但馬妙見日光院を襲った謎の神仏分離。簒奪される寺院
こんにちは。
但馬妙見日光院【第14回】
いよいよ、神仏分離の大波が日光院に押し寄せてくるお話のはじまりはじまり。

神仏分離
「明治維新政府の宗教政策、神仏分離令(廃仏毀釈)ほど日本人の精神や文化を切り裂いてしまった事はありません。神仏分離とは、神道を我が国の宗教とするという名目の宗教政策でした。
本来は、お寺と神社を分けることが大義名分でしたが、実際には仏教弾圧でした。日本中で取り返しのつかない悲劇が一部の国学者や神職の指導のもとに行われたのです。」(『日光院HP』より引用)
「尊王攘夷」を理念として成立した明治政府。。
その理念の裏づけとなった思想は「水戸学や後期国学や復古神道」であり、それは慶応4年の「祭政一致」の「王政復古」として実現しました。
まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。
【太政官布告】慶応四年三月十三日
「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事」
この復古主義は、明治3年にかけて「再興神祇官」の実権を「水戸学や後期国学や復古神道」を主張する者達が握ることにより、性急な神仏判然令(神仏分離)(彼等の思想からいえば当然神社復興即ち廃仏となる)を布告し、各地で神仏分離あるいは廃仏を強行することになります。

書写山園教寺の朽ちた仏像
【但馬妙見日光院へ押し寄せる波】

杵築大社(出雲大社)より移築された三重塔。

護摩堂。

本殿。
秀吉の時代に社殿を焼失するも、再建がなり、妙見菩薩は厚く信仰され、平和に過ごしていました。
【明治2年の帝釈寺(日光院)「神仏分離」の処置】
慶応四年三月十三日の「王政復古の太政官布告」は、但馬妙見日光院にも、伝えられます。
「廃仏毀釈の嵐がここ但馬妙見にも吹き荒れました。我が但馬妙見においては、妙見信仰(仏教)の否定、抹殺でした。
政府は但馬妙見日光院(妙見宮)の本尊は、『唯佛宗の佛尊に他ならず』(兵庫県史)、つまり『妙見宮帝釈寺日光院の本尊は紛れもなく仏教の仏である』としながら、当院を神社にするべく画策しました。」(『日光院HP』より引用)

当時の日光院は、妙見大菩薩を本尊とする「妙見信仰」の「寺院」。
神仏分離の対象となる神社・祭神なんて影も形もありませんので、対象外のはず。
しかし、
一、妙見大菩薩の信仰形態には神仏習合色が濃い
二、本堂本殿を「妙見宮」と号し、本殿前に鳥居があった

「妙見宮」

幕末に寄進された青銅製の鳥居
「これを神祇官や地方官庁 (国学者や復古神道家)が『神仏不判然』と見做し、『分離対象』と判断したのであろうと思われる。」
(「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_2.htm)
ない実体を、どう分離するのか。

しばらく「神仏不判然」「神仏引分相決まらず」の状況が続き、日光院は「大般若経転読」を見合せたり、配札を中止したことで稼ぎがなくなるなど、困惑しています。(『伝達方県日記』明治2年3月27日・同年4月17日)
明治2年11月9日。東京神祇官からの返書を久美浜県が帝釈寺(妙見社)に伝達。処置が下ります。
「一、但馬国養父郡妙見山帝釈寺社人井上謙次郎外壱人ヘ、先般妙見社改号之儀願出東京神祇官へ添翰致遣置候処、今般東京ヨリ帰り、仏体之儀ハ取除、白幣ニ致度儀願出候間聞届、追テ御沙汰有之様申達帰村申付候事
一、今般妙見山帝釈寺所置仏体取除之儀申付候処、代僧之事ニ付、一応住持ニ申聞度候間、暫時猶予之儀願候ニ付、当月20日迄猶予申付、右日限通之請書為差出置候事 、(略)」(「兵庫県史 資料編」『伝達方県日記(明治2年11月9日)
これにより、妙見山帝釈寺(日光院)を神社(妙見社)に強制変換する基本方針が、はっきりと示されました。

神祇官の方針
一、妙見大菩薩は仏体であることを認めるが、妙見社に改号した後は、神社なので神体に取替る。
二、神社境内・建物などは帝釈寺をそのまま転用する。
三、従って、帝釈寺(日光院)は実質廃寺となる故、住職は退山。新たに神職を選任する。
もう、無茶苦茶です。


この後、仏像を神鏡に入替、妙見山帝釈寺(日光院)は高野山本山へ引き取り、「元坊人之者共七人此度社人ニ御取立」て、その者は由緒家系を明らかにし、「苗字帯刀被差許候」となります。(『久美浜県簿書抜粋』)
【経済的基盤を奪う「上知令」】

経済的基盤があれば、何とかなると自分を励ましていたところへ。
明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。
【社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上知被仰出土地ハ府県藩ニ管轄セシムルノ件】明治4年正月5日太政官布告(旧3年庚午12月)
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘朱印地除地等従前之通被下置候所各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外一般上知被仰付追テ相当禄制相定更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
既に各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知」すべきである、という論法。
明治5年6月。豊岡県は上の布告に基づき、少属大脇文を派遣、妙見社の境内地を確定、寺所有山林500町歩余を没収します。

