三重塔は出雲大社から日光院へ。出雲大社の神仏分離

こんにちは。

但馬妙見日光院【第4回】


えんやーとっと~っと山道を走り


樹齢数百年以上の妙見杉の林を抜けて


わっくわっくしながら参道を上ると


見えてきました。


ああ、なんて素敵なの。

三重塔はあちこちにあれど、

一、神社に存在(名草神社)
二、標高800mの山の中
三、かつて杵築神社(現・出雲大社)のものだった
四、日光院の歴史的背景

等から、ほんとに会いたかったのです。感無量。


【いつからここに】



但馬妙見日光院のHPより

「日光院が隆盛をきわめていた江戸時代、出雲大社では両部時代から唯一神道に復帰する時期を迎えました。いわゆる寛文の御造営です。神殿のご用材を全国各地に探し求めましたところ『日光院の妙見杉』に白羽の矢がたちました。」



「第三十六世快遍阿闍梨は『出雲大社のためならご本尊妙見大菩薩もお喜びになるでしょう』と快く引き受けました。同時に出雲大社の境内にありました三重塔を取り壊す計画を知り、『日光院も塔を建立する予定です。仏教にとっては重要なものですので是非お譲り頂きたい』と申し出たところ、逆に快くお譲りいただいたのであります。」(引用終わり)


1527(大永7)年。尼子経久、出雲杵築大社に三重塔を建立(竣工は翌年)。

寛文年中(1661-1673)。杵築大社(現・出雲大社)の神仏分離により、杵築大社から帝釈寺(日光院)へ譲渡され、移築される。


【背景・杵築大社(出雲大社)の背景】

(この項の参考文献は「出雲大社紫野教会HP」http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-013.html)


全国的に強制的に神仏分離が行われたのは、明治。



ところが杵築大社(出雲大社)では、既に江戸時代前期に行われていたのです。

仏教を広める手段のひとつとして「神様は読経を聞くと喜ぶ」という話を元に、寺院に「その土地の神様を祀る神社」(清水寺の京都地主神社等)が出来、次に「神は仏の仮の姿である」という神仏習合思想が広まり、神社に寺が出来るようになります。


実権が朝廷から武家に移るにつれ、寺院側の力が増す状況に苦悩する神主も増加。

中世には大社と天台宗鍔淵寺との関係が深まり、鍔淵寺は「別当」に相当する地位にまで着き、神前で読経する事が増加。


尼子経久の永正(1504-21)の造営ではさらに佛教色が強まり、大日堂・三重塔・輪蔵を建立。


初層。

三重塔は1528(大永8)年竣工。


とまと、じゃない。

釈迦・文殊・普賢の三尊が安置され、外には彫刻が施され丹青の漆が塗られていました。


読めない。


江戸時代四代将軍徳川家綱の時代。

出雲国造千家尊光は、松江藩主松平直政の支援を得て大改革を断行します。

「寛文の造営」です。

徳川幕府も50万両を奉納して援助しています。

そして、神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社殿を高さ80尺という古来の正殿式に復興して1667(寛文7)年にはほぼ現在と同規模の威容が完成しました。


この時、杵築神社(出雲大社)の中にどれ程の仏教に関係するものがあったのか。


赤丸が三重塔。

『三重塔は但馬の妙見山日光院に移されて今は重文となり、鐘楼・撞鐘・護摩堂および大日如来・観音菩薩・弁財天・不動尊の像は松林寺に移され、三光国師の像は西蓮寺に、釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の像や輪蔵・一切教は神光寺に、聖殿および六観音は神宮寺に移し、境内から一切の仏教的な色彩を除去した』(『出雲大社(第2版)』 千家尊統 著/学生社)

