんー?結婚式、会費制なんですか!
ほほぉー。気楽でいいですね。

院達の熊野御幸の頃は、陰陽師も活躍中。
あーでもない、こーでもない、を繰り返して、進んでます。
なので、障りに遭遇した定家の衝撃たるや。

・・・いっそこのまま、海へ。かも?

スタート地点の城南宮、現在も方違えの神社で有名です。
お引っ越しなら城南宮♪そんな感じ。

日記記事、楽しんでいただけて何よりです。
私も楽しかったです。原文が爆笑なだけに。うふふ。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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