「妙見山寺有林全部を没収」と日光院が述べる程の規模でした。
その後、妙見山上では「帝釈寺日光院」と「妙見社」は並び立っていました。
そこへ、最後のトドメの一撃が日光院を襲います。
【名草神社になりました】
明治6年2月。豊岡県は妙見宮を「名草神社」と改称させます。

どこからわいて出たのか。

「延喜式神名帳」に、「但馬国養父郡」の「名草神社」の名前があります。
あら。昔からここにあったのかしらー?
答えは、NO。
この「名草神社」は延喜式神名帳に名前の記載がある事から、「延喜式編纂当時は存在」したものの、以降はいかなる文書にも記録がなく、廃れていたものと推察されています。
「明治6年2月には遂に強制的に妙見宮を名草神社と改称させられました。
ここに、但馬妙見日光院の歴史上初めて、お寺の中に名草神社という神社が突然発生し、名義の上で並立する事になったのです。(妙見宮 帝釈寺日光院 → 名草神社 帝釈寺日光院とされたのです。)」(『日光院HP』より引用)
明治9年7月8日。兵庫県通達。
『 名草神社
石原村鎮座妙見社之儀先官参事田中光儀失錯ニテ曩ニ名草神社帝釈寺互立処分ニ及ビ置候処客年10月25日教部省達之旨有之候ニ付今般更ニ伺ノ上断然帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事
明治9年7月8日 兵庫県権令三吉周亮代理
豊岡県権参事 大野右仲 印 』
「妙見山上に『帝釈寺日光院』と『妙見社』が並び立っていたことは、『先官参事田中光儀』の『失錯』だったので、もう一度、通達します。」と言い訳しておいてー。
「帝釈寺は廃寺」とし、名草神社は「仏像仏器を除き動不動産を悉く受け取るように」と命じます。
とうとう、帝釈寺(日光院)は、妙見山の山上から追い出され、廃寺の処分を受け、仏像仏器以外の動産・不動産を、「名草神社」に、ことごとく奪われてしまったのです。

空気を読みましょう。
つづく。
参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)
本文中「」内緑字の引用元は「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm
いつも応援いただきありがとうございます。問題なのは、神社と神宮寺の仲のように二つをぱかっと割れば済む話ではないということ。純然たる寺院の中に、全く関係のない神社を持ってきて、全てを簒奪したお話。日光院はどこの神宮寺でもない事、また、この妙見山に名草神社が存在した記録はない事、この二つがポイントです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
但馬妙見日光院【第14回】
いよいよ、神仏分離の大波が日光院に押し寄せてくるお話のはじまりはじまり。

神仏分離
「明治維新政府の宗教政策、神仏分離令(廃仏毀釈)ほど日本人の精神や文化を切り裂いてしまった事はありません。神仏分離とは、神道を我が国の宗教とするという名目の宗教政策でした。
本来は、お寺と神社を分けることが大義名分でしたが、実際には仏教弾圧でした。日本中で取り返しのつかない悲劇が一部の国学者や神職の指導のもとに行われたのです。」(『日光院HP』より引用)
「尊王攘夷」を理念として成立した明治政府。。
その理念の裏づけとなった思想は「水戸学や後期国学や復古神道」であり、それは慶応4年の「祭政一致」の「王政復古」として実現しました。
まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。
【太政官布告】慶応四年三月十三日
「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事」
この復古主義は、明治3年にかけて「再興神祇官」の実権を「水戸学や後期国学や復古神道」を主張する者達が握ることにより、性急な神仏判然令(神仏分離)(彼等の思想からいえば当然神社復興即ち廃仏となる)を布告し、各地で神仏分離あるいは廃仏を強行することになります。

書写山園教寺の朽ちた仏像
【但馬妙見日光院へ押し寄せる波】

杵築大社(出雲大社)より移築された三重塔。

護摩堂。

本殿。
秀吉の時代に社殿を焼失するも、再建がなり、妙見菩薩は厚く信仰され、平和に過ごしていました。
【明治2年の帝釈寺(日光院)「神仏分離」の処置】
慶応四年三月十三日の「王政復古の太政官布告」は、但馬妙見日光院にも、伝えられます。
「廃仏毀釈の嵐がここ但馬妙見にも吹き荒れました。我が但馬妙見においては、妙見信仰(仏教)の否定、抹殺でした。
政府は但馬妙見日光院(妙見宮)の本尊は、『唯佛宗の佛尊に他ならず』(兵庫県史)、つまり『妙見宮帝釈寺日光院の本尊は紛れもなく仏教の仏である』としながら、当院を神社にするべく画策しました。」(『日光院HP』より引用)

当時の日光院は、妙見大菩薩を本尊とする「妙見信仰」の「寺院」。
神仏分離の対象となる神社・祭神なんて影も形もありませんので、対象外のはず。
しかし、
一、妙見大菩薩の信仰形態には神仏習合色が濃い
二、本堂本殿を「妙見宮」と号し、本殿前に鳥居があった