実に多くのものがあったのですね。


このように、杵築大社(出雲大社)は「一足早く江戸時代に神仏分離を行った」のです。

この時の記録が「寛文御造営日記」。



三重塔は仏教の象徴となる建物のため、杵築大社(出雲大社)では取り壊す予定だったのです。


日光院第五十一世祐親大僧正が昭和28年に出雲大社に書簡をおくり、その返答として出雲大社考証課長(出雲大社古文書等の研究の責任者)の矢田豊雄より、「出雲大社から日光院に三重塔が贈られたこと」を記録した書簡が残ります(八鹿町指定文化財)。

「日光院 森田祐親殿

 当神社寛文造営の際、但馬妙見山日光院より、本殿の御用材を購入し大永時代尼子恒久の建立せし当社境内にありし三重塔を妙見山日光院へ送りしこと事実相違無之候。  出雲大社考証課長 矢田 豊雄」




なんだー?


つづく


日光院
《住所》兵庫県養父市八鹿町石原450番地


参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)


いつも応援いただきありがとうございます。標高800mに建つ三重塔。「塔」とは、お釈迦様の遺骨「舎利」をお祀りすることに始まった仏教の象徴的な建造物。神仏分離を進める出雲大社においてこれ以上目障りなものはなかったのでしょうね。藩主松平直政と思惑が一致、そしてタッグを組むとは、さすが出雲国造千家さんです。
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No title

おはようございます。
軒下・・・フライングしちゃったんですね。でもやっぱりよく見えない。気になるーぴゃー

本地垂迹説は難しい・・・。

こんばんは。
各地にありました神宮寺。大阪の住吉大社は址だけになつてゐたりで、折角、建てたのを壊すのはもつたいないと思つたりします。
さうしたなか、こちらの三重塔は貴重ですね。いや、ほんたうに素晴らしい。これも釈迦如来三尊の功徳の賜物ですね。

大興奮!!!!

ミニトマトが可愛い・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

おお~前回は、てっきり明治の神仏分離と早とちりしたまま、ガッツリなコメントしてました。Σ(´Д`;)アワワ
前記事コメの専門バカの戯言は全力でスルーしてくださいませ♪

神社側からの神仏分離って初めて聞きました。
さすが出雲国造氏族嫡流家!川* ̄д ̄*川ポッ 

>実権が朝廷から武家に移るにつれ、寺院側の力が増す状況に苦悩する神主も増加

(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
流れとして判る気がします。
自分は日本の習俗としては「神様が先」と考えてるんです(←超単純な発想で理屈なし)
で、権威ある鎮守orナントカ国一宮ってクラスになると別当寺座主と神社の座主は兼務が多い(と思う)

つまり戦国期くらいまでは、カードでいうと表が神社で裏が寺だったんです。
ところがです。どうも江戸期くらいから逆転現象が起きてるっぽい。
実は、自分の本業研究の肥前が「そう」なんです。
肥前国一の宮が川上社(戦国期の呼称)で、別当寺は実相院で、どっちも座主は兼務。

人々の尊崇を集めていた川上社ですが、江戸期は別当寺である実相院の方が隆盛で、川上社の方が裏?みたいな感じになってる気配があります。
もちろん基本として大事にはされてるんですけど、戦国期と江戸期では「ナニカガ チガウ」んです。
寺社関係の文書は、貸与&コピー不可で閲覧も制限かかってる有様なんで、どう違うのか史料的に確認とれないままでいます(_´Д`)アイーン

おそらくなんですが、徳川幕府の宗教政策が神社と寺院の立ち位置逆転現象の決定打として関わってるかと思うんだけど、
いかんせんテーマが巨大すぎて自分如きでは扱えないので疑問のまま引き出しにしまってました^^;

神社からの神仏分離、その象徴たる三重塔。
なんてドラマチックなんでしょう!!
もはや絵文字を出す余裕もないくらい感激・感動ものです!!

