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但馬妙見日光院。秀吉に焼かれても負けないわ

こんにちは。

但馬妙見日光院【第3回】


妙見信仰の象徴。北斗七星。


日光院山門の七曜紋。

北極星は妙見菩薩として具現化され、弓箭守護の仏天として尊崇を受け、武家では武神として崇敬。

千葉氏、九鬼氏、信濃の海野氏等が七曜紋を家紋として用いています。


日光院に伝わるのは、

1269(文永6)年から1579(天正7)年間の寄進状を含む「日光院文書」。

1445(文安2)年に山名宗全(但馬守護・山名持豊)と山名四天王が祈願状を納めたこと等、垣屋・八木・太田垣氏など但馬の有力武将たちの祈願所であり、武家をはじめとする諸国信者の寄進が相次いだ事が、この文書により判明しています。




妙見大菩薩の「現世利益を本誓」とする妙見信仰の中心、日光院。

日光院の荘園は、因幡、播州、但馬、丹後、丹波の五郡に広がり、「一千町歩の妙見山」と称されたといいます。


日光院のHPには、こう書かれています。

「盛隆を極めた頃には、塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十カ寺を有し、別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院を有し、石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場でありました。

まさに日域伽藍開基記に示すが如くであります。

霊符縁起に『日本三妙見とは但馬国石原妙見、肥後国八代妙見、下総国相馬妙見をいう』と伝えられていることは、誠に所以あるといわねばならないでしょう。」(以上引用終わり)



これほど隆盛を極めた日光院ですが、時は戦国。

妙見山のすぐ南には、八木城。

「山名四天王」のひとり、八木城主八木氏は山名氏の勢力が衰えるとしだいに毛利氏に近付きます。

しかし、1577(天正5)年と1580(天正8)年の2度にわたる羽柴軍の但馬攻めによって15代八木豊信は降伏。


(画像:八木氏菩提寺の今滝寺仁王門)

あらー。


1577(天正5)年。

本格化する毛利氏の播磨侵攻に対し織田信長は、羽柴秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始。


秀吉の山陰攻めの兵火により、妙見尊本殿、薬師本堂のみを残して焼失。



万事休す。


で、日光院は。

高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨が日光院第35世を兼務、その弟子快遍阿闍梨を第36世として復興に尽力。


日光院は高野山真言宗に属しています。

1632(寛永9)年。「奥の院」に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興。

一方、旧寺域には「成就院」のみを復興。
旧伽藍域の経営にあたらせました。


1648(慶安元)年。三代将軍・徳川家光より「御朱印地三十石」を賜わります。


この隆盛を極めた江戸時代。


寛文年代に、出雲大社から三重塔が移築されます。(出雲大社所蔵『寛文御造営日記』)

現存しています。見に行ってみましょー。



「西方五十丁山上に奥の院」


奥の院までの五十丁の間は、一丁毎にお地蔵様が置かれていたので、総勢50人。
現在は日光院に集合。


(★)おおお。


(★)三重塔は、1655(寛文5)年1月・出雲大社にて解体、5月当地へ上がり9月移築。


よくこれだけのものを一旦解体して再築したものです。



★拝殿

1688(元禄元)年5月から翌年6月、建立(棟札による)。


★本殿

1754(宝暦4)年、建立。第40世四十世宝潤による。


★割拝殿と本殿


一方、旧寺域には「成就院」のみを復興。
旧伽藍域の経営にあたらせました。


日光院拝殿(護摩堂)

慈性法親王は「妙見宮」と題する巨額を日光院に寄進。



これは妙見大菩薩の霊場である日光院を「妙見宮」と称したためですが、全国の妙見信仰の霊場は同様に妙見宮と言われていたとのこと。

このように、徳川時代には雄大な妙見全山を伽藍とする山陰随一の名刹となりました。



妙見信仰の霊場・日光院。素敵なところでした。


この先には、「式内社・名草神社」があるというので、立ち寄ってみます。



あれれ?この道はいつか来た道。


あなた、さっき会いました。


はい、聞きました。


・・・さっき、再建したお話の時に来ました。

狛ちゃん、「今日からここが日光院です」と言ってましたよー。



おっかしいなー。なんで名草神社に日光院が?


秀吉による焼失から立ち直り、平和に過ごしていた日光院。


そこに明治になって襲ってきたのが


どえらい荒波。


日光院のHPに曰く

「明治6年2月には遂に強制的に妙見宮を名草神社と改称させられました。ここに、但馬妙見日光院の歴史上初めて、お寺の中に名草神社という神社が突然発生し、名義の上で並立する事になったのです。(妙見宮 帝釈寺日光院 → 名草神社 帝釈寺日光院とされたのです。)
 
こうして政府は、敢えて本尊妙見大菩薩を妙見信仰とは全く無縁の名草彦命と称し、日光院を名草神社としようとしたのです」(以上引用終わり)



あらまあ。

先程「1632(寛永9)年。『奥の院』に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興。」したよーっと載せた画像で、「★」の付いたものは、全て名草神社に現存する社殿。

どうやらここも、「毎度おなじみ~廃仏毀釈でぇございまぁす」のお話がありそうです。



・・・うーむ。頭痛で頭がいたい。


日光院
《住所》兵庫県養父市八鹿町石原450番地

参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)


いつも応援いただきありがとうございます。丹波では光秀ファイヤーでしたが、こちらは秀吉ファイヤー。焼失した1577(天正5)年の播磨攻めの頃には「石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場」という偉容を誇っていたといいますが、比叡山延暦寺や高野山のように僧兵でもいたのでしょうか。日光院と名草神社。ゆっくりお付き合い下さいねー。
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No title

こんにちわ♪
新緑に赤が映えて、いい雰囲気の三重塔ですね。出雲から運ぶのも大変だったんでしょうね。軒下にいるのは力士さんかな?