「妙見宮」

幕末に寄進された青銅製の鳥居
「これを神祇官や地方官庁 (国学者や復古神道家)が『神仏不判然』と見做し、『分離対象』と判断したのであろうと思われる。」
(「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_2.htm)
ない実体を、どう分離するのか。

しばらく「神仏不判然」「神仏引分相決まらず」の状況が続き、日光院は「大般若経転読」を見合せたり、配札を中止したことで稼ぎがなくなるなど、困惑しています。(『伝達方県日記』明治2年3月27日・同年4月17日)
明治2年11月9日。東京神祇官からの返書を久美浜県が帝釈寺(妙見社)に伝達。処置が下ります。
「一、但馬国養父郡妙見山帝釈寺社人井上謙次郎外壱人ヘ、先般妙見社改号之儀願出東京神祇官へ添翰致遣置候処、今般東京ヨリ帰り、仏体之儀ハ取除、白幣ニ致度儀願出候間聞届、追テ御沙汰有之様申達帰村申付候事
一、今般妙見山帝釈寺所置仏体取除之儀申付候処、代僧之事ニ付、一応住持ニ申聞度候間、暫時猶予之儀願候ニ付、当月20日迄猶予申付、右日限通之請書為差出置候事 、(略)」(「兵庫県史 資料編」『伝達方県日記(明治2年11月9日)
これにより、妙見山帝釈寺(日光院)を神社(妙見社)に強制変換する基本方針が、はっきりと示されました。

神祇官の方針
一、妙見大菩薩は仏体であることを認めるが、妙見社に改号した後は、神社なので神体に取替る。
二、神社境内・建物などは帝釈寺をそのまま転用する。
三、従って、帝釈寺(日光院)は実質廃寺となる故、住職は退山。新たに神職を選任する。
もう、無茶苦茶です。


この後、仏像を神鏡に入替、妙見山帝釈寺(日光院)は高野山本山へ引き取り、「元坊人之者共七人此度社人ニ御取立」て、その者は由緒家系を明らかにし、「苗字帯刀被差許候」となります。(『久美浜県簿書抜粋』)
【経済的基盤を奪う「上知令」】

経済的基盤があれば、何とかなると自分を励ましていたところへ。
明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。
【社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上知被仰出土地ハ府県藩ニ管轄セシムルノ件】明治4年正月5日太政官布告(旧3年庚午12月)
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘朱印地除地等従前之通被下置候所各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外一般上知被仰付追テ相当禄制相定更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
既に各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知」すべきである、という論法。
明治5年6月。豊岡県は上の布告に基づき、少属大脇文を派遣、妙見社の境内地を確定、寺所有山林500町歩余を没収します。

「妙見山寺有林全部を没収」と日光院が述べる程の規模でした。
その後、妙見山上では「帝釈寺日光院」と「妙見社」は並び立っていました。
そこへ、最後のトドメの一撃が日光院を襲います。
【名草神社になりました】
明治6年2月。豊岡県は妙見宮を「名草神社」と改称させます。

どこからわいて出たのか。

「延喜式神名帳」に、「但馬国養父郡」の「名草神社」の名前があります。
あら。昔からここにあったのかしらー?
答えは、NO。
この「名草神社」は延喜式神名帳に名前の記載がある事から、「延喜式編纂当時は存在」したものの、以降はいかなる文書にも記録がなく、廃れていたものと推察されています。
「明治6年2月には遂に強制的に妙見宮を名草神社と改称させられました。
ここに、但馬妙見日光院の歴史上初めて、お寺の中に名草神社という神社が突然発生し、名義の上で並立する事になったのです。(妙見宮 帝釈寺日光院 → 名草神社 帝釈寺日光院とされたのです。)」(『日光院HP』より引用)
明治9年7月8日。兵庫県通達。
『 名草神社
石原村鎮座妙見社之儀先官参事田中光儀失錯ニテ曩ニ名草神社帝釈寺互立処分ニ及ビ置候処客年10月25日教部省達之旨有之候ニ付今般更ニ伺ノ上断然帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事
明治9年7月8日 兵庫県権令三吉周亮代理
豊岡県権参事 大野右仲 印 』
「妙見山上に『帝釈寺日光院』と『妙見社』が並び立っていたことは、『先官参事田中光儀』の『失錯』だったので、もう一度、通達します。」と言い訳しておいてー。
「帝釈寺は廃寺」とし、名草神社は「仏像仏器を除き動不動産を悉く受け取るように」と命じます。
とうとう、帝釈寺(日光院)は、妙見山の山上から追い出され、廃寺の処分を受け、仏像仏器以外の動産・不動産を、「名草神社」に、ことごとく奪われてしまったのです。

空気を読みましょう。
つづく。
参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)
本文中「」内緑字の引用元は「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm
いつも応援いただきありがとうございます。問題なのは、神社と神宮寺の仲のように二つをぱかっと割れば済む話ではないということ。純然たる寺院の中に、全く関係のない神社を持ってきて、全てを簒奪したお話。日光院はどこの神宮寺でもない事、また、この妙見山に名草神社が存在した記録はない事、この二つがポイントです。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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