直接に観る事が出来た つねまる様が羨ましい!!
あぁ~~また長文になってすいません!
とにかく興奮しちゃってます~御容赦をポチポチポチーーーー

鍵コメ様

こんにちは。本当に日々お世話になりました。

なんとなく残される気持ちで寂しいです。
新しい記事を拝見しましたよー。とてもかわいいですね。うふふ。

落ち着かれたらまたよろしくお願い申し上げます。

yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。いつも、まずは驚きつつ、拝見してます。面白いですわ、いろんなものが。

フライングじゃないですよー。ほんとは書くつもりで用意したんですが、もー、眠くて眠くて。

目を覚ましたら、明るい。ぴゃー。

んふふ。お楽しみにー。

橘右近大夫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。す、すみません。寝てしまってて。

政府が強硬だろうと嘘も方便。突如現れた国学者の突っ込み所満載の詭弁に、屁理屈こねて残す気概のある僧侶はおらんかったのかと思います。

功徳の賜物は現世の人々の努力の証ではなかろうかと、神社に残るお寺の気配を探しつつ。

いろいろ調べるうちに、眠くなって、ぐぅー。

時乃★栞様、どうどう

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。んふふ。だいこーふん、ありがとうございます♪

あ、いえいえ、前記事コメントは、ありがたいです。全力で拝見してます。鼻息荒く「んふっ」なお返事。

何事にもまず知識なき実行は無力だと思います。
どーしましょ、ねぇ、奥さん、困ったわねぇ、ではあかん。

出雲国造氏の公家の如き(根回し)交渉力、そして、松平直政が藩主となった幸運とそれを巧みに使う実行力の裏には、長年蓄積してきた出雲国造家の深い見識があってこそ。

出雲大社の神仏分離は、絶好の機会でしたね。

恐らく、もはや、卵が先かひよこが先か、そんな状態だったのでは。

神仏習合となって神職と僧侶が仲良しかというと、出雲大社では「そうでもない」と言っています。

「なんで仏前で祝詞を奉上せにゃならんのよー!」「にゃにおー!じゃぁ聞くけど、ほんまに神様はお経が好きなんかー!?」とか、そりゃ、あるでしょう。

特に、ほら、出雲大社ですから。


ご存じの通り、徳川幕府はキリスト教禁止令を発布しますが、これには
寺請制度が伴いますね。

はじめは転びキリシタンに「寺請証文(寺手形)」を書かせていたのが狭義寺請制度。

広義寺請制度では、国民は、全て仏教徒となる義務を負い、お寺は幕府の管理下で民衆を管理する義務を負います。

これが、荘園制が崩壊して郷村が成立してきた時勢にぴったりときた。
はじめは末端の庶民にまで関わっていられない幕府の統制に有意義であった制度です。

「某は※※寺に属してます」というノート(宗門人別帳)は、戸籍に等しく、人々の移動には証文(寺請証文)というパスポートが必要でした。

よって、庶民側は、必ずお寺に属す義務がある代わりに、お寺に属せば「仏教の檀信徒である」ことの証明、つまり身分保証を得る権利が得られたわけです。

パスポートのない人は、キリシタンちゃうか?とか、日本国民ではありません(無宿人)から、知りませんよ、っとなり。

義務を果たさねば権利は与えられず。あたりまえです。

お寺は、檀信徒を管理する義務を負い、代わりに信徒の仏事を独占し安定収入を得ます。

幕府による寺請制度・本末制度・新寺建立禁止令発布により、所謂「檀家制度」がますます強化され、お寺は、うっはうっはー♪な時代を迎えます。

幕府側も様々な生活指導的なふにゃけた法令を出しますが、既得権益はそうそう手放すものではありません。

これが、明治の廃仏毀釈運動として爆発するんですな。


面倒ですが、郷土史本の下巻辺りを見ると、神社はどこいった?と思うほど。戸籍握らず権威のみ残った神社は苦難。

ですかな。

日本は藤原不比等の時代より、何事も、まず、法律から。
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つねまる

Author:つねまる
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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