「秀吉、お前もか・・・。」byカエサル

こんばんは。いつも楽しく勉強になる記事をありがたうございます。

妙見さんは不思議な菩薩様ですね。日本人の柔軟性が色濃くでてゐるやうな感じだと思ひました。
源頼義が安倍貞任を討つたり、平良文が平将門との戦ひに勝利したりと、何かと武人に御利益の多い菩薩様ですね。
新コーナーが出来た回の秩父神社などでは神仏分離後に「天之御中主神」になつた例が多いやうに感じましたが、「名草彦命」とは、どのやうな神様なのでせうか。

yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。ぬんっと角が生えた狛犬さん、かわいかったですねー。

こちらの三重塔、ほんとに美しくて。うっとりしました。
出雲大社から但馬、海路でせっせと運んだようです。

しかし、一旦解体しないといけませんしねー。
組み立てる時に、「あれ?なんか、余ったよー」ってな事態にならなかったのかと細かい部材を眺めつつ余計な心配。

軒下に着目。さすがでございますことよー。んふふふふ。

橘右近大夫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。新コーナー、楽しみにしてます。

妙見さんに行き詰まり、お絵描きで奮起したものの、話が散らかってしまって、どうしたもんかと頭痛が痛いです。

>源頼義が安倍貞任を討つたり、平良文が平将門との戦ひに勝利したりと、何かと武人に御利益の多い菩薩様ですね。

おおおお。フォローありがとうございます。
もはやこのお話すら頭の外にすっ飛んでいってしまっております。

そもそも、「天之御中主神」がわからなくてわからなくて、熊野の旅で訪れたお社を放置したぐらいですしー。

天之御中主神と妙見菩薩との共通点を見出してひねり出して、祭神様に持ってきた気がします。

名草彦命、なんでここにわいて出たー?

呆れ返るばかりのお粗末な事情がありそうです。

No title

三重塔、綺麗^^
移築して元通りって現代でも大変なのに機械がない時代に凄い^^

なんだか今の所属とかで手繰ると逆に混乱しそう^^;

>僧兵でもいたのでしょうか

うーん、どうだろう。社人が武士化してたかも。
このあたり一帯の武家が大事にしてて、一番の大檀那が山名氏になるのかな?

社人や宮司とか一氏の系統が武家化したのと違って、みんなでワッショイ神社は推戴してた勢力が分散しちゃうと、チラ見検索程度じゃ往時の詳細が判らない^^;

とにかく何処の古刹もなんだけど、神社と仏教が同じだった頃が、辿り辛いように判りずらいようにってなってる。
だから、一次史料、江戸期二次史料を掘り下げて掘り下げて手繰らないとです。
自分の本業の肥前の方でも、どこと何処が神社と別当寺の関係だったか~って言うのは地元でない人には判り辛いです^^;

秀吉がファイアーするってことは、但馬妙見は山名氏サイドとして何がしかの協力関係だったかと・・・

人々の尊崇する神様は、敵として排除することなく自分の方に取り込み融和させるのが日本方式。
でも「敵対する勢力の祭祀を徹底して破壊する」パターンを方途として用いる場合があります。
代表的なのが信長の比叡山焼き討ちとかです。

つまり、あまりにも広範囲に人々から深く長く尊崇されているために、守護職や戦国大名といった現世(うつしよ)における勢力を倒しただけじゃ根本的な解決にならないからです。根こそぎするしかない。

そういう意味では、人間って業が深いのかもしれませんね^^
ぽちぽちぽちーーー☆

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。連日寝てしまったんで、ごめんなさい。

三重塔、見事ですよねぇ。やはり釘を使ってないのかなー、だから移築させても大丈夫なんかなーっと、うっとりしてました。

日光院含め10程の塔頭があったといいますし、妙見信仰の隆盛と共にこの地方では大きな勢力となっていたと思います。

都に近い世渡りの上手な人がお寺にいたら、一大宗教都市となったかもしれません。そんな勢いを感じます。

山名氏の祈願所であるなら、彼等に従う諸々の人々の崇敬も集めていたでしょうしねぇ。

後述しますが、名草神社の祭神に「天御中主神」が登場します。
各氏の祈願所であったお寺から、明治のアレで神社にされた時に突如登場する祭神名として、キーワードです。

熊野でものすごくかわいい狛犬ちゃんのお社があったんですが、祭神が天御中主神で、由緒が意味不明。お蔵入りしてます。

時乃★栞様のお話のように、敵方の根本、或いは精神的な支え・基盤となる寺社勢力を排除しないと、敵対勢力を叩き潰すことにはならないんでしょうね。

これは世界史でも同じですねぇ